斜陽
書き出し
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、 「あ」 と幽かな叫び声をお挙げになった。 「髪の毛?」 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
リズム感がやっぱり、面白い
それはそうとなんかこうちょっと不穏な感じがする二文だけど、ここから先がコントになるから謎。たのしいけど。
「高等御乞食」のあたりめちゃくちゃ笑える。
で、コントやって(語り手の回想)、もとの冒頭の一文に戻る。スマート。
さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛? とおたずねすると、いいえ、とお答えになる。
おむすびをお皿に載せて、それにお箸を突込み、ぐしゃぐしゃにこわして、それから、その一かけらをお箸でつまみ上げ、お母さまがスウプを召し上る時のスプウンみたいに、お箸をお口と直角にして、まるで小鳥に餌をやるような工合いにお口に押し込み、のろのろといただいているうちに、
kana.iconは?クソみたいな食べ方するなよ。焼き鳥を串から抜くやつみたいな厭な感じがする。そんなだから高等御乞食なんですよ〜だ。
「朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ」「お母さんは?おいしいの?」「そりゃもう、私は病人じゃないもの」というやりとり。
kana.iconうーーんたしかに朝御飯がおいしくないのは健康的ではないということなのかもしれない……kana.iconも健康になりたい
病気、そして戦争。
何か、たまらない恥ずかしい思いに襲われた時に、あの奇妙な、あ、という幽かな叫び声が出るものなのだ。
なるほどね。「あ、」にはそういう意味があるのか。
蛇の話。蛇がありとあらゆる木に巻き付いているシーン、妖しくてきれい。
ああ、何も一つも包みかくさず、はっきり書きたい。この山荘の安穏は、全部いつわりの、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思う時さえあるのだ。これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、もうすでにこの平和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄って来ているような気がしてならない。お母さまは、幸福をお装いになりながらも、日に日に衰え、そうして私の胸には蝮が宿り、お母さまを犠牲にしてまで太り、自分でおさえてもおさえても太り、ああ、これがただ季節のせいだけのものであってくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもたまらなくなる事があるのだ。蛇の卵を焼くなどというはしたない事をしたのも、そのような私のいらいらした思いのあらわれの一つだったのに違いないのだ。そうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ。 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
kana.iconん?なんか最後の一文が唐突に思える。脈絡がないような。
蝮、いらいら、に「恋、」が関係しているということ?もうちょっと読み進めてみるか。
火事の話。
いまでも火事はこわいけど、昔の場合は建物の建材の問題もあるし、国が消防を手配するというよりは集落の人達で対処するという感じだったから、責任のある人はすごくたいへんなんだな。
筋肉労働、というのかしら。このような力仕事は、私にとっていまがはじめてではない。私は戦争の時に徴用されて、ヨイトマケまでさせられた。いま畑にはいて出ている地下足袋も、その時、軍のほうから配給になったものである。地下足袋というものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びっくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど、うれしかった。戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。思えば、戦争なんて、つまらないものだった。
kana.iconいやあちょっと、ずいぶん他人事のように思える。なんなんだこの人はさっきから。戦争を「つまらないもの」と言ったり。死産?だとか離婚のことも(まあこんなもの現代でなら気にすることでもないけど)サラッと書いているし。
本当に、いま思い出してみても、さまざまの事があったような気がしながら、やはり、何も無かったと同じ様な気もする。私は、戦争の追憶は語るのも、聞くのも、いやだ。人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。けれども、私は、やはり自分勝手なのであろうか。私が徴用されて地下足袋をはき、ヨイトマケをやらされた時の事だけは、そんなに陳腐だとも思えない。ずいぶんいやな思いもしたが、しかし、私はあのヨイトマケのおかげで、すっかりからだが丈夫になり、いまでも私は、いよいよ生活に困ったら、ヨイトマケをやって生きて行こうと思う事があるくらいなのだ。
kana.iconうーーーん???戦争に対するこういう感じ方ってどうなのだろうか。
ところで、徴用された人たちってお給料もらえるの?
コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを知らなかったのだ。調和って、なんて美しくて素晴しい事なんだろうと、いささか驚き、呆然とした形だった。灰色の雨空と、淡い牡丹色の毛糸と、その二つを組合せると両方が同時にいきいきして来るから不思議である。手に持っている毛糸が急にほっかり暖かく、つめたい雨空もビロウドみたいに柔かく感ぜられる。そうして、モネーの霧の中の寺院の絵を思い出させる。私はこの毛糸の色に依って、はじめて「グウ」というものを知らされたような気がした。よいこのみ。そうしてお母さまは、冬の雪空に、この淡い牡丹色が、どんなに美しく調和するかちゃんと識っていらしてわざわざ選んで下さった……
kana.icon空の色と合わせる、なんて思ったこともなかった。
ふうん。直治とはkana.iconは全くわかり合えないや。この人、ボヘミアンタイプだね。私はダンディタイプなので。
戦争。日本の戦争は、ヤケクソだ。 ヤケクソに巻き込まれて死ぬのは、いや。いっそ、ひとりで死にたいわい。 人間は、噓をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この頃の、指導者たちの、あの、まじめさ。ぷ!
kana.iconふうん、でもこういうところまで読むと、直治も戦争のフェイクさにイラついてる感じがある。
僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が噓つきの振りをしたら、人々は僕を、噓つきだと噂した。僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。
え!!とつぜん本当のことを言い出した。
どうか、あのお方に、あなたからきいてみて下さい。六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかって、それは恋でも愛でもなかったけれども、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はいままで一度も、それを見失った事はございませんでした。夕立の晴れた空にかかる虹は、やがてはかなく消えてしまいますけど、ひとの胸にかかった虹は、消えないようでございます。どうぞ、あのお方に、きいてみて下さい。あのお方は、ほんとに、私を、どう思っていらっしゃったのでしょう。それこそ、雨後の空の虹みたいに、思っていらっしゃったのでしょうか。そうして、とっくに消えてしまったものと?
えー、素敵な表現。文の雰囲気もにあっていると思う。
kana.icon
うーん、なんだろう、この語り手の女性と全く気が合わないな。男の(ヘテロの女が男に対する恋がどーのこーのみたいな)話ばっかでくだらない、というか共感できないし、なにより子供がほしいというのがまじ宇宙人すぎる。養子ならまだしも、「生みたい」とかモンスターにしか思えん(まあ、逆の人から見たらこちらがモンスターなんだろうが。)
中年の女の生活にも、女の生活が、やっぱり、あるんですのね。このごろ、それがわかって来ました。英人の女教師が、イギリスにお帰りの時、十九の私にこうおっしゃったのを覚えています。「あなたは、恋をなさっては、いけません。あなたは、恋をしたら、不幸になります。恋を、なさるなら、もっと、大きくなってからになさい。三十になってからになさい」
でもこういうところはやっぱり洒落ている。ちゃんとしてるというか。へー、そういうのわかるんだ、みたいな。
ところで、その前の(断る縁談だが)、芸術家が「女の人はぼんやりしていてもいい」みたいなことを言うのはムカつくなあ。お人形か赤ん坊がほしいだけの気持ち悪い感性にしか思えない。
桜の園とロレンス。「かもめ」。最初に出てきた「トロイカ」は架空の本みたいだけど。 おっさんになって性欲がなくなったら妾は捨てられて本妻とすごすようになるとかなんとか。てことはやっぱり愛着はないんでしょうね。性欲のために愛着のないひとと暮らせるってkana.iconにはあんまりわからないな。性欲ではないけど金とか生活の安定とかなら、kana.iconも考えないわけではないけど、それでもやっぱりすぐに我慢がならなくなるから
kana.icon
あー、というかあれだ!!kana.iconは家が金持ちの女、嫌いだわ。雅子さんみたいなエリートの人はむしろ好きだけど、専業主婦志望みたいなほうのね。ちょっとぼんやりしているけど性格は癒やし系?優しい?みたいな。余裕があるからいい人ってタイプの。まあ「いい子」なんでしょうね。で、そのくせだいたいものすごいビッチ。男コロコロ変えるみたいな。そういうのがすっごく苦手だから無理なのか。まあ宇佐美とおんなじで(集団幻覚だけど)、そういう何も考えてないみたいな、自然っぽいの無理なんだよな。
で、そういう「お嬢さま」特有の気持ち悪いさ、貧乏、粗野な不良に憧れるみたいなのをやってるわけ。不良本人からしても不愉快だろうし、見てる側もまあ愉快ではないよね。持ってるもののお遊びはさ。
それに比べて、お母さまのほうは……、スタイルとセンスと気骨がありそうな気がするけど。
このような手紙を、もし嘲笑するひとがあったら、そのひとは女の生きて行く努力を嘲笑するひとです。女のいのちを嘲笑するひとです。私は港の息づまるような澱んだ空気に堪え切れなくて、港の外は嵐であっても、帆をあげたいのです。憩える帆は、例外なく汚い。私を嘲笑する人たちは、きっとみな、憩える帆です。何も出来やしないんです。 困った女。しかし、この問題で一ばん苦しんでいるのは私なのです。この問題に就いて、何も、ちっとも苦しんでいない傍観者が、帆を醜くだらりと休ませながら、この問題を批判するのは、ナンセンスです。私を、いい加減に何々思想なんて言ってもらいたくないんです。私は無思想です。私は思想や哲学なんてもので行動した事は、いちどだってないんです。
kana.iconおー、このへんはメタっぽくて好き。
というのも、手紙の章に入ってからみんな、私以外にも、「え、キモ、ストーカー?」と思ったんじゃないだろうか。読んだ人はだいたい。それに対して、「自分は必死なんだ、お前らはこんな本なんか読みながら今の暮らしに満足して、のんべんだらりと暮らしている。そのくせしてそんなふうに嘲笑できるのか?」「そして学識ぶったお前らは○○思想というふうにくくって批判のタネにして遊ぶだろうね」って言われている感じ。そのとおりだよ
てかこいつぜったい恋愛アカウントとかやってるでしょ笑笑やばいって。ちょっと暴走やめな??
