フィクションの標準理論
🐪 前提
ひとまず文章に限定する
フィクションの哲学は、主に小説をモデルケースにして組み立てられている。
なので、ひとまず画像は考えずに文章(言語表象)の例だけを取り上げる。
フィクションの標準理論とは
ここで言う「標準理論」とは、分析美学におけるフィクションの哲学でもっともオーソドックスとされている理論のこと。ケンダル・ウォルトンの「メイクビリーブ説」にアイデアを得てグレゴリー・カリーが定式化したものがベースになっている。
「標準理論/標準説」という呼び名は、ステイシー・フレンドによるもの(第9回 授業メモの文献を参照)。フレンド自身は、標準理論の立場に反対している。 標準理論は、下記の分類では語用論的アプローチに入る。
清塚によるアプローチの分類
清塚邦彦は、フィクションの本性を探るアプローチを3つに分けている。
文献:清塚『フィクションの哲学 改訂版』勁草書房
統語論的アプローチ
フィクションは、文章表現のかたち(語り口など)の点で特徴づけられるとする考えかた。
難点:
フィクションに特徴的な文章表現はたしかにあるものの、完全に同一の文がフィクションとしてもノンフィクションとしても使われうることを考えると、説明としてうまくいっていない。
意味論的アプローチ
フィクションは、それがあらわす意味内容の点で特徴づけられるとする考えかた。簡単にいえば、実在しない存在者(ペガサスやシャーロック・ホームズなど)を指示するタイプの文章がフィクションである、と考える。
難点:
実在しない存在者を指示する文章は、いわゆるフィクション以外にも大量にある(自然科学の仮説の多くがそうである)。
フィクションもしばしば実在する存在者を指示するし、真な事柄もしばしば述べる(「シャーロック・ホームズ」シリーズにはロンドンが登場するし、ロンドンについての記述の多くは偽ではない)。
語用論的アプローチ
フィクションは、文章の使いかたの点で特徴づけられるとする考えかた。具体的には、言語行為論的な観点からフィクションの特徴を考える。
たとえば、ジョン・サールは、フィクションの文章は〈主張のふり(pretense)〉であると主張している。現代の標準理論は、サールのふり説の延長線上にある。
文献:サール「フィクションの論理的身分」、『表現と意味』山田友幸監訳、誠信書房
語用論的アプローチは、文章表現のかたちや意味内容の点ではフィクションとノンフィクションの区別はつけられないと考える。
言い換えれば、(少なくとも原理的には)まったく同じ文章をフィクションとしてもノンフィクションとしても使うことができると考える。
つまり、フィクションとノンフィクションの区別を文の使いかたの問題として処理するということ。
フィクションとノンフィクション、どっちでしょう:
「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。」
「1991年1月25日のことだ。島には400羽ほどのフィンチがおり、グラント夫妻はその一羽一羽を見て区別していた。」
「ある夜、1888年3月20日のことだ。私は元の開業医に戻っていたのだが、患者の往診の帰途、ベイカー街を通りがかった。あの見慣れた戸口を見ると、求婚時代や、陰惨な『緋のエチュード』事件のことがいつも心に甦ってくる。」
🐪 虚構構成的発話(fictive utterance)によるフィクションの特徴づけ
以下、フィクションの標準理論がおおむね共有している考えかただが、基本的にカリーの説をベースにして説明する。
言語行為論についての基本的な前提
言語行為論は、〈われわれは、個々の発話の状況のなかで、言葉とその意味内容(命題内容)を使って、いろいろな行為をしている〉と考える。
言葉を発したり書いたりすること自体が同時に何かを行うことになっているケースを「発語内行為」という。
発語内行為のいろいろな種類:
主張(「うちの猫はキジトラですよ」)
宣言(「この子の名前は"とらちゃん"にします」)
約束(「今度とらちゃんの写真を見せるね」)
命令(「とらちゃんにごはんあげなさい」)
質問(「とらちゃんって誰?」)
態度・感情の表明(「とらちゃんに会えてうれしい」)
etc.
