伊藤計劃日記
なにせいままで自衛隊の活躍する映画といったら腫れ物を触るように慎重だったものですから、メジャーなテレビドラマで悪役として扱われるってことは、世間的には「自衛隊を気軽に語っていい」という風潮が出てきたことじゃないのかしら。フィクションの道具として認められるって事は重要ですよ。
すでに「ヒーローという概念」があったのなら、金持ちであるブルース・ウェインは他の方法をとっていただろう。ヒーローが存在しない世界だからこそ、ブルースはシンボルとしてのコウモリを思いつき、ヒーローという概念を自力で開発したのだと。これは「もしリアルな世界に○○がいたら?」という上の話を実証する話だ。ノーランは「ヒーローが本当にいるリアルな世界」を創造することに心血を注いだわけだ。繰り返しになるけれど、これは極めてオタクの願望的な方向性なわけで、「違和感」を感じた人間はこの映画の根本な所から受け入れられていないわけだ(繰り返すけれど、これはオタク的ではない、極めて常識的な意見でもある)。 「ハルク」や「アイアンマン」は単に漫画が実写になっただけだ。「実写になる」だけでもオタクはうれしがるけれど、それがさらに「リアルな世界で展開される」とまた別の快楽をオタクは覚える。
リアルな世界で展開されるといえば,進撃の巨人(映画)はその手のアプローチを取ってた気がする なんだかガンマ線ナイフというのを患部に当てるらしく、意味もなくわくわくしている自分がいる。CT、MRI、PET、骨シンチ、とありとあらゆる医療機器に放り込まれてきた自分ではあるが、今回は名前に興奮する。ガンマ線ナイフ。響きが大変素晴らしい。ガンマ線ナイフ。なんだかプログレッシヴナイフのような響きを感じる。他には重粒子線というさらにSFっぽい抗がんデバイスがあるのだけれど(千葉にあるらしいのいだが、保険がきかず、一カ所300万円近くするらしい)、わたしの症状はそちらの適応には向かないらしい。
やはり宗教そのものがダイレクトに題材になると、イデオロギーのようなものが先行してしまうのだろうか、観念の荒さというか、観念特有のディテールのなさというか、そういうものを感じる。
うーん??
個人的には、フェルメールの快楽は窓から射し込む光の横溢でもなく、絵の中の絵といった自己言及性でもなく、服の皺の描き出す迷路のようなディテールにあると思っている。服の皺を見ているだけでうっとりする画家というのもそういない。これがレンブラントの場合は黒の黒々しさが快楽で、見る場所や快楽の源は画家によって違う。
伊藤が一番好きなフェルメールの絵らしい.
フェルメールのフェルメールっぽさ、というコードがあって、それは時代ごとに異なるのではないか、ということだ。我々の審美眼も我々の時代から逃れることは当然不可能だ。あの時代、人々がフェルメールだと思ったコードから、我々は解放され、恐らく別の「フェルメールっぽさ」のコードに囚われているのだろう。
で、問題は背景です。背景をよ〜く見てください。何が見えますか。ゴードンさんの後に、何が見えますか。そうです、ファイルキャビネットか本棚か、とにかく本か捜査資料のようなものが書架に並べてあります。この書架が問題なのです。汚い画像でわかりにくいかも知れませんが、センターやや右よりな手前のゴードンを境にしているんですが、わかりますか。
左半分が整頓され、右半分が乱雑になっているのが。
後々、トゥーフェイスに変貌する人間のオフィスで。
いやこれびっくり。これ見たときいの一番に思い出したのが押井守の名著「METHOD」。「パトレイバー2」のレイアウト(画面設計)集なんですが、その中で押井さんはレイアウトをコントロールする事で、ぱっと見ただけでは判らない映画のサブテクストを仕掛けているのですが、それは絵によって画面を設計する工程としてのレイアウトという段階があるから可能なのであって、まさか実写映画でこういうことをやられるとは思ってもみなかった。
9.11の後、いや、それ以前から視えていたこの残酷な混沌に対し、腹を括って理詰めで「これこれこういうことなので、どこにも逃げ場はありません」と言ってしまったノーランの「ダークナイト」を見てしまったあとで、バートンの癒しを受け入れることに対して、やましい気持ちを持つ自分の存在が、かなり大きなものになっている。癒しを越えた何かをバートンのダークなファンタジーに見いだすことは、今やかなり困難なのではないか。フェリーのシーンでの囚人と市民の選択が、かなり理詰めの嫌みスレスレな描写(つまり「良心」による選択ではない)であって「希望」とは単純に言い難いことは勘のいい人なら気がついているだろう。前振りとしてシーザーの話題が出ていたように、あそこは囚人のボスを王権に見立てた、王権と民主主義のシステムの対比としてある。恐怖に急かされた「セキュリティ」の時代に在って、バートンのジョーカーに恐怖を見いだすことはもはや難しい。
「リターンズ」も、物語の上では疎外されたもの同士が潰しあうというやるせないものだけれども、そこに注がれる視線は優しく、悲しく、それゆえ一種の安全地帯を用意してしまいかねないからだ。
癒されることにやましさを感じさせる空気の現出。「ダークナイト」が呪いじみた映画であるのは、要するにそういうことなのかもしれない。
声が露骨に女性なのに、さらに念押しで「〜よ」とか「かしら」のような非現実的な役割語を付けると、すごく恥ずかしくなる。小説媒体などは台詞の主体を一発で視認させる必要があるため、あるていど役割語を使うのは仕方ない(実際、MGS4ノベライズでは役割語を中心にけっこう台詞をリライトしました。これは声がある媒体から声のない媒体への移行ではあたりまえの作業)けれど、「声色」というものがある媒体で役割語の遣いどころを誤ると聞くに耐えない(耳にはまぶたがないから)。 単なる区切りだとか、何かが変わるわけでもないとか、それは確かにそうなのだけれども、でも、2008年にたどりついたということはやっぱり凄いことなのだ。2009年や2010年があるかどうかわからない、このぼくにとって、そして、潜在的には人類すべてにとっても。
だって、カフェが爆発したり、車で田舎走ってたら野盗に襲われたり、教会の下から三本足の巨大機械が出てきて殺人光線を撃ちまくったり、病気になったりするかもしれないんだもの。よくぼくも人類もここまでこれたよ。びっくりだよ。凄いよ。
明日にたどりつけたら、あさってにたどり着けたら、一月先にたどりつけたら、それはとても凄いことなのだ。
「パンズ・ラビリンス」をやっと見る。いい映画なんだけどデル・トロの演出ってどの映画もどことなく野暮ったい気がしてならない。題材もディテールも物語もいいのに。 入院中 そうなんだ.
ゲームのインターフェイスの変遷や、ゲームという言葉どおりそこに内在するルールをプレイヤーがいかに受容するか、などといった方向を、(平凡ですが、まあ例ということで)生権力の話や環境管理型権力(これなんてまさにゲームデザインの思考ですからね)の話などに絡めて論を展開するとか、そういう可能性はいくらでもあったように思うわけです。なにせコンシューマーゲームでは「システム」をひとつひとつ設計し、世界(物語空間ではない)を一回一回デザインすることが多かったわけですから。ゲームの中で物語性に絡まない部分であっても、いくらでも批評的な話はできたはず(じゃあお前やれよ)。 https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20080421/p1