エナクティヴ・アプローチ関連の日本語文献
ここ数年で北大にCHAINが、OISTにTom Froeseのユニットができて、日本はにわかにEnactive Approachの中心地になりつつあるのですが、日本語で読める文献がなかなかなくて残念。是非ともなんとかしたいところですが、とりあえずそれまでの繋ぎとなりそうなものを集めてみます (ついでになんか色々と文句をつけていたりしますが……)
色々忘れている気もするので、思い出し次第追加します。他にあったらTwitterで@d_sake_uにおしえてください
※現状、日本語のみで深く学ぶのはほぼ不可能で、英語がどこかで必ず要る
英語が読める人向けの文献も適宜補足的に挙げていきます
英語が読めるなら、"Sensorimotor Life: An enactive proposal" か"Mind In Life"を読むべき
今はDeepLなどもあって英語を読むハードル自体はかなり下がっているので、英語が苦手でも頑張れば読める気もする
『身体化された心』
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原著:Francisco Varela, Evan Thompson, Eleanor Rosch(1991年)
Enactive Approachの原点にあたる重要な著作
…………なのだが、正直邦訳がだいぶ良くない
「being in the world」(=世界内存在)みたいな超基本的な哲学用語すら正しく訳出されていないし、仏教用語の訳も結構怪しい(らしい)
内容がやや古い
Enactive Approachは現在進行形で発展を続けている理論であって、『身体化された心』はその始まりにすぎない
この本は「原点」であっても「原典」ではない
エナクティヴ・アプローチは固定化された「主義(ism)」ではない。
だから"Enactivism"という呼称を避ける人もいる(Di PaoloやThompsonなど)
To the best of our knowledge, Varela used only the term “enaction” and never spoke of “enactivism,” which seems to be a later coinage. Although seemingly trivial, the point bears emphasizing, as it leaves open the possibility that Varela intentionally refrained from using yet another “-ism” so as to avoid conceiving his proposal as a doctrine within a well-defined field of inquiry, with a fixed repertoire of conceptual and methodological tools, etc.
Vörös, S., Froese, T., & Riegler, A. (2016). Epistemological Odyssey: Introduction to Special Issue on the Diversity of Enactivism and Neurophenomenology. Constructivist Foundations, 11(2), 189–204.
我々の知る限り、ヴァレラは「エナクション」という言葉だけを使い、後世の造語と思われる「エナクティヴィズム(エナクティヴ主義)」を口にしたことはない。 一見些細なことではあるが、この点は強調しておく必要がある。なぜなら、ヴァレラは自らの提言を、概念的・方法論的ツールの固定されたレパートリーなどを持つ、明確に定義された研究分野内における「教義」と見なされないように、新たに「〜イズム(〜主義)」という言葉を使うことを意図的に控えていたという可能性が残されるからである。
Varelaはこの本の出版から10年後に54歳で早逝するまでの間にもかなり多くの重要な仕事を残している
意識研究の文脈で知られている「神経現象学(neurophenomenology)」の提唱もこの時期(1995年ごろ)
特に、死の翌年の2002年に出たAndreas Weberとの共著の"Life after Kant"は、今のEnactive Approachの最も重要な論文の一つになっている
Weber, A., & Varela, F. J. (2002). Life after Kant: Natural purposes and the autopoietic foundations of biological individuality. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 1(2), 97–125.
