第9回リアぺのQ&A
🐪 言語行為論関係
Q. 発語内行為については、言葉を発しながらそれに意味を付与していると理解した。例えば、「もうご飯食べた?」だとすると、時によって純粋な確認になったり、食べてないなら一緒に食べたいという勧誘であったりする。しかし、言語行為論については具体例がなかったためいまいちよくわからなかった。くくりとしては、言語行為論>発話内行為>主張型の発話内行為(ノンフィクション)ということだろうが、それでは発話内行為以外にも言語行為論の下位に位置するものがあるのだろうか。
A. 「意味」でもいいですが、正確には力(force)が作り出されるということです。言語行為の下位区分として発語内行為とセットで挙げられるのは、発語行為と発語媒介行為ですね。とはいえ、言語行為論の主なターゲットは発語内行為だと思います。「発語行為/発語内行為/発語媒介行為」の区分はオースティンによるものですが、発語内行為と発語媒介行為の区別はとくにわかりづらいので以下を読まれるのをおすすめします。例もいろいろあります。
オースティン『言語と行為』飯野訳、講談社学術文庫、2019年、第8~10講
Q. また、発話者が真だと思っていない内容を主張して信じてもらおうとすることを嘘と呼んでいたが、それでは、実は真ではないけど自分は本当に真であると考えているものを主張した場合はそれは嘘になるのか、それともノンフィクションになるのか。
A. それはちゃんとした誠実な主張ですね。そしてれっきとした主張が間違うことはふつうにあります。
Q. 態度・感情の表明の例としてあげられている「とらちゃんに会えてうれしい」という文章も、発話者が態度・感情の表明としてではなくとらちゃんに会えてうれしいと思っていることが真であるとを相手に信じさせようとしている場合は主張として捉えられるという理解でよいでしょうか。
A. はい。それでよいです。
🐪 フィクションの標準理論関係
Q. 画像制作時の意図ではなく、画像提示時の意図でフィクションかノンフィクションかが決まるという話だと今日の授業内容を理解しました。そのうえで、何らかの画像が何の意図も伴わずに提示された場合(たとえば路上で何らかの風景画を拾うという出来事があった場合)、その画像は(意図が不明なので)フィクションでもノンフィクションでもないということになるのかどうかが気になりました。
A. どちらでもない表象でいいと思います。
Q. 語用論的アプローチの標準理論で、主張と虚構構成的発話の違いとはbelieveとmake-believeの違いということだったが、これはどのように判断するのか、客観的に判断できるのだろうかと疑問に思った。
A. 「客観的」というのでどういう基準を想定されているのかわかりませんが、一方の解釈を正当化できるケースは多いでしょうね。
Q. 歴史記述はノンフィクションの文章の具体例として挙げられていたが、歴史記述の中にはその内容が正しいか否か立証するのが難しいものも多いと思う。内容の真偽に関係なく歴史記述はすべてノンフィクションの文章であるのか疑問に思った。
A. 標準理論(語用論的アプローチ)によれば、フィクションか否かは真偽の問題ではないです。真偽や実在/非実在を問題にするのは、意味論的アプローチです。
Q. 画像がフィクションかノンフィクションかは「使われ方」次第だというのがとても興味深く感じました。つまり、その画像がフィクションか否かは言葉とセットにして使って初めて決定されるということで、画像だけが存在するときはそれはフィクションでもノンフィクションでもないことがとても面白く感じました。そうなると、フィクションの画像もしくはノンフィクションの画像というのは論理上存在しない(その状況に限定される形で決定されるから)ということになるのでしょうか。
A. 言葉によらずとも文脈でそれとわかれば十分です。たとえば、映画を見るときに「これはフィクションです」という言葉による明示があってもなくてもフィクションであることはわかるでしょうし、ニュース番組であることを知っていればノンフィクションであることはわかるでしょう。標準理論にしたがうかぎり、ある画像がフィクションかノンフィクションかは内在的には(つまりその画像そのものが持つ特徴としては)判別できないと言っていいですが、作者の意図や受容する共同体がその画像をどう扱うかによって、フィクションあるいはノンフィクションという身分が安定していることはあります。
Q. 画像を用いた主張の場合に言語表象と同じように真偽が言えるのだろうかと疑問に思いました。真偽のいずれかに断定するのが難しく、程度問題になってしまったり、受け手によって判断が変わってきたりする場合も少なくないように感じました。
A. その通りですね。言語の抽象度もそれなりにあいまいで発話者の言いたいことを適切に理解するには空気を読む必要がありますが(「商品Pはそこになければないですね」は「商品Pに属する個体はそこになければこの店にはない」を意味するのであって、「商品Pはそこになければ世界に存在しない」を意味しているわけではない)、画像の抽象度はさらに解釈しうる抽象度の幅が大きいと言われることがあります。受け手によって違うから難しいというよりは、コミュニケーション一般の難しさですが、理論的に説明するのは困難にせよ、意図の伝達自体はわれわれが普段実際にやっていることであって、実践上の難しさはそこまでないと思っています。コミュニケーションについての理論的な研究としてはグライス『論理と会話』やスペルベル/ウィルソン『関連性理論』などが代表的です。
Q. 画像においてフィクション・ノンフィクション理論が適用できるかという話からは少しそれるかもしれませんが、一つ思ったことがあります。マンガを例に取ります。マンガを読んだ人の感想の中で、しばしば「この点は矛盾している、おかしい」と言っているものが見受けられます。それは、世界設定との矛盾から、キャラの行動、物理法則の矛盾など様々です(授業で紹介された『いじめ』のデフォル目とは少し違うかもしれません)。しかし一方でギャグマンガでは、おそらくそういった感想が寄せられることはほとんどないでしょう。また、リアルなヒューマンストーリーを描いたマンガでも、いわゆるマンガ的表現(コマを突き抜けて人物が描かれるなど)の矛盾を指摘する人はいません。つまり、何が言いたいかというと、一般的にフィクションを描くとされるマンガでも、その設定(つまり使い方ということになるのでしょうか)によってフィクション的に受け取るかノンフィクション的に受け取るかが変わってくるし、設定のやり方を誤ると作者がフィクションとして提示しようとしたものでも、読者からは一部ノンフィクション的に受け取られてしまう表現もあるのではないかということです。
