理論の意義
🐪 理論とは
大まかには〈明確に定義された概念のセット〉のことと考えてよい。
体系化されている(=諸概念の関係が整理されている、諸概念が結びついて全体を作り上げている)ほうがよりちゃんとした理論。
「明確に定義された」は、数学的なwell-definedよりももうちょっとゆるい意味。どの程度の明確さが要求されるかは文脈による。とにかく、当の理論の使用者にとって概念の適用に困難が生じなければよい。たとえば、条件を計量化/形式化することは、たいていの文脈では必要ない。
🐪 理論の意義・用途
説明マシンとしての理論
それを使って気になるケースを説明・理解できる。すっきりする。
解像度向上マシンとしての理論
それによって、物事を見つめる・考える際の解像度が上がる。
たぶんコミュニケーションもしやすくなる(人が言っていることを理解しやすくなる)。
反省させマシンとしての理論
実は、物事についての素朴な理論化は誰もがやっている。つまり、民間療法(folk medicine)や素朴心理学(folk psychology)に相当するものが、どの領域にもある。美学にも民間美学(folk aesthetics)がある。
体系化された理論には、そうした見えにくい馴染みの素朴理論を相対化して可視化する(普段の物事の見かたについて反省させる)という意義もある。
レベルアップマシンとしての理論(持論)
以上のことができるようになると、個人としての人間レベル(もうちょっと限定すると「知的な」レベル)が上がった感じになる。
哲学者の多くは、基本的に個人としてのレベルアップをひとつの大きな目標にしているはず(持論)。他の諸科学は、研究者個人のレベルアップというよりは人類全体の知のレベルアップに貢献することを主な目標にしているはずなので、この点は哲学の独自性かもしれない(他の分野の研究者にも同じ動機は少なからずあるとは思うが)。
哲学的な理論の解像度が必要以上に細かいものになりがち(少なくともそう見えがち)なのは、何か具体的な課題や用途があるわけではなく、純粋にレベルアップするためだけのものだからかもしれない。適切な比喩かどうかはわからないが、「使わない筋肉を鍛える」みたいなのに近いかもしれない。
🐪 理論と付き合う際の注意点
理論は道具
理論は道具でしかなく、現実をそのままの姿でとらえるものではない。現実はもっと豊かで複雑である。
とはいえ、人間は残念な存在なので、現実の豊かさをそのままのかたちでは説明・理解できない。そこで理論が必要とされる。
理論とボーダーラインケース(持論)
理論がぴったりきれいに当てはまらないケース(ボーダーラインケース)が普通はある。
とはいえ、理論はそういうものの存在を無視しているわけではない。
ボーダーラインケースと理論の関係についての考え方:
ボーダーラインケースの存在は、理論の目がまだまだ粗いことの証拠なので、理論の精緻化に使う。
ボーダーラインケースを「明確に切り分けられないあいまいな存在」と言えるのは、切り分ける道具としての理論があるおかげ。比喩で言えば、包丁があるからこそ、「包丁で切れないもの」の存在がわかる。
ただし、理論は特定のケースを「中心」や「内部」と見なし、特定のケースを「周縁」や「外部」と見なすというかたちで物事を切り分ける点につねに注意する必要もある。価値中立的であるかぎりでは問題ないが、しばしばこの「中心」や「内部」は価値づけを伴いうる。とりわけ人や社会や文化に関する理論では、この点への十分な配慮が求められる。
理論の意義がよくわからない場合(持論)
物事を理解・説明することや、物事を見る解像度を上げることに意義を感じない人にとっては、理論の有用性がよくわからないことになる。
これは必ずしも「理論向きの人」と「理論向きでない人」がいるということではなく、単純に関心の有無の問題であることがおそらく多い。つまり、当の理論がフォーカスしている物事や論点に対する関心を自分が持っていない場合に、それらの物事や論点を理解・説明することやそれらについての解像度を上げることに意義が見いだせないということ。
関心が向く先はもとから人それぞれで傾向が違うし、環境や経験によっても大きく変わってくるので、その点でnot for meならあまり無理して付き合おうとしなくてもよいと思われる。
とはいえ、上記の「反省させマシン」については、誰にとってもそれなりに意義があると言える面だろう。いわゆるリベラルアーツ(大学の教養教育)の理念はそういうことである。