この時期のVarelaの思想、特に生命のPrecariousness(不安定さ・不確かさ・危うさ)に関する議論には、彼自身の健康状態の悪化が深く関係していると考えられている
cf. Froese, T. (2017). Life is Precious Because it is Precarious: Individuality, Mortality and the Problem of Meaning. In G. Dodig-Crnkovic & R. Giovagnoli (Eds.), Representation and Reality in Humans, Other Living Organisms and Intelligent Machines (pp. 33–50). Springer International Publishing. https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-3-319-43784-2_3 Varelaは最後の10年間の仕事をEvan Thompsonとの共著で一冊の本にまとめることを試みていたが、健康状態の悪化から断念したらしい。その仕事はThompsonに託され、2007年に"Mind in Life"として発表された。
Varelaの死後も、Evan ThompsonやEzequiel Di Paoloらを中心として展開を続けている
とくに、後述するDi Paoloらによる深化と拡張は、日本では全く注目されていないがかなり目覚ましい
Alva Noeらの「Sensorimotor Contingency」の概念を中心とした知覚理論(Sensorimotor Enactivismと呼ばれる)やDaniel Huttoらの心の哲学寄りの理論(Radical Enactivismと呼ばれる)もEnactivismとして括られるようになった
これらと対比して、Varelaからの系譜を引き継いだEnactive ApproachはAutopoietic Enactivismと呼ばれることがある
「固定電話」「物理書籍」「オフラインミーティング」のような、後から登場した物と区別するために前からあった物の呼称に修飾がついたもの(いわゆるレトロニム) だが、彼らもオートポイエーシスの概念をそのまま無批判に引き継いでいるのではなく、むしろMaturana & Varelaのオリジナルの定義を批判してかなりのアップデートを施しているため、オートポイエーシスの概念をそのまま中心に据えているように見えなくもないこの呼び方も正直あまり芯を食ってない。
この本でのフッサールの現象学に対する批判に関して、著者の1人であるThompson自身が第二版の序文や"Mind in Life"の補論などで、誤りがあったことを認めている
晩年のVarelaも、フッサールの時間論に大きな関心を寄せるようになっていた:
Varela, F. J. (1999). The specious present: A neurophenomenology of time consciousness. In Naturalizing Phenomenology: Issues in Contemporary Phenomenology and Cognitive Science. Stanford University Press.
Varela, F., & Depraz, N. (2005). At the Source of Time: Valence and the constitutional dynamics of affect. Journal of Consciousness Studies: Controversies in Science & the Humanities.
当時はフッサールの著作(大量の未刊行の草稿を含む)の多くが英語に翻訳されていなかったのが原因の一つ
現象学と認知科学の交流の中で特に影響力が強かったドレイファスがハイデガーをベースにしていたためか、この分野ではフッサールは弟子のハイデガーやメルロ=ポンティらによって「乗り越えられた」観念論的な哲学者として扱われていることが多かったように思う(後述する『現象学入門』や、谷淳『ロボットに心は生まれるか』もおそらくそれに該当する。前者に関しては訳者解説でも言及されている)。初期〜中期に関してはそうした扱いはあながち間違いではないが、今では後期の膨大な未刊行草稿の出版・翻訳・解釈が成熟したこともあり、ハイデガーなどの後続に劣らない広範な射程を備えた彼の構想の全体像が明らかになっている(ダン・ザハヴィ『フッサールの遺産』や田口茂『現象学という思考』『フッサールにおける〈原自我〉の問題: 自己の自明な〈近さ〉への問い』などを参照)
というわけで、正直一冊目としてはあまりお勧めできない……かもしれない
(が、日本語だとこれくらいしか選択肢がないというのも事実なので、いずれどうにかしたい……)
Mind In Lifeの翻訳があれば迷わずそちらを勧められるのだが、、、
少なくとも、これに書かれていることがEnactive Approachの全部だと考えるべきではない
これを読んで色々わからなくても、正直あまり気にしなくていいところがある
後の発展形から見ると、議論が未成熟なところがある
前述の通り、「原点」ではあっても「原典」ではない
内容が古くなっているということは、その後の議論が健全に進展していることの他ならぬ証拠である
『現象学入門:新しい心の科学と哲学のために』
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ステファン・コイファー & アントニー・チェメロ
タイトル通り現象学に関する本だが、最終章が現代の認知科学とのつながりに関する章で、そのなかにエナクティヴ・アプローチの簡潔だが的確な解説がある
本全体が、最終章の内容に至るまでのストーリーとして現象学と心理学を捉え直しているとも言えるので、哲学・心理学側の前提知識を一通り攫うのにも使える
おそらく全体の構成としてはハイデガーとメルロ=ポンティを中心としてそれ以前と以降+心の科学との接点、というふうになっているので、フッサールの扱いはやや観念論者的な哲学者としての側面に寄っているように思う(訳者解説でもそれについての言及が少しある)
個人的には、本全体としては哲学を全く知らない状態だと読むのが難しい類の本だと思う
哲学一般への入門としては貫成人『哲学マップ』などが、現象学への入門としては谷徹『これが現象学だ』田口茂『現象学という思考』『現代現象学:経験から始める哲学入門』などが役に立つ
より発展的なものとしては、ショーン・ギャラガー&ダン・ザハヴィの『現象学的な心』も参照