ただ、この冒頭からある、母娘の複雑な関係は面白いな。かずこ(語り手)は「夏の花がきらい」でお母さまは好き、というようにあまり気が合わなそうなのだけれど、かずこは母親に愛されたくて、特別に思われたい。弟のほうが母親に好かれていると思って、それがいつも悲しく満たされない。
kana.iconからすると……まあ直治のほうがお母さまは気が合うのだろうなと思う。どちらも繊細で。かず子はなんか図太いから……。
老先生は支那間の壁掛の蔭に行って立ちどまって、「バリバリ音が聞えているぞ」 とおっしゃった。「浸潤では、ございませんの?」「違う」「気管支カタルでは?」 私は、もはや涙ぐんでおたずねした。「違う」 結核! 私はそれだと思いたくなかった。
あーなんかいいな。この、蔭のほうにいって暗い話をするっていうのがさ。
経済学、レーニン、社会革命。
共産主義が流行ってた時代か?
恋と革命、ねえ。
それにしても革命が本気で信じられてるのは今見ると面白い
神田のあたりなんだ〜
更級日記の話も出てくるけど、まだ読んでないからピンとこない。 あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと噓ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。
はあ。このあたりから来るのねー。左翼思想もそうだけど、アーバンギャルドのイメージソース。 「なんにも、いい事が無えじゃねえか。僕たちには、なんにもいい事が無えじゃねえか」
お!ちょっとずつかたちがみえてきた。
死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。
戦後、ちょうど戦後すぐでこういうことをいうか?(だからこそ、なのか)
蛇と死。やっぱりよい雰囲気。
ところで、「蛇の卵を焼いた」ことと、かず子が死産したこと、そして子供をほしがることはどういう繋がりか
老先生と叔父さまは、顔を見合せて、黙って、そうしてお二人の眼に涙がきらと光った。
このあたり、昔の漫画っぽい雰囲気がちょっとする
戦闘、開始。 いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。ローザが新しい経済学にたよらなければ生きておられなかったように、私はいま、恋一つにすがらなければ、生きて行けないのだ。
kana.iconなんで恋なんかにそんな真剣なのかよくわからないけど、とつぜんこの章を「戦闘、開始。」とかからはじめる思い切りの良さはすごい。
というか、あれか?戦争をおちょくってるってことなのだろうか。この自己中心的な語り手にわざわざ、戦闘≒恋みたいなことを言わせているのは、結局のところ、戦争の全体主義的なのが嫌になって、あくまで個人の、個人だけの、誰も理解できないようなことにこだわるしかないということなんだろうか(そう、ほんとに全くこの語り手のことは理解できないからね。他者から理解できないことこそが本当に個人的なことなんだろうか)
荻窪→阿佐ヶ谷→西荻
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と低く口ずさみながら、上原さんが私たちの部屋にはいって来て、私の傍にどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい封筒を手渡した。「これだけで、あとをごまかしちゃだめですよ」 おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを長火鉢の引出しに仕舞い込んで笑いながら言う。「持って来るよ。あとの支払いは、来年だ」「あんな事を」 一万円。それだけあれば、電球がいくつ買えるだろう。私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ。ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。
kana.iconさっき、電球も買えずに困っている奥さんと娘さんがいたのに、平気で居酒屋に一万円払っている。
「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついていない、こんな枝がすき。これでも、ちゃんと生きているのでしょう。枯枝とちがいますわ」
生きることについて?
