圏論の「圏論的」学び方のすすめ?
私は圏論の概念を使った論文をいくつか書いているが、特に圏論に詳しいわけでもない。謙遜でもなんでもなく、本当に詳しくない。その辺の教科書を開いてもわからないことばかり書いてある。
やっぱり圏論は難しいと思う(そもそも数学は難しい)。「圏論はある程度現代数学を学んだ上で取り組むべき『大人の数学』である」と言う人がいるのもわかる気がする。
それでもこういう仕事がどうにかいくつかできているのは間違いなく共同研究者の方々のおかげなのだが、いわゆる「勉強」のフェーズから「研究」のフェーズへと踏み出す一歩目においては、共同研究者の1人の西郷甲矢人さんが布山美慕さんと書かれた「圏論による認知の理解」(『心をとらえるフレームワークの展開』収録)の最終盤におかれた以下の文章(emphasis added)にとても背中を押された: ここまでに挙げた圏論の特徴として認知研究に有用だと考えられるのは,関係性や抽象化の表現の豊かさ,そして(意外な)制約の強さにある.これらを使いこなすには,筆者らは,認知科学者が圏論を勉強するとともに,実際に小さな対象に対して“使って”みることが重要だと考える.圏論はその見かけの抽象性の高さから,実際に具体的に使おうとしなければ,その長短を実感することが難しい.また,使おうとして使えなかったとしても,圏論自体が新しい視点となり,研究対象の新たな構造に気がつくこともあるであろう.よって,まずは基礎的な概念までを学習し,簡単に研究対象を表現してみようとすることが,圏論の認知研究への応用のよい第一歩となるのではないだろうか.
ところで、この「まずは"使って"みる」という圏論の学び方は、それ自体(非常にナイーブな意味での)「圏論的」なアプローチとも言えるのではないかと思う。
圏論はしばしば集合論と対比され、後者は「まず個々の対象をその構成要素によって十全に特徴づけ、その後他の対象との関係づけへと移る」という順序を取るとされる。これはつまり「まずそれぞれを個別に詳しく知ってから、それらを関係づけよう」というアプローチである。
これはとても手堅い、王道のアプローチである。真面目で、誠実であると思う。
それに対して圏論は、「対象間の射こそが先立つのであり、個々の対象の特徴づけはその後に来る」という順序を取るとされる。
これは、非常に砕けた言い方をすれば「個々のものをそれぞれ個別に詳しく知らずとも、それらの間の関係からスタートしたっていい」ということではないだろうか。
もちろん、個々の分野について何も知らなくて良い訳ではない。
そういえば、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』にロベルト・ムージルの小説『特性のない男』("Der Mann ohne Eigenschaften")から取られた「本たちの間の関係のネットワークについては知り尽くしているが、個々の本を読んだことは全くない図書館司書」という極端な例が出てきた。
この『読んでいない本について堂々と語る方法』もまた「個々の本を読んでいなければそれについてコメントできるはずなどない」というある種の真面目さや誠実さへの反抗についての本である。バイヤール曰く、個々の本を読んだ(通読した)ことがあることよりも、それらが埋め込まれている本のネットワークを理解していることの方が重要なのである。
私自身、アフォーダンスを圏論的に理解する論文を書くなかで、自分で定めた圏と関手に関して自然変換をその定義に則って導いた時に初めて、自然変換の概念の真髄と強力さの一端に触れられたような気がした。自然変換の定義に従うだけで、アフォーダンスの理論が数十年かけて到達した関係性の構造がぽろっと目の前に現れたのである。なんと素晴らしいことか。 この気づきは同時に、アフォーダンスの理論の理解も深めてくれた。J. J. ギブソンが謎めいた言葉で語ろうとしたことが、極めてクリアにわかるようになった。詳しくはぜひ論文を眺めてもらいたい。
おそらく数学者が圏論を学ぶときも、定義のみをじっくり見て吟味するよりは自分にとって馴染みの深い例との関連を考えることで多くのことを学んでいるのではないかと思う(多くの教科書がそのような書かれ方をしているように見える)。
従来の圏論の教科書が非数学者にとってとっつきにくかったのも、そういった事情があると思う。
非常に抽象的に見える圏論の概念たちの定義は、それ自体として意味を持つというよりも、それが置かれている他のものとの関係性のネットワークの中においてこそ輝くのではないだろうか。
そういうわけで、「論文を書きながら/書くことによって勉強する」という贅沢な勉強法を可能にしてくれている共同研究者の西郷さんと田口さんにはただただ感謝しきりなのである。
そしてあなたも、まずはある程度基礎を学んだ上で気安く"使って"みるとよいのではないだろうか。