こちらではフッサールの思想との関連についてより明示的に述べられている
『知覚のなかの行為』
アルヴァ・ノエ
https://www.shunjusha.co.jp//images/book/489949.jpg
日本では、詳しそうに見える人を含めて「エナクティヴィズム=アルヴァ・ノエらのSensorimotor Contingencyの理論」だと思っている人が多い(というかほとんど?)気がするけれど、実際は「Sensorimotor Enactivism」というサブカテゴリーの一つに位置付けられる(もちろん重要ではある)
VarelaやThompson、Di Paoloらの系譜のEnactive Approachと違うのは、大まかに言えば「自律性(Autonomy)」の観点があるかないかという点
Autonomyとは、Enactive Approachでは基本的にオートポイエーシスの概念を細胞の物理・化学的プロセスから一般化したものと考えていい
この点は、土谷尚嗣さんたちの、「米田の補題」にインスパイアされた「クオリア構造」の試みと対比してみても面白いかも。
Varela and Thompson (2001) は、身体性に関係する3つのレベルのサイクルを挙げている:
(1) 身体全体の、生体(organism)の制御のサイクル
いわゆるオートポイエーシスやそれの一般化としてのオートノミー=自律性がこのレベルにあたる
(2) 生体と環境との間の感覚運動的なカップリングのサイクル
(3) 行為の意図の認識と言語的コミュニケーション(人間の場合)を含む、間主観的な相互作用のサイクル
下で紹介する"Participatory Sense-Making"(参与的意味創造)などの議論が、このサイクルに関連する
Thompson, E., & Varela, F. J. (2001). Radical embodiment: neural dynamics and consciousness. Trends in Cognitive Sciences, 5(10), 418–425.
これらのレベルは区別されつつ、相互に依存し合っている
下のレベルが上のレベルを可能にするだけでなく、上のレベルのサイクルによって下のレベルのサイクルのありかたが根本的に変化している
Sensorimotor Contingencyの理論が扱っているのは2つ目のサイクルであり、生体としての自己の維持のサイクルと、他のエージェントとの相互作用におけるサイクルは明示的には考慮されないか、付加的なものにすぎないとされる
EnactivismにおけるAutonomyの概念の扱いについては、以下の論文を参照:Barandiaran, X. E. (2017). Autonomy and Enactivism: Towards a Theory of Sensorimotor Autonomous Agency. Topoi. An International Review of Philosophy, 36(3), 409–430.
Di Paoloは、「物の知覚とは運動と感覚情報の間の関係に関する知識である」とするノエらのSMCの理論が表象主義から抜け出せていないということを指摘している
ノエら自身もそれを認め、むしろそれでいいとすら述べてもいる
However, the sensorimotor approach is as easily trapped by the representational pull as other embodied functionalist theories. O’Regan and Noë seem to accept that the visual system extracts, stores, and categorizes information about the environment in one form or another, and makes use of it to influence current or future behavior. Also, mastery of the laws of sensorimotor contingency is itself a form of knowledge that presumably would need to be stored somehow. The authors are happy to label such stored information representations, in apparent conflict with their claim that there are no representations of the world in the brain (O’Regan and Noë 2001, pp. 950, 1017).
"Sensorimotor Life: An enactive proposal" p.30
しかし、感覚運動的アプローチは、他の身体性機能主義の理論と同様、表象主義の引力に絡め取られやすい。オリーガンとノエは、視覚系が環境に関する情報を何らかの形で抽出、保存、分類し、それを利用することで現在または将来の行動に影響を与えることを認めているようである。また、感覚運動的な随伴性の規則を習得することは、それ自体が知識の一形態であり、おそらく何らかの形で保存される必要があるのだろう。著者らは、このような保存された情報に「表象」というラベルを進んで付けており、これは脳内には世界の表象は存在しないという主張とは明らかに対立する(O'Regan and Noë 2001, pp.950, 1017)。
『創発する生命』
ピエル・ルイジ・ルイジ
https://www.kinokuniya.co.jp/images/goods/ar2/web/imgdata2/47571/4757160372.jpg
ルイジはVarelaとともにオートポイエーシス的な化学システムを人工的に作り出す研究に着手したことで有名だが、2004年に発表した論文"Autopoiesis with or without cognition"で「オートポイエーシスは、生命を特徴付けるには必要条件ではあるが十分条件ではなく、足りないのは認知(cognition)である」と指摘するなど、コンセプチュアルな方面の仕事もしている
Bitbol, M., & Luisi, P. L. (2004). Autopoiesis with or without cognition: defining life at its edge. Journal of the Royal Society, Interface / the Royal Society, 1(1), 99–107.
