エナクティヴ・アプローチにおける「適応性(adaptivity)」について
#Enactive_approach
https://scrapbox.io/files/6881e32e70c8be5c567b0dcc.png
Di Paolo et al., 2018 "Linguistic Bodies" p. 38
他のページでも書