〈うちに見る〉説の難点と展開
1. リアぺからの指摘
🐪 トロンプルイユも絵である
「だまし絵が光景と内容を錯覚してしまっているというのはなるほどと思いました。ウォルハイムによるとそういった理由のためトロンプルイユは絵ではないと論じたかと思いますが、しかし自分にはそうであっても絵である(描かれたものである)ことには違いないと感じました。」
🐪 たんに〈うちに見える〉内容以上の絵の内容がある
👉 第3回リアぺのQ&A
🐪 いうても切り替えがある
「表面を表面として見ているとき(絵画なら絵の具の凹凸や筆の跡として見ているとき)と表面を画像として見ているときではやはり違う経験をしているように私は感じます。ウォルハイムは「として見る」説で言うような表面の知覚と主題の知覚を同時に行えると主張していたのでしょうか。行えると主張していたならウォルハイムは私にはできない知覚をしていたのではないかと思えてきます。」
「ウォルハイムはゴンブリッチの「として見る」説を、「描写内容を見ているときに表面に気づいていないはずはない」として批判していたが、「描写内容を、それが平面に描かれていると意識しながら見る」のと、「画像をただ二次元的な表面であるとして見る」ことは次元が違うことのように思った。つまり、二次元的な見え方と三次元的な見え方の間の切り替えというのは存在するのではないかと思った。」
「〈うちに見る〉説では表面と主題が同時に知覚されているとしているが、経験的にはそうではないように思う。絵の表面についた絵の具の質感などを見ているときは主題に意識は向いていないし、その逆もまた同様である。よって、同時に知覚されているのではなく、知覚の仕方の切り替えは行われていると考える。」
2. 〈うちに見る〉説からのいくつかの展開
🐪 ロペスの再認説
説明
フリント・シアー(Flint Schier)のアイデアをもとに、ドミニク・ロペス(Dominic Lopes)が]展開した立場。
文献:
Dominic Lopes, Understanding Pictures (Oxford: Oxford University Press, 1996).
日本語でのまとめ:
Lopes『図像を理解する』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
ドミニク・ロペス『画像を理解する』 - logical cypher scape2
再認説は、ウォルハイムの〈うちに見る〉説に反対する立場ではなく、主張をより穏健にしたうえで、〈うちに見る〉という独特の経験のメカニズムを「再認能力」という観点から説明しようとしたもの。
ここでの「再認(recognition)」は、〈対象が何であるかを直感的に見分けること〉くらいの意味。
ロペスは、〈うちに見る〉=〈二重性〉のがつねに成り立つことは画像経験の必要条件としては厳しすぎると主張した。ウォルハイムによれば、トロンプルイユは画像ではないことになってしまうが、それは明らかにおかしいからだ。
再認説の基本的な考え方
画像経験では、対面で事物を知覚するときに使われる再認能力が、画像表面に対して使われる。
「画像Pが対象Oを描写するのは、適切な環境のもとで、Pを見るのに適した人が持つOを視覚的に見分けるための能力をPが引き出すときにかぎる。」
たとえば、猫を知覚するときに使われる再認能力が、猫の絵の画像表面上のデザインに対して使われる。それによって、猫が描かれていると感じる。
大半のケースでは、同時に画像表面も知覚されているので、ウォルハイムの言うような二重性が成り立つ(トロンプルイユは例外)。しかし、画像経験の本質は、二重であることではなく、本来の三次元の物に対する再認能力が平面に対して行使される点にこそある。
🐪 エイベルの意図された類似説
説明
キャサリン・エイベル(Catherine Abell)の語用論的な理論。
文献:
Catherine Abell, "Pictorial Implicature," Journal of Aesthetics and Art Criticism 63 (1): 55–66 (2005).
Catherine Abell, "Canny Resemblance," Philosophical Review 118 (2): 183–223 (2009).