オリジナルのオートポイエーシスの概念に対するルイジの批判は、Di Paoloによる「オリジナルのオートポイエーシスではAdaptivityが明示的に考慮されていない」という指摘ともかなり共通する部分がある
Di Paolo, E. A. (2005). Autopoiesis, Adaptivity, Teleology, Agency. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 4(4), 429–452.
cf. Bourgine, P., & Stewart, J. (2004). Autopoiesis and cognition. Artificial Life, 10(3), 327–345.
ほぼ同時期に発表された、同じくAutopoiesisには(真の意味での)cognitionが欠如しているという趣旨の論文
この本には彼の2003年のレビュー論文"Autopoiesis: a review and a reappraisal"とほとんど同じ内容の章「オートポイエーシス─生命の論理」が収録されていて、Enactive Approachの源流にあるオートポイエーシスの概念の肝要な部分を手早くかつ正確に理解するのに役に立つほか、Enactionへの言及もある。
Luisi, P. L. (2003). Autopoiesis: a review and a reappraisal. Die Naturwissenschaften, 90(2), 49–59.
個人的には、オートポイエーシスについて知りたければMaturanaとVarelaの本や日本語の解説書等よりも先にこちらを読んだ方がいいと思う
もっと言ってしまえば、エナクティヴ・アプローチのなかで言及されているオートポイエーシスや自律性などの概念に関してより深く知ろうとして現状日本語で出版されている(この本以外の)オートポイエーシス関連の本を参照しても正直ほとんど役に立たないし、逆に(少なくともエナクティヴアプローチを理解する上では)誤解が深まる可能性がある。
オートポイエーシスの概念に関しては、上で言及したLuisiらによるものを含め、主にVarelaの共同研究者や後継者らを中心として、21世紀に入ってからそれに欠けていた論点をきちんと指摘し補うことでアップデートしようとする(僕からすれば至極真っ当な)試みがなされ(下記参照)、そしてエナクティヴ・アプローチにおける自律性の概念もそれに含まれるのだが、日本国内のオートポイエーシス研究者はそれをなぜか無視している(そもそもこの文脈におけるこの20年の国際的な研究の動向を追っている様子がほとんど伺えない)ので、全然話が噛み合わない。
Di Paolo, E. A. (2005). Autopoiesis, Adaptivity, Teleology, Agency. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 4(4), 429–452.
Bitbol, M., & Luisi, P. L. (2004). Autopoiesis with or without cognition: defining life at its edge. Journal of the Royal Society, Interface / the Royal Society, 1(1), 99–107.
Luisi, P. L. (2003). Autopoiesis: a review and a reappraisal. Die Naturwissenschaften, 90(2), 49–59.
Bourgine, P., & Stewart, J. (2004). Autopoiesis and cognition. Artificial Life, 10(3), 327–345.
Weber, A., & Varela, F. J. (2002). Life after Kant: Natural purposes and the autopoietic foundations of biological individuality. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 1(2), 97–125.
これはおそらく、日本でのオートポイエーシス研究がどちらかというとMaturanaからの影響を強く受けており、晩年にかけてそこから少しずつ離れていったVarelaの仕事を正当に理解・評価することができなくなっているのだと思われる。
例えば、日本におけるオートポイエーシス研究において最も影響力を持ってきた河本英夫は、マトゥラーナを「規格外」の人間と評価する一方、ヴァレラを「ごく普通の関心の広い科学者」と評していたりする(『哲学の練習問題』文庫版 p. 270参照)。
Maturanaの系譜は国外にも(主にチリを中心として)存在するが、彼らもまたエナクティヴ・アプローチを批判しており、Maturana系とVarela系の間の溝は国内に限ったものではない。
Villalobos, M., & Razeto-Barry, P. (2020). Are living beings extended autopoietic systems? An embodied reply. Adaptive Behavior, 28(1), 3–13.
