圏論は難しい数学を簡単にするためにある
#圏論
本書の前半で、数学は難しいことを簡単にするためにあると述べた。そして今度は、圏論は数学の数学であることがわかった。つまり、圏論は難しい数学を簡単にするためにあるのだ。」
ユージニア・チェン『数学教室πの焼き方』 p. 313
つまり、数学は難しい問題を簡単にする、より具体的には元の問題と本質的に同じでありながらより解きやすい問題に置き換える。
しかし、難しいことを簡単にすることはそれ自体往々にして難しい。
そして、それを簡単にするのが圏論だということになるだろう。
つまり圏論は「『難しい問題を簡単にする』という難しい問題を簡単にする」
これもまた簡単ではないので、圏論も簡単ではない。
数学を使って難しい問題を簡単にする(置き換える)ことは、ときに元の問題を(難しいまま)解くことよりも難しく、その意味では、特定の問題のみにフォーカスするのであればコスパが悪いというか、ありがたみが薄いのかもしれない。
しかし、一度そのハードルを超えてしまえば、それによって様々な問題を一挙に簡単にすることができるというメリットが数学にはあり、「数学の数学」たる圏論にも(なおさら)あるのだろう。
数学は「数学は異なるものに同じ名前をつける技法(art)」(ポアンカレ)だから。
というか、なぜ異なるものを同じ名前をつけたいのかというと、同じ名前で呼ばれているものの一つについて言えたことが他のすべてにも成り立つからだろう。
個人的にここで思い出すのは、Hutchinsの"Cognition in the wild" (1995)で紹介されている、ポリネシアやミクロネシアの島々に住む人々に伝わる、海図を用いない伝統的な航海術である。
https://en.wikipedia.org/wiki/Micronesian_navigation
Hutchinsは、星空や環境そのものを手がかりとした彼らの航海術が非常に巧妙であり、航海士個人が行っていること自体は西洋的な海図を用いた航海術と違ったとしても、他の道具や環境を含むシステム全体を一つのシステムとみなした時、それらは等価な計算プロセスを実行しているとみなせることを示している。
つまり、原理的にはある海域の航海は地図なしでも可能であり、その技術を習得した者にとって地図は冗長である。
これは、「地図(海図)」を「(内的)表象」に置き換えることで、古典的な表象主義的認知科学と「世界そのものがそれ自身の最良のモデルである("The world is its own best model")」と主張するBrooksらの「内的表象なしの認知科学」の間の論争の縮図にもなっている。
しかし、John Stewart (2019)は、それらがしかに等価であると同時に、両者の間に大きな違いもあることを指摘する。
Stewart, J. (2019). Breathing Life into Biology. Cambridge Scholars Publishing.
たとえば18世紀のフランスの航海士ラ・ペルーズは、遠征航海の指揮官として世界中の土地を探検してそれを記録し、最終的にオセアニアで消息を絶った。しかし、彼の探検隊が記録した地図はフランスに送られ、また彼の旅の記録は死後出版されたという。
Stewartは、ラ・ペルーズの地図が、持ち運び可能(portable)で、他の航海士にも利用可能であり、他の地図と組み合わせることでより広い範囲の地図を作ることができることを指摘している。
一方Hutchinsによると、海図を用いない伝統的な航海技術は、ポリネシアでは植民地勢力との接触の結果として衰退し最終的には失われ、現在(1995年時点)ではミクロネシアにおいて伝統航海復興運動を推進している少数の人々によって受け継がれているという。
Stewartは、地図を含む筆記(writing)によって可能になるノウハウの「蓄積(accumulation)」が西欧とそれ以外の間の「偉大なる分岐(The Great Divide)」を(累積的に)引き起こしたと主張している。
そういう意味では、圏論の図式(diagram)はある種の「地図」(あるいは「地図の地図」?)であり、圏論を学ぶということはその「地図」の読み方(あるいはそれを含めたその土地の「歩き方」)を学ぶことなのではないだろうか。
そういえば、西郷甲矢人・能見十三『圏論の道案内』も、西郷さんがしばしば通りがかりに道を訊かれて「手持ちの紙に矢印を書いて」道案内をするという話から始まる。