A. フィクション/ノンフィクションの区別と、フィクションのリアリスティックさの度合の違い(およびそれに関するフィクションジャンルごと(あるいは鑑賞者ごと)の許容度の違い)は完全に別の話です。ご提示のケースは後者の話題に属するものだと思います。
Q. フィクションとノンフィクションの境界例に関して。『栄花物語』や『平家物語』といった日本の歴史物語・軍記物語は、フィクションとノンフィクションのどちらにあたるのか、非常に微妙な気がする。
A. 微妙ですね。ギリシア神話なども微妙な例としてよく引かれますが、むかしはノンフィクションだったがいまはフィクションというのも標準理論では一応許容されます。
Q. 画像のフィクション性、ノンフィクション性というのがうまくつかみきれなかったのですが、これらは画像の描写内容が事実かどうかというのには関係がなく、その画像が「主張」をしているのかそれとも「虚構構成的発話」をしているのかで決定されているという理解で大丈夫でしょうか。
A. 「フィクション性」「ノンフィクション性」という言い方はしていませんが、内容はその理解で大丈夫です(「画像が」というよりは「画像の使用者が」というほうが正確ですが)。
Q.
虚構構成的発話は必ずしも主張の亜種ではないと思いました。というのも、そうした発話は他者を前提としない形で成立することがあり、それは主張型の発話行為には沿わないからです。他者を前提としない発話として、日記を例に挙げます。別の自分(時空間的に、心理的に...)を他者に含んだとしても同様に言うことができます。何かを刻みつけることそれ自体のために書く、という状況を少なくとも書き手の次元で体験することがあります。物語発話それ自体は、多分にこのような性格を有しているのではないでしょうか。虚構世界を刻みつける、という自体的行為としての発話が考えられます。
ここには次の問題が介在しているでしょう。つまり、ある発話行為の目的がその行為に内在化されているのか、(されているならば)どのようにしてなのか、という問題です。例えば日記ではその時の自分自身のために書いている、ということが言えるかもしれません。そこにさまざまな目的(記憶するため、整理するため...)が隠されている可能性が指摘されるかもしれません。この問題は、行為者の意図と行為の目的との関係が十分に明らかになっていないことに由来していると思います。
発話行為の目的が行為者の意図である場合、虚構を構成している時点で自体的であることは自然だと言えます。勿論想像させることを目的としてなされることも大いにあるでしょう(例えば小説家が技巧を凝らすとき)が、「ただそのようなものとして」発話される虚構もあり得ます。反省的に目的が生成されることがあっても、虚構生成の発話の時点ではそうではなかった、ということです。
一方で、行為の目的が行為者の意図とは独立して成立している場合、虚構構成的発話は聞き手、読み手の解釈の内で想像してもらえるような発話であり、make-believeは特定の類型的発話のもつ機能として位置付けられるかもしれません。そのとき、もっぱら意図を問題とする主張と、虚構構成的発話は截然と区別されるものとなります。前者はテキスト化される仕方を力点とし、後者はテキストとしての在り方を力点としているからです。
A. そういうケースはあるかもしれませんが、発表される標準的なフィクション作品は受け手を前提としているでしょうし、受け手もそのように理解して受容しているのでは。どちらかというと、詩などに当てはまる話ではないかと思います。あと「主張の亜種」ということではないです(サールのふり説はそれに近い発想ですが)。
Q. フィクションでは虚構構成的発話という独特の発語内行為が行われていて受け手にmake-bilieveしてもらおうとする、というフィクションの標準理論は非常に説得力のあるものだと感じました。ただ、うまく説明できないのですが、主張/宣言/約束といった一般的な発語内行為と虚構構成的発話は次元が違うところにあるようにも思いました。つまり、虚構構成的発話の中にも主張のふりだけでなく、宣言のふり/約束のふりのような部分もあると思われるので、「ノンフィクションは主張/フィクションは虚構構成的発話」というのは二元的すぎるように感じました。(このことを踏まえたうえでの説明だったらすみません)
A. おっしゃる通りですね。主張以外のふりもありえると思います。ただ標準的なフィクションのあり方ではなさそうという感じですね。インタラクティブなフィクションの場合は、約束や宣言のふりも含まれているかもしれません。
🐪 その他
Q. なんとなくの疑問ですが、マンガ(ドラマでも映画でもいいのですが)の中で「誰かが別の人に変装している」というとき、読者からはオリジナルと変装の区別がつかないと思われます(あからさまに下手な変装として描かれているとか、いかにもオリジナルがしそうにない言動行動をしている場合は別)。こうした場合は「虚構の世界の中で起きている事態」が入れ子的になっているのではないかと思うのですが、作中人物たちが変装に騙されているという状況について「読者は変装であると気付いている」のと「読者も作中人物と同様に変装であることに気づかずにいる」のでは描写のあり方が違っているように感じられたのですが、そこに線を引くような理論はあるのでしょうか。
A. 文学の事例が主ですが、物語論の話題ですね。「焦点化(focalization)」という用語で論じられます。読者に与えられる情報の制約がどの程度か、どの(誰の)視点に制約されているか、といった話です。