良書をめざとく訳してはあっさり絶版にして入手困難にすることに定評のあるNTT出版から出ている本なのでやや手に入りにくいのが難点
(それでも、同社から出ていた『現れる存在』の文庫化前の状況よりはかなりマシなのだが……)
巻末の郡司さんの解説も面白い。
進化可能性を生命の定義に含める限り、進化は世代間で集団において起こるものであるから、一個体の性質のみに基づいてそれが生命か否かを判断することはできない、という指摘は個人的に結構目から鱗だった。
郡司のオートポイエーシス批判(手短なものとしては、『生命壱号』p.194-198, 『生命、微動だにせず』, 『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』第5章註4および第6章第2節などを参照)は、Maturana & Varelaのオリジナルのオートポイエーシス概念に対する晩年のVarelaやその後のDi Paoloらによる批判(The enactive conception of life などを参照)と共通する部分がある 生命と意識の行為論 : フランシスコ・ヴァレラのエナクティブ主義と現象学
下西風澄
晩期のVarelaの思想についてまとめられている。
とくに、自律性とsensorimotor couplingの間の関係が明示的に語られているのが良い
が、タイトル通りあくまでVarelaの思想を中心とした概説という側面が強く、ここで扱われていない議論(とくにDi Paoloらによって主導されたこの15~20年の間の展開)もあるということには注意
『生成と消滅の精神史』のヴァレラの章も参照
この本のフッサールの章もかなり良かった。この章で語られている、フッサールの『イデーン』に代表される中期以前から後期にかけての、「意味付与 (sinngebung = sense-giving)」するものとしての純粋に能動的な自我から身体・他者・生活世界の流れに埋め込まれたものとしての受動性を伴った自我への展開は、まさにヴァレラの晩期からDi Paolo以降のEnactive Approachにおいて起こっている展開とパラレルになっている
例えばEnactive Approachの中心的な概念である"sense-making"に関して、ヴァレラは主体の「意義の余剰(surplus of significance)」によって外界に付与されるものだと考えていた(ように読める)のに対して、Di Paoloらは世界との(過剰に)リッチな相互作用の中からの「減算」的なものとして捉えている。Enactive Approach and Bergsonを参照 冒頭で挙げたDi Paoloらの著書 "Sensorimotor Life"の "Life" は、「生命」という意味だけでなく「(日常)生活」という意味も含まれている(同著のintroduction参照)
This is one of the senses of the title of this book. Sensorimotor life is the life we live while we are engaged in doing things, in appreciating our surroundings, in organizing our activities, in executing adequate moves and correcting the wrong ones, in evaluating how things are going and what comes next, surfing opportunities and dodging risks. It is the life we spend perceiving, changing, and utilizing the world around us. This life occupies most of the hours in the day. It is the most concrete and recurring manifestation of our minds. (p. 4)
エナクティヴな間主観性─参与的意味創造と相互編入
Thomas Fuchs & Hanne De Jaegher (田中彰吾訳)
オリジナルのオートポイエーシスや『身体化された心』と今のEnactive Approachの間の大きな違いの一つは、後者が間主観性(intersubjectivity)や社会性にさらなる重きを置いていることであり、この論文はその差分を埋めるのに役立つ
Enactive Approachと間主観性・社会性については、以下の論文なども参照:
De Jaegher, H., & Di Paolo, E. A. (2007). Participatory sense-making: An enactive approach to social cognition. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 6(4), 485–507.
De Jaegher, H., & Froese, T. (2009). On the Role of Social Interaction in Individual Agency. Adaptive Behavior, 17(5), 444–460.
Froese, T., & Di Paolo, E. A. (2009). Sociality and the life-mind continuity thesis. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 8(4), 439–463.
Cuffari, E. C., Di Paolo, E. A., & De Jaegher, H. (2015). From participatory sense-making to language: there and back again. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 14(4), 1089–1125.
Di Paolo, E. A., Cuffari, E. C., & De Jaegher, H. (2018). Linguistic Bodies: The Continuity between Life and Language. MIT Press.