「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢なところがある。
わかるわかる
うーん、よくわからないのだけど実際に上原にあって、かず子の恋がなくなったのはどうしてなんだろう。自分の生きている場所(お母さまと暮らしていた)の倦怠感があって、他の場所なら輝けると思ったけど、結局その場所はただ、悲しいだけでもっとひどかったから?
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね」
今の時代っぽい感じもする。なんというか希望のない感じ。これから未来がよくなるという感じがなくて。。。
犠牲者の顔。貴い犠牲者。 私のひと。私の虹。マイ、チャイルド。にくいひと。ずるいひと。 この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの髪を撫でながら、私のほうからキスをした。 かなしい、かなしい恋の成就。 上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになって、「ひがんでいたのさ。僕は百姓の子だから」 もうこのひとから離れまい。「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ」上原さんは、ふふ、とお笑いになって、「でも、もう、おそいなあ。黄昏だ」「朝ですわ」 弟の直治は、その朝に自殺していた。
びっくりした!直治が自殺したとか唐突に……。かず子は結局、置かれた場所で咲くというのか、これはこれで受け入れたということ?
「犠牲者の顔」のあたりがよくわからない。なんの犠牲者?
理想と現実のあいだで折り合いをつけられた……のかな。
人間は、みな、同じものだ。
なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」 なぜ、同じだと言うのか。優れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐。
そうか、ずーっと、全体主義への反感を言いたかったのか?
全体主義って線を引いたら、戦争の文脈を考えたらまあわかる。 直治は、「みんなと一緒になりたい、というかならなきゃ不安」けどどうしてもなれなくて、つらくなってヤク中になって死んだ。
貴族というのが「みんなと違う」ことであって、苦しんだ
共産主義、社会主義が流行って、それはそうと戦争やらなんだで日本人にまん延している全体主義があって、そのなかでうしろめたさを抱えて生きていかなければならない立場 お母さまも、直治の話すひとも、正直であるからよいということなんだろうか
いつか僕が、「友人がみな怠けて遊んでいる時、自分ひとりだけ勉強するのは、てれくさくて、おそろしくて、とてもだめだから、ちっとも遊びたくなくても、自分も仲間入りして遊ぶ」 と言ったら、その中年の洋画家は、「へえ? それが貴族気質というものかね、いやらしい。僕は、ひとが遊んでいるのを見ると、自分も遊ばなければ、損だ、と思って大いに遊ぶね」 と答えて平然たるものでしたが、僕はその時、その洋画家を、しんから軽蔑しました。
kana.iconうーん、私は前者より後者のほうが思い切りが良くて好きだな。前者のような「やりたくもないけど不安だからやったが後悔している」なんていうのは、悪い日本人根性だと思う。
かず子のいう、妄想じみた「恋」と、直治の切実な「恋」は全然違っているね。直治、これまでは語り手かず子の視点からしか描かれていなかったから
結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いんですから。
犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
……
いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。
kana.icon
第一印象、これがアーバンの元ネタか〜だった。いいのかわるいのか。
いまのサブカルチャーのはしりのような雰囲気がある。なんだろう、軽くてリズム感のある文体だからだろうか?そして、内容も、限りなく自己中心的に生きるということが(他者の理解し得ない個人的な動機で個人的な行動を行うことが)戦争つまり全体主義に抗うということだというようなものだと思った。ということは戦争の反動でヒッピーなどのサブカルチャーもあるから、そういう文脈を感じたのかな。 そもそもいまのサブカルチャーが太宰に影響を受けているというのはあると思う。なんなら、漫画とかもそうなんじゃないかな。ちょっと漫画的に感じる表現もあったし。
この作品それ自体に対しては、ふつうに面白いなと思った。人間失格がなんかあまりピンとこなくて、最後まで読み通せたことが一度もない。なんどもトライはしているんだけど……。だからこれもあまり期待していなかった、けれど予想以上に面白かった。蛇が巻き付いている木、がなんだかすごく印象に残った。 そして、全編を通して物悲しい感じがあり、だけども図太い語り手のおかげで、それでもなお残る希望、の感じもある(必ずしも暗いだけではない)
ところで、語り手は弟の直治をやっぱり嫌いなんだろうか?死んだというのに、とてもそっけない。直治は繊細で素直ないい子に見える。それが、遺書でわかる。それまでの語り手視点の直治は、ろくでもないやつ、みたいな感じだった。かず子からみた直治はそういういやなやつでしかないのかな、と思った。
public.icon