日本語でのまとめ:
レジュメ|キャサリン・エイベル「画像の含み」(2005) - obakeweb
depi読#28|キャサリン・エイベル「慎重な類似説」(2009) - Google Docs
エイベルは、ポール・グライスの推意(会話の含み、implicature)の理論を画像の正しさの基準とその解釈に応用した。つまり、ある種のコミュニケーションとして画像解釈を考えた。
グライスの理論についての文献:
グライス『論理と会話』清塚邦彦訳、勁草書房、1996年
三木那由他『話し手の意味の心理性と公共性』勁草書房、2019年
エイベル説の基本的な考え方
知覚的に〈見える内容〉とは別に、絵の描写内容と言うべきものがある。この描写内容は画像表面のデザインとの視覚的な類似にもとづいて解釈されるものではあるが、自動的に決まるものでもない。
どの点で類似しているものとして解釈すべきかというところで、描き手と見る人のあいだである種のコミュニケーションが行われる。
「あるしるし付けられた表面が、ある対象Oを描写するのは、以下のどれかが成り立つときに限られる。
a. 描き手がOとの類似を意図しており、かつ、見る人にその意図に気づいてもらえるよう意図している。
b. 様式的慣習を介して類似するよう意図している。
c. 慣習的な解のある伝達問題に応えるよう意図している。」
(さらにいくつか細かい条件がつくが、上記の「慎重な類似説」のレジュメ参照。)
あくまで視覚にもとづいた類似ベースの解釈というところで、言語を使ったコミュニケーションとは違う。
🐪 ナナイの〈うちに見る〉説
説明
ウォルハイムの弟子であるベンス・ナナイ(Bence Nanay)によるウォルハイムとゴンブリッチのいいところ取り理論。
ナナイの文献は大量にあるが、ひとまず以下:
Bence Nanay, Picture perception and the two visual subsystems - PhilPapers
Bence Nanay, Trompe l’oeil and the Dorsal/Ventral Account of Picture Perception - PhilPapers
Bence Nanay, Perceiving pictures - PhilPapers
日本語でのまとめ:
ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape2
ベンス・ナナイ「トロンプ・ルイユと画像知覚の腹側/背側説明」 - logical cypher scape2
画像経験の二重性(twofoldness)について:リチャード・ウォルハイムとベンス・ナナイ - obakeweb
ウォルハイムの〈うちに見る〉説の基本ラインを踏襲しつつ、ウォルハイムの説ではうまくいかない事柄を認知科学の知見を取り入れながら解消していくということをやっている。
余談だが、ナナイの英語はめちゃくちゃ読みやすいので初学者にもおすすめ。
ナナイの主張①
まず「知覚」と「注意」を分けましょう:
知覚は、たんに対象の心的表象を持つ(対象の像が心の中に現れている)だけで成り立つと言える。
一方、注意は、もっと対象に対して意識的になっている状態。
なので、「注意を向けていないが、知覚している」という状態がありえる。
ウォルハイムの「二重性」の主張は、この弱い意味での知覚の話として考えれば穏当だが、注意の話として考えればかなり変なことを言っている(画像表面と描写内容につねに同時に注意を向けるなどは、普通に絵を見るケースではちょっと考えづらい)。注意の観点から言えば、むしろゴンブリッチが言うように画像表面と描写内容で切り替えが起きていると考えたほうが自然である。
ナナイの主張②
以上の主張は、認知科学の知見からも補強できるよ。
霊長類が持つ2つの視覚システム
腹側皮質視覚路(ventral stream):
物の形状や質を把握する視覚経路。what経路とも呼ばれる。
背側皮質視覚路(dorsal stream):
自分と物との距離や物の位置・運動を把握する視覚経路。where経路とも呼ばれる。
視覚経路 - 脳科学辞典
普通の画像経験(普通の〈うちに見る〉)においては、この2つの経路が描写内容と画像表面をそれぞれ知覚している。
腹側:
基本的には、描写内容が何であるか/どんなであるかを把握している。
ただし、画像を美的に鑑賞するケースでは、これが画像表面にも向けられる。
背側:
画像表面がどこにあるかを知覚している。
この経路が働いているおかげで、絵をななめから見た場合でも補正が機能する。
ただし、トロンプルイユではこの経路がだまされて、三次元的な物が「そこに」あるかのように取り違えてしまう。