Enactive Approachにおける社会性への展開は、ルーマンらによるオートポイエーシスの概念を応用した社会学とはさまざまな点で異なることに注意。
『自己と他者:身体性のパースペクティヴから』
田中彰吾
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51MMot5gQNL.jpg
著者は、上で挙げたThomas Fuchsの下で研究員をされていた方
Enactive Approachにおける間主観性に関する議論への言及が多くある
『生きられた〈私〉をもとめて』も合わせておすすめ
エナクションの現象学 : 身体的行為としての事物知覚と他者知覚
宮原克典(博士論文)
事物知覚とエナクティヴィズム
宮原克典
上二つは未読です。すみません……
現象学年報 32
エナクティヴ・アプローチと現象学の関係に関する特集が組まれている
『「態勢」の哲学:近くにおける身体と生』
佐藤義之
https://www.keisoshobo.co.jp//images/book/577041.jpg
このページを書いているときに見つけた
基本的にNoeの議論をベースにしているようだが、彼のSMCの理論が「生」や「実存」を軽視していることや、ThompsonらのEnactive Approachとは距離があることなどについての言及が冒頭にあり、かつNoeの議論を批判的に検討していくことで「態勢」という概念を生と結びついたものとして特徴付けるという方針をとっているようなので、ThompsonやDi PaoloのEnactive Approachともパラレルな関係にありそう
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Enactive Approachに分類されるかというと微妙だけどそれに関連する文献
『オートポイエーシス』『知恵の樹』
ウンベルト・マトゥラーナ & フランシスコ・ヴァレラ
Enactive Approachの源流にあるオートポイエーシスの理論について
しかし、Enactive Approachはマトゥラーナとヴァレラが展開したオートポイエーシスの理論をそのまま引き継いでいるわけではないことに注意
オートポイエーシスは「self-distinction(自己区別化、膜)」と「self-production(自己生産、代謝)」という二つのプロセスからなるが、マトゥラーナとヴァレラがこの二つのプロセスがどのように調和的・循環的な関係を保っているのかについて明示的に言及していなかったことをDi Paoloは批判し、その上でそうした循環的な関係がシステム自身の制御によって能動的・適応的に維持される必要があることを指摘している
Enactive Approachでは、オートポイエーシスを細胞における物理・化学的なプロセスから一般化した「自律性(autonomy)」の概念が中心となっている
Froese, T., & Stewart, J. (2010). Life After Ashby: Ultrastability and the Autopoietic Foundations of Biological Autonomy. Cybern. Hum. Knowing, 17, 7–49.
これらを読んで細かいところで「?」となっても、正直あまり気にしなくていい
上述の通り、まずはルイジの『創発する生命』のオートポイエーシスの章をあたった方がいいと思う
『現れる存在: 脳と身体と世界の再統合』
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Enactive Approachは、表象主義的な認知科学へのオルタナティヴなアプローチをまとめた「4E cognition」の一つとして言及されることが多いが、その他の「E」の一つがClarkとChalmers(「意識のハードプロブレム」などで知られる)らによる「Extended mind(拡張された心)」
あと2つはEmbedded、Embodied
Extended MindとEnactive Mindの関係については、Di Paolo, E. A. (2009). Extended Life. Topoi, 28, 9–21 などを参照
同著者の「生まれながらのサイボーグ』も参照。Enactive Approachの中でもよく扱われる感覚代替(sensory substitution)デバイスの話などについて詳しく書かれている
『ハンス・ヨナスの哲学』
戸谷洋志
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Varelaの最晩年("Life after Kant")以降のEnactive Approachにおいて中心的な役割を担うようになっているのが、ハイデガーの弟子の1人であるハンス・ヨナスであり、この本(の特に第3・4章)で解説されている内容はかなり色濃く今のEnactive Approachに反映されている。そのため、『身体化された心』と今のEnactive Approachの間の差分に当たる部分について知るのにおすすめできる
ヨナス自身の著作は邦訳があるので、この本の後にそれら(特に『生命の哲学:有機体と自由』)を読むのもよい
文庫化されたので手に入れやすく、内容も分かりやすくて非常に読みやすい。
ヨナスの他にも、シモンドンなどがよく参照される。ヨナスがself-production(代謝、時間方向の発展)の哲学者であった(膜についてはあまり明示的には語っていない)とすれば、シモンドンはself-distinction(膜、空間方向の安定化・個体化)の哲学者として位置付けられ、二つは相補的である(Linguistic Bodies参照)。
An essential difference between autopoiesis and the rest of the wider class of self-organization is that what is by definition a process of material self-production must as a result generate a self-distinguishing concrete unity and not simply a physical pattern. The unity is self-distinguishing because it is constructed and sustained by its own activity in spite of the equalizing physical tendencies. This is now a step forward, for not only does autopoiesis describe much of what Jonas predicates of metabolism but it goes a bit further by making explicit the need for an actively constructed boundary that physically separates metabolism from the external medium.
