春にして君を離れ
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【作家】
主人公の「戦争を誰も望まないのだから,起こるはずがない」という発言は象徴的
結末云々よりも、私が『春にして君を離れ』を好きなのは、ジョーンが自分自身に出会う場所が「ひとり旅の途上」であるということだ。あらすじを説明したとおり、ジョーンは20代の婚活迷走女子でもなければ、自分探し中の大学生でもない。1男2女を夫とともに育て上げた、立派なマダムである。だけど、そんな聡明で心優しいマダムですら、ひとたび日常を離れれば、不安になる。孤独の中で、自分という人間が暴かれていく。ジョーンは異国の土地の砂漠で、自分自身が目を背けていた「真の姿」に出会うのだ。
誰かのために生きることは美しい。だけど、それによって自分が消えてしまうわけではない。「孤独な私」は、どんな人生を選択しても陰のように付きまとい、決してこの「私」を離さない。『春にして君を離れ』は、ある人にとっては、思わず投げ捨てたくなるような意地悪な小説になるかもしれない。でもある人にとっては、優しくて切なくて、心を少しだけ鎮めてくれる小説になるだろう。
全ての章が閉じエピローグに入ったとき、さっと本を伏せ、その余韻と衝撃、ありもしない・おこりもしないことに対する根拠のない、漠然とした、でも一瞬だけど強烈な恐怖を感じたことを覚えている。
それは「これからエピローグで殺人が起こるんじゃないか」ということ。今までの数百頁は、被害者が殺害されるまでの経緯と犯人の殺人を犯すまでの心の動きを綿密に描いた異色のミステリだったのではないか。もちろん、その妄想は杞憂に終わり、虚無感と、結局誰もフォローしてくれないまま恐怖だけを残して、最後のあのゾクゾクと肌を粟立たせる薄っぺらい愛の言葉で締め括られる。
上記の妄想は稲光ほどの一瞬の閃光で、気が付いた時には、序盤で書いたような体のいい読書メーターの感想を書いていた。しかし、冷静になった今改めてロドニーによる「殺人が起こるまでの物語」というのはあながち間違ってはいないのではないかと思うし、もう一つ穿った見方をすると、間接的ではあるが、ジョーンによる「人間性を否定し排除する特殊な殺人事件」でもあると思う。
今ではネグレクトやDV、過干渉といった子どもに悪影響を及ぼす“毒親”という表現も誕生している。それもまた子どもの成長を阻害し、未来を奪う≒(少々物騒だが)殺人であると言っても良いのかもしれない。クリスティは1944年にあって、ごく一般的にいたであろうある中年女性を主人公に(もちろん個性は伸ばしただろうが)毒の強い小説を世に送り出した。本作が、当時どれだけセンセーショナルで衝撃的であったか知る方法が無いのが残念だが、自伝を見ると様々な意見があったのではないかと思わせる。
『春にして君を離れ』のラストでのロドニーの心の声はこうである。
「君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように。」
ロドニーがジョーンの改心を望んでいないことを強烈ににおわせる部分である。ロドニーはジョーンが善意と信じているものが周囲にどんな影響を及ぼしているかよくわかっていながらそれを放置している。
ジョーンと娘たちとの諍いはロドニーがうまく立ち回って収めている。次女バーバラは不倫の事実を父にだけ手紙で伝えている。ロドニーはこれをけしてジョーンには伝えない。ジョーンがいることでロドニーは「母とは違う良い父親」を演じることができる。
ロドニーは心の底ではジョーンがひとりぼっちであることに気づいていながら、君には僕がいると偽りの安心を与えている。そうすることで彼はジョーンを籠の鳥にしているのである。人は、相手より優位な位置にいたいという願望を持っている。ジョーンが自分の世界に満足している限り、ロドニーはジョーンよりよき伴侶、良き父親でいられるのである。
もしラストでジョーンが反省したら、ロドニーは自分の弱さとも向き合わなくてはならないだろう。良き母に生まれ変わろうとしているジョーンの前で、自分だけが知っている娘の秘密を隠せば罪悪感が発生する。ロドニーの気持ちをくもうと努力するジョーンに対して、レスリーへの恋愛感情を忘れないことも同じであろう。
そして、農場経営。実はこの件に関しはジョーンが正しいのかもしれない。儲からないし、借金を背負うリスクもある。ジョーンが農場経営をやってみたらといいだしたら、ロドニーは安定した職を捨てて、これらのリスクと向き合わなくてはならないのだ。
相手の悪いところを放置しながら愛するというのも一つの愛の形である。ただしそれは相手を思いやっての愛ではない。相手を不完全なままとどめることで自分から離れていかないように拘束する共依存タイプの愛である。一見穏やかな良き夫、ロドニーにはそれが感じられる。だからロドニーはこの作品中だれよりもジョーンの改心を望んでいないのである。
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