フィクショナルキャラクターと描写の哲学
※ 以下、すべてマンガやアニメーションのようなフィクションの画像(とくにデフォルメが強めの画像)によるキャラクターの描写の話。具体例は、共有した文献にいくつか載っている。
🐫 伊藤の「キャラ/キャラクター」
文献
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド:ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005年
マンガ表現論の重要著作。
第3章で有名な「キャラ/キャラクター」の概念的な区別が提示されている。ただ、概念の規定や適用にけっこうぶれがあり、一貫した解釈が難しい。
伊藤の議論についての優秀な解説
シノハラユウキ『物語の外の虚構へ』logical cypher books、2021年、130–142頁
「キャラ/キャラクター」というより「マンガのおばけ/ウサギのおばけ」の区別と、描写の哲学における「分離」の議論(👉 説明すべき事例群の「デフォルメ」の箇所を参照)を関係づけている。 キャラ/キャラクターの区別
「キャラクター」についての記述:
マンガには「登場人物」がいる。
設定上、あるいは外観上人間ではなかったとしても、やはり「登場人物」として扱いうる。〔…〕1970年代に小池一夫がそういって以降、「キャラクターを立てる」という言い方はマンガ業界や読者の間で普通に用いられている。〔…〕つまり小池にとって「キャラクターを立てる」ことは、「魅力的な登場人物」として読者に認識させるということとほぼ等しい。
〔…〕つまり、小池のいう「キャラクターを立てる」とは、すなわち読者である私たちと同様に「身体を持った人間」が、「物語空間の背後にも」「永続して存在する」ことを想像させること、と定式化できる。
いいかえれば、私たちが「キャラクター」と「登場人物」を等しいものと見なしうるには、この要件が揃っていることが前提条件となるのである。その際には、必ず何らかの形で「キャラクター」が「人格」を持った「身体」の表象であることが要請される。
「キャラ」についての記述:
〔…〕「キャラクター」は「登場人物」と等価な意味として扱いうるが、「キャラ」はそうではない。そして「絵」でもない。少なくとも「絵画」ではない。〔…〕「キャラ」とは「キャラクター」に先立って、何か「存在感」「生命感」のようなものを感じさせるものと考えられる。「前(プロト)キャラクター態」とでもいうべきものに位置づけられるのである。逆にいえば、小池一夫によって「立てるもの」として見いだされたような意味での(あるいは、一般に考えられているような意味での)「キャラクター」が、実はマンガという表現全体から見れば、時代的にも、またマンガ表現のなかでも限定されたものでしかないことを意味している。
あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。
多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの
解釈:
キャラクター:
物語上の登場人物という意味でのキャラクターのこと。
キャラ:
登場人物(キャラクター)ではないが、絵それ自体でもない。
線画を基本とした図像で描かれる。
固有名で名指される。
キャラクターに先立つかたちで、ある種の「存在感」「生命感」を感じさせるもの。
🐫 高田の「分離された対象/キャラクター」
文献
高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」『Contemporary and Applied Philosophy』6号、2015年
描写の哲学をベースにして、フィクショナルキャラクターの画像を論じている。
論点は異なるものの、伊藤の区別におおむね対応する概念が登場する。
高田の前提:キャラクター画像の非正確説
「公式の図像の一部はキャラクターの形象的性質についてわずかにしか情報を与えない。」
つまり、デフォルメ画像は、フィクショナルキャラクターの姿を不正確に描いている。
たとえば、〈目が顔の大半を占める〉〈鼻が点である〉といった内容をキャラクター画像が持つが、それらの特徴は、当のキャラクターの正確な姿とは考えられない。
非正確説は正しいと思われるが、それを受け入れると以下のパズルが導かれる。
キャラクターの美的性質のパズル
① われわれはキャラクターの姿が持つ美的性質を知っている(たとえば、かわいいなど)。【素朴な事実】
② われわれはキャラクターの正確な姿を知らない。【非正確説からの帰結】
③ あるものの美的性質を知るには、その形象的性質(外見)を知っている必要がある。【美学の基本的な前提】
④ ②と③から、われわれはキャラクターの姿が持つ美的性質を知らないことになる(正確な姿を知らないので)。
⑤ ①と④は相反する。
したがって、前提①②③のいずれかが否定されなければならない。
高田によるパズルの解決
③を否定する。
われわれは、キャラクターの正確な姿は知らないとしても、画像が直接描く「分離された対象」の正確な姿は知っている。なので、分離された対象の姿が持つ美的性質には問題なく知ることができると言える。