Di Paolo, E. A. (2005). Autopoiesis, Adaptivity, Teleology, Agency. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 4(4), 429–452.
「オートポイエーシスは、Jonasが代謝について述べていることの多くを記述しているだけでなく、代謝と外部媒体を物理的に分離する、動的に構築された境界の必要性を明示することによって、さらに一歩前進しているのである。」
The key operation of a living body is its ongoing self-differentiation, a constant swerve away from the moment-to-moment local tendencies inherent in its material processes both in the temporal sense given by self-production (nutrients are metabolized, i.e., transformed into parts of the system, thus compensating for decay, satisfying lacks, neutralizing excesses) and in the spatial sense given by self-distinction (the actively conserved differences and gradients between interiority and exteriority). For Simondon, self-individuation is precisely the avoidance of full stability by ongoing renewal of metastable states rich in potentialities (what he calls the preindividual, which is carried along with the self-individuating body as a reservoir of potentialities). For Jonas, metabolism implies ongoing transitions from one material configuration to the next, thus avoiding equilibrium, except in death. The tension described in these views is manifested at all levels with the result that living systems are rendered intrinsically active, self-differentiating, and restless.
Linguistic Bodies
シモンドンに関しては詳しくないが、以下が参考になった:
『発達へのダイナミックシステム・アプローチ』
エスター・テーレン、リンダ・スミス
https://www.shin-yo-sha.co.jp//images/book/455441.jpg
Enactive Approachと交流の深かった発達心理学者らの著作。原著は結構古いが、なぜか最近になって翻訳された
発達心理学関連では、ヴァスデヴィ・レディ『驚くべき乳幼児の心の世界』もよく参照されている
『脳はいかにして心を創るのか―神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志』
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ウォルター・フリーマン
晩年のVarelaが、自身の構想に非常に近いものとして言及していたのがフリーマンの研究だった
知覚が、外界からの刺激によって一意に特定されるのではなく、脳自体の内発的な活動を背景としてのみ成立し、しかもその活動が構造性と不安定性を持ったカオス的なものであることが我々の経験そのものの性質に結びついていることが語られている
津田一郎『心はすべて数学である』『脳のなかに数学を見る』なども参照。
『ロボットに心は生まれるか』
谷淳
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ロボティクスの立場からの、現象学・哲学的な議論へのアプローチ
第一部が人工知能、現象学、認知・神経科学、力学系理論などのまとまった入門になっていて非常に有用
これと『現象学入門』と『創発する生命』のオートポイエーシスの章で、必要な基礎知識は大体揃うのでは
第二部は著者自身の研究のレビューになっている
ブルックスの身体性ロボティクスを踏まえつつそれを超えていく著者の研究は、オートポイエーシスの理論を踏まえつつそれを超えていくEnactive Approachとパラレルになっている
(いい本なのだけど、高い……)
身体的自己意識の認知科学
鈴木啓介、宮原克典
『現象学という思考』
田口茂
https://www.chikumashobo.co.jp/photo/book/large/9784480016126.jpg
田口茂の「媒介」の概念を中心とした現象学の構想は、今の(Di Paolo以降の)Enactive Approachとかなり親和的
「媒介論的現象学の構想」(pdf)、『圏論による現象学の深化』(『現代思想』圏論特集号に収録)なども参照 これを読んだ後にVarelaの”Ethical Know-how"(これも未邦訳)を読むと、Enactive Approachとのつながりがよくわかる
『〈現実〉とは何か』
西郷甲矢人、田口茂
https://www.kinokuniya.co.jp/images/goods/ar2/web/imgdata2/large/44800/4480016902.jpg
「非規準的選択」とそれに伴う主体性の議論は、Enactive ApproachにおけるAgencyの議論(cf. Barandiaran et al., 2009) とかなり相性がよいと思われる
Barandiaran, X. E., Di Paolo, E. A., & Rohde, M. (2009). Defining Agency: Individuality, Normativity, Asymmetry, and Spatio-temporality in Action. Adaptive Behavior, 17(5), 367–386.
