気晴らしは奇異に
つまり…つまり、「ありきたりに余暇を過ごすな。気晴らしは奇異に、そして丁寧に折りたたむこと」みたいなことに集約されてしまうのか?本当にほんと???
(以下スラムより転記)
何を言っているのかというと、これは業務の効率化を実現するためにどのような工程が必要になるのかという件です
効率化は最適化ではない。最適化された形、それも対処療法的に最適化された結果が、非効率的や非生産性を超えて非人間的な組織運用になるという事態がまずあって
その最適圧力とでも呼ぶものに抗うために行う「無駄」を、どのように選ぶのかという話をしています。
無駄は経済性やロゴスといった機構の外側にある。それゆえ何が起こるかを予測することができません。何かを期待することができないが、何かが起こることだけは期待して行わないといけない(何かが起きたことを確実につかむため)
その上で、どうやら無駄にも良さそう〜な無駄と、そうでもねえ〜無駄がある。それ自体がヒエラルキーなのではなく、ヒエラルキーを含んだロゴス領域からの飛距離の格差であるというイメージです(が、このあたりはあんまし言語化するべきではないともおもう)
えーと
最適であることよりもなお良いことは、最適であろうとする必要自体がなくなることであり、それが実現するときには混沌の領域を通過する。混沌を汲み入れる必要がある
その行為が供犠の一種であるとして、我々の最も貴重なリソースである時間を、どの神にどのような儀式で捧げるか、ということが問題になってくる
もう一つは、捧げ物によってもたらされる豊穣を、正しく受け取ること。そのために受け取るにふさわしい素質を湛えること
この「混沌を汲み、秩序でもって受け取る」という行為はいうたら「大喜利」みたいなもんで
ここまでの内容が机上の空論としてではなく、今日明日消化しなければいけない、具体的なタスクとして迫り続けているという感覚が、日増しに強くなっています
「しなくてもいいは正義」であり、自動化は一つの表現方法でしかない
(スラム転記おわり)
ただ、概念操作的な空中戦ばかりしていてもしょうがないので、実働をどう発生させるのか、ということについては全然別の階層の段取りが必要になってくる