画像的なフィクションの受容では、一定の条件下で〈分離された対象の姿がしかじかの美的性質を持つならば、キャラクターの姿もまたその美的性質を持つ〉という規則が一般に成り立っている。
その規則のおかげで、われわれはキャラクターの姿を正確に知らなくとも、分離された対象の姿を知っているかぎりで、キャラクターに特定の美的性質を正しく帰属できる。
伊藤の議論との関係
高田の「キャラクター」は伊藤の「キャラクター」におおよそ対応する。
高田の「分離された対象」は伊藤の「キャラ」におおよそ対応する。
🐫 松永の「Pキャラクター/Dキャラクター」
文献
松永伸司「キャラクタは重なり合う」『フィルカル』1巻2号、2016年
商業出版物に掲載されている原稿なので、授業の学習用途を超えて使ったり共有・頒布したりしないでください。
高田の議論(とくにその前提になっている非正確説)やその他のキャラクターにまつわる諸論点を引き継ぎつつ、伊藤や高田とは異なる観点から「キャラ/キャラクター」におおよそ対応する概念を提示している。
「Dキャラクター/Pキャラクター」の区別
Dキャラクター:
物語世界上の存在者(登場人物)としてのキャラクター(diegetic character)。
伊藤の「キャラクター」に対応。
Pキャラクター:
Dキャラクターを演じる演じ手(俳優)としてのキャラクター(performing character)。
伊藤の「キャラ」に対応。
俳優のアナロジー
PキャラクターとDキャラクターの関係は、実写映画における俳優とそれが演じる登場人物の関係に似たものとして想定されている。
俳優と登場人物:
われわれは、俳優の姿を通して登場人物の姿を想像する。
われわれは、俳優の姿は正確に知ることができるが、登場人物の正確な姿は知らない。
われわれは、俳優の姿については問題なく美的判断ができるが、登場人物の姿については少なくとも直接に美的判断ができない。
俳優は、登場人物を演じていないときにも(現実世界に)存在する。
われわれは、俳優が登場人物を演じている場合でも、俳優についての言明と登場人物についての言明を区別できる。
PキャラクターとDキャラクター:
われわれは、Pキャラクターの姿を通してDキャラクターの姿を想像する。
われわれは、Pキャラクターの姿は正確に知ることができるが、Dキャラクターの正確な姿は知らない。
われわれは、Pキャラクターの姿については問題なく美的判断ができるが、Dキャラクターの姿については少なくとも直接に美的判断ができない。
Pキャラクターは、Dキャラクターを演じていないときにも(「キャラクター空間」という物語世界とは別の独特の世界に)存在する。
われわれは、PキャラクターがDキャラクターを演じている場合でも、Pキャラクターについての言明とDキャラクターについての言明を区別できる。
🐫 応用:岩下のキャラクター論
文献
岩下朋世『キャラがリアルになるとき』青土社、2020年、12章
高田や松永の議論をベースにして、理論的概念を具体的な事例に適用して説明している。
『ヒプマイ』における「公式の解釈違い」の説明
「解釈違い」騒動:
『ヒプノシスマイク』のコミカライズにおいて、公式に提示されたコンテンツが、ファンが想定するキャラクター像とかけ離れているという点で多くの批判を受けた騒動。公式の作者が提示する表現が必ずしもつねに正しいものとして受け入れられるとはかぎらないことを明確にに示す事例になっている。
岩下の説明:
〔…〕キャラクターをめぐる解釈違いとは「物語世界のキャラクターのありようをキャラクターの表象が間違って伝えている」というよりも、「物語世界におけるキャラクターのありようが、既に示されたキャラクターの表象を間違って解釈している」ものだと考えたほうがよいと思われる。
〔…〕物語世界内のキャラクターとその演じ手としてのキャラクターの区別を踏まえれば、私たちが「解釈違い」において主張していることについて、次のように言うことができる。
「公式の提供するコンテンツは、推し(Pキャラクタ)に見当外れのキャラクター(Dキャラクタ)を演じさせている」
2.5次元舞台の説明
引用:
まず言えることは、キャラクターの享受とは、コンテンツを楽しむ上でPキャラクタに焦点を当てるようなあり方ではないかということだ。
たとえば、2.5次元について考えてみよう。〔…〕2.5次元においては、「俳優の身体がPキャラクタとして機能して〔Dキャラクタを演じて〕いる」というよりも「俳優の身体がPキャラクタを演じている」のである。
〔…〕2.5次元の人気を確立させた『テニミュ』では、原作およびアニメで示されたキャラクターのビジュアルを忠実に再現することが志向されている。〔…〕なによりもまず、すでに親しまれた〔アニメ絵の〕「あの見た目」をしているか否かが、ここでは重視されているのだ。テニミュをはじめ2.5次元とみなされるコンテンツにおいては、演者は直接にDキャラクタを演じようとするのではなく、すでにファンに親しまれたPキャラクタを演じることを介して、Dキャラクタを表現しようとするのである。
Pキャラクターの居場所
引用:
私たちが解釈や愛着の対象としているキャラクターとはどのようなものであるのか。〔…〕キャラクターは、2次元と3次元のあいだに立っている。ここで言うキャラクターとはもちろん、物語世界の存在としてのキャラクターではなく、演じ手としてのキャラクター、Pキャラクタである。