この本では、「視点をもつ」ということが圏論における「関手」の生成として議論されている。この「視点」に関する議論は、Enactive Approachにおける「主体がそれ自身の視点を通じて世界を立ち上げる(=enactする)」という観点とも通じ合う
「現実」は、何らかの視点をもつこと、あるいは何らかの「問い」を立てることを通じてしか現れない(「問いがなければ答えはない」)。しかし、すべての「視点」には「それでなくてもよかった」という「非規準性」が伴い、一つの視点=関手に固着するのではなく、関手と関手の間の変換関係である「自然変換」を通じて初めて「現実」というものを考えることができるようになる。
この「問いがなければ答えはない」というテーゼ自体が、Enactionの本質であると言える
同時に、複数の「視点」の間の非規準性は、いかなる視点も取ることなく鳥瞰的に一望してその中からどれか一つを選ぶようなかたちで成立するのではなく、どれか一つの視点が選ばれた上で「他でもあり得た」ということでしか成立しない。言い換えれば、その都度必ず何らかの視点が「生きられる」必要がある。これは、Enactive ApproachにおけるAutonomyの観点と響き合う
非規準性は、『身体化された心』における「無根拠性(groundlessness)」と本質的に同じであると思われる
何かの規準を固定化しそれを根拠(ground)とすることの無効化
「個々のものに固着しないが、個々のものをおろそかにもしない」というこの本の立場は、Maturana & Varelaよりも関係論的な側面を強めつつも「自律性(autonomy)」の概念を手放さない(素朴な関係一元論≒「場の実体論」に陥らない)VarelaやThompson、Di PaoloらのEnactive Approachの立場に非常に近い
図らずも(?)、本質的には現状日本語で読める最良のEnactive Approachに関する本になっている
著者らが仏教思想から深く影響を受けていることを考えると、ある意味で必然的なことかもしれない
西郷+田口とEnactive Approachを結びつける線として、以下も参照:Froese, T., & Taguchi, S. (2019). The Problem of Meaning in AI and Robotics: Still with Us after All These Years. Philosophies, 4(14). https://doi.org/10.3390/philosophies4020014 人工知能と現代哲学: ハイデガー・ヨーナス・粘菌
森岡 正博
2019年からOIST(沖縄科学技術大学院大学)で身体性認知科学のユニットを立ち上げているTom Froeseの論文や、"Life after Kant"への言及がある
言及されている論文:Froese, T., & Ziemke, T. (2009). Enactive artificial intelligence: Investigating the systemic organization of life and mind. Artificial Intelligence, 173(3-4), 466–500.
Tom Froeseは2010年前後からEnactive Approachの中心人物の1人となっている
ドレイファス以降の、ハイデガーやヨナスの哲学と人工知能の関係に関する記述も貴重。
(ほぼ?)同じ内容の章が、同著者の反出生主義を扱った著書『生まれてこないほうが良かったのか? ──生命の哲学へ!』(ちくま選書)に最終章として収録されている。
和書でTomの論文やLife after Kantが参照されているのは、今のところこれ以外で見たことがない
この本は著者の「生命の哲学」の構想に関するシリーズの1冊目にあたるらしく、今後の展開にも注目。
AI時代の「自律性」
https://www.keisoshobo.co.jp//images/book/481980.jpg
ドミニク・チェン氏執筆の章に、今のEnactive Approachにおける「Autonomy」の概念を扱ったBarandiaranの論文への言及がある
Barandiaran, X. E. (2017). Autonomy and Enactivism: Towards a Theory of Sensorimotor Autonomous Agency. Topoi. An International Review of Philosophy, 36(3), 409–430.
のだが、読解がかなり恣意的であるように思う
上でも述べたように、日本でのオートポイエーシス受容(河本英夫ら)とそれの認知科学・社会学・情報学への応用(基礎情報学、ネオ・サイバネティクス)はかなり独自色が強く(それ自体は悪いことではもちろんない)、Enactive Approachにおける自律性に関する議論とはかなりの程度別物であることに注意が必要
彼らは『身体化された心』はこぞって参照するのに、Varelaの最晩年の頃以降のEnactive Approachの動向には全く関心がないらしい(というか、そういうものがあるということすら正しく認識できていない気がする。Mind In Lifeも参照しているけど多分まともに読んでない)。少なくとも、Di Paolo周辺の人の論文を引用している彼らの文献はこれしか見たことがない(他にあったらぜひ教えてほしいです)