スノッブ
以下の発表資料から抜粋。
(PDF) スノッブのなにが悪いのか | Shinji Matsunaga - Academia.edu
スノッブとは
古典である、伝統的である、高級である、高尚である、有名な批評家が良いと言った、流行りである等々の事実それ自体に、美的判断が動機づけられることがある。この種の判断をしがちな人々は「スノッブ」と呼ばれ、その傾向性は「スノビズム」と呼ばれる。
スノビズムのあり方は、権威主義的なものだけではない。主流やエスタブリッシュメントに反している(つまりカウンターやオルタナティブである)という事実それ自体に美的判断が動機づけられることもまた、スノビズムの一種だ。
スノッブの例
Kieran(2010)からスノッブの例をいくつかとろう。
「イリー」ブランドを良いコーヒーのしるしだと思っているコーヒー飲みを考えよう。この人はあたりのカフェを探し回って、このブランドが使われているところにだけ行く(そしてスターバックスには行かない)。この行動にはすでにスノバリーの気があるが、鑑賞の対象がコーヒーの味であるかぎりは、必ずしもスノバリーではない。一方、これと同じ行動をしつつ、コーヒーの鑑賞が〔味ではなく〕社会的な理由に動機づけられている人がいたとしよう。この人は、それがイリーのコーヒーであるというまさにその理由でコーヒーを鑑賞する。なぜそうするかというと、この人は、自分がそのブランドに結びついた人種でありたいと望んでいるのだ。(Kieran 2010: 243)
アートギャラリーはつねづねステータスの競い合いをしており、客が特定のアーティストの作品を売るのに「ふさわしい人物」かどうかをこっそりと(場合によってはあけすけに)判別している。(Kieran 2010: 246)
文学、演劇、ポップミュージック、食べもの、ワイン、インテリアデザイン、ファッションなどのレビューには、共通して〔社会的な〕優越性の判断が見られる。たとえば、ある種の量産品を相手にしないとか、田舎者の趣味や時代遅れの様式について上から目線で語るとかだ。(Kieran 2010: 246)
これは自意識過剰なハイブロウの世界に限られた話でもない。トークショーか何かで、司会者が特定のポップバンドとそのファンをしたり顔でほのめかせば、観客席からは心得たようにクスクス笑いが起きる。おそらく、観客は「あの人たち」のタイプをわかっていて、かつ彼らに優越していると感じているのだろう。(Kieran 2010: 246)
人々は、次は何が来るとか、何が流行りだとか、何がもう終わったとかを知ることに躍起になる。なぜそうするかというと「通(in the know)」になることによって自身の優越性を感じたり示したりできるからだ。(Kieran 2010: 246)