フィクションの特徴づけに関係するのは、このなかの主張型の発語内行為である。
言語行為論の勉強用文献
サール『言語行為』坂本百大・土屋俊訳、勁草書房
サール「発語内行為の分類法」、『表現と意味』山田友幸監訳、誠信書房
オースティン『言語と行為』でも大まかな雰囲気はわかるが、サールのほうが整理されている。
主張型の発語内行為
原語は"assertion"。訳語は「主張」のほかに「確言」「断言」などもある。
主張とは、発話者が、当の発話(話し言葉や書き言葉)によって表現されている命題内容(指示と述定のセット)が真であると聞き手に信じてもらおうとする行為のこと。
ある状況における「うちの猫はキジトラですよ」という発話は、〈「うちの猫」が指示する特定の個体が、「キジトラ」が表す特定の種類に属する〉という命題内容を表現したうえで、それが真であると聞き手に信じてもらおうとしている。
主張型の発語内行為に対しては、真偽を問うことが有意味である。
ちゃんとした主張では、発話者は、自分が言っていることを(聞き手に信じてもらおうとしているだけでなく)自分でも真であると思っている。
嘘は、聞き手に特定の命題内容を信じてもらおうとする行為という意味では主張だが、発話者が自分の言っていることを真だとは思っていないケース(つまり不誠実なケース)。
虚構構成的発話
サールはフィクションの文章(たとえば小説の文)を〈主張のふり〉として、つまり、聞き手/読み手にそれとわかるようなかたちでの〈発語内行為の擬装〉として説明している。
それに対して、カリー以降のフィクションの標準理論は、フィクションの文章を虚構構成的発話(fictive utterance)という独特の種類の発語内行為として説明する。
フレンドによる説明(松永訳):
「典型的には、このタイプの〔フィクションの標準理論の〕立場を擁護する論者は、〈フィクションは「虚構構成的発話」と呼ばれる独特の言語行為によって特徴づけることができる〉と考える。標準理論によれば、虚構構成的発話は、作者〔発話者〕がある種のグライス的な意図を持っておこなう発話として特徴づけられる。すなわち、〈読者〔聞き手〕が、まさに作者がそのように意図したことを認識することによって、特定の内容を想像する(あるいはメイクビリーブする)ようにする〉という意図を作者が持って発話するということである。(標準理論にしたがえば)ノンフィクションの場合はこれとは対照的に、作者は〔読者の〕信念を引き出す主張をおこなう。」
原文のほうがわかりやすいかもしれないので添えておく:
"Typically, theorists who defend this line claim that fiction is marked by a distinctive speech act, called fictive utterance, which is characterized by a Gricean intention on the part of the author that readers imagine or make-believe a particular content, in virtue of recognizing that very intention. This is by contrast with non-fiction, where (according to this view) authors make assertions that invite belief."
標準理論のポイント
発語内行為の種類で区別する:
言語的ノンフィクション:文章を使って主張をする。
言語的フィクション:文章を使って虚構構成的発話をする。
主張と虚構構成的発話の違い:
一番重要なのは、主張では〈聞き手/読者にこれこれが真であると信じて(believe)もらおうとする〉となる部分が、虚構構成的発話では〈聞き手/読者にこれこれを想像して(imagine/make-believe)もらおうとする〉となるということ。
つまり、主張と虚構構成的発話の違いは、基本的には"belief"と"make-believe"の違い。
余談:
上記引用内の「グライス的うんぬん」のところは面白い話だが複雑なので、あまり気にしないでよい。
ようするに、自分の意図(これこれを想像してね)がちゃんと読者に伝わることを作者は意図して発話するということ。
グライス的な枠組みを採用するアプローチは、フィクション作品の解釈をある種のコミュニケーションのプロセスとして説明しようとしていると言える。
メイクビリーブ
"make-believe"は本来は文字通り「ごっこ遊び」の意味だが、ウォルトンがフィクション一般を説明するための理論的な概念として導入して以降、フィクションに接する際の受容者の独特の態度を指すのに使われる。
メイクビリーブが実質的にどのような態度であるかについてはいくつかの議論があるが、フレンドやウォルトン自身が書いているように、ある種の想像(imagining)として考えるのが一般的である。