あのこは貴族(映画)
あのこは実は貴族じゃない~『あのこは貴族』
さえぼうのレビュー
非常にかけ離れた華子と美紀の人生が交錯するのが、大学と芸術という階級流動装置の働きである。このふたつは階級が上の人々のものとされることがあり、それは間違ってはいないのだが、一方で非常に実力主義的な場所でもあるので、実力さえあればお金や家柄がなくても入っていけることがある。
ただちょっと思ったのは、ここで華子が美紀から得ているものは美紀が華子から得ているものより大きすぎるのじゃないかな…ということだ。そのあたりに不均衡がある気はするのだが、そうは言っても華子の自立で終わるのはさわやかではあると思う。
「あのこは貴族」に見るニケツのシスターフッド 幸一郎はその松明を受け取るか
キャスティングだけではない。岨手由貴子監督の脚本からは、本作を単なる原作のダイジェストに留めず映像作品として構築しようとする明確な意図を感じた。原作での結婚式の場面は「女性たちの結託によって幸一郎の鼻を明かす」という展開がケレン味たっぷりに描かれ、痛快なクライマックスとなる。しかし映画版では、結婚式当日の描写そのものが、ほぼ完全に省略されている。わたしは原作のこの場面が大好きだが、同時に、これは文字だから効果的なのであって、映像になるとこの展開自体のインパクトが大きくなりすぎるだろうということも理解できた。
披露宴という催しの白々しさを強調し、華やかさと裏腹の虚しさをこれでもかと見せつける原作が「動」なら、あれだけ華子が必死で目指してきた結婚式自体を「描かない」、正確に言えば、写真撮影の様子と、現像され額縁に収まった写真「だけ」を描くことで、それが華子にとっては単に「一族の体裁を保った証左」以上のイベントにならなかったことを表す映画版は「静」だ。
展開自体の起伏を強調する代わりに、本作では登場人物の状況や心情を理解するための情報は、全編に散りばめられたアイテムやモチーフの反復から、観客がそれぞれに暗示や示唆として拾い上げていけるようになっている。一見静かな場面でも、水面下では常に登場人物の感情や意思がさざめいているのだ。
たとえば、華子の見合い相手の、体に合っていないスーツの違和感。ここで何かあると思わせてからの、盗撮。「見る側」としての意識しか持たず、自分も見られる側であるという意識の欠落が、スーツの仕立てで示唆され、体に合った上等なスーツ姿の幸一郎との対比に繋がる。幸一郎に呼ばれて参加したパーティーでの、美紀のパンツスタイルも見逃せない。求められる役割がホステスとしてのそれであることをわかっていつつ、こういう場で美紀はドレスでなくパンツスタイルを選ぶ女なのだ。身につける衣装がこれほど人格を雄弁に語る。映像から受け取れる情報の豊かさが快感だった。
ポン・ジュノ監督作「パラサイト 半地下の家族」では、住居の物理的な高低差で視覚的に格差を描いていたが、物語の舞台となる富豪の住居は、山の手とはいえ坂の中腹に位置しており、「まだ上がある」ことを示唆していた。榛原家も日本の富裕層の中ではあくまでも坂の中腹、あるいはもしかすると、中腹にも届かない地位に過ぎないのだろう。
興信所を「普通じゃない?」と言い放つ幸一郎のかたわらで内心ギョッとする華子はこの瞬間、5000円のアフタヌーンティーを気軽に利用する同窓生を前にギョッとする美紀と同じ立場にある。「あのこ」というのは、美紀をはじめとした一般庶民から見た華子を指す言葉であると同時に、華子から見た幸一郎を指す言葉にもなる。
映画版では特に幸一郎を指す意味合いが大きくなっていると見え、それは原作の英語版タイトルが「Tokyo Noble Girl」であるのに対し、映画版では「Aristocrats」という、性別も人数も規定しないタイトルになっているところからも窺える。
「親父には似たくない」とこぼす幸一郎は、「家の存続」のためだけに存在する空虚さを自覚してしまっており、彼の人生は使命感と諦観に覆われている。家のため国のため、個を消して全体のために駒になる、夢も人間性も持つことを許されていない「容れ物」こそ「男性性」であり、その担い手の末席にいるのが幸一郎である。
「本当はそんなイヤなやつじゃないと思う」という美紀の幸一郎評は、しかし「イヤなやつ」としてしか生きることのできない幸一郎の哀切を浮かび上がらせる。いや、こういう人物が空虚なままに政治家として国を牛耳ろうとしている以上、わたしは彼に同情を寄せる余地などないはずなのだが。ベランダで土の手触りを求めては「華子もどうせ、自分と結婚したのはそうしなければならなかったからだろう」とこぼす、ここまで恵まれた環境に身を置きながら、この自尊心の低さはなんなのだろう。
一歩先に「押し着せの役割」の容れ物から抜け出し、個人として歩みはじめた華子と再会した幸一郎が、ボーイズクラブのようなスーツ姿の男たちに取り囲まれ「先生」と呼ばれて踵を返す背中にはどうしても、がんじがらめの息苦しさから逃れられない滑稽さを見てしまう。システムのコアに近いところに生まれるほど、そこから抜け出すのは容易ではなく、また抜け出すうまみもないのだろう。
ラストシーン、視覚的高低差を利用しつつ、下りかけた階段の途中から見上げる華子と、手すりに隔てられた上階の廓のような空間で男たちに取り囲まれた幸一郎は、ただ見つめ合う。華子の正面顔にカメラが寄るラストカットは、華子が見合い写真を撮影するカメラを見つめ、「あのこは貴族」というタイトルが現れるオープニングの反復で、円環構造になっている。
しかし「一族から期待されるとおりに結婚をする」役割を果たすため、男性に選ばれるための正面顔だったオープニングと比べて、ラストカットの華子の眼差しからは、美紀から受け取った自我という松明を幸一郎にも渡そうとするような、祈りにも似た力強さを感じた。女たちは一足早く抜け出して、ニケツで駆け出した。男たちよ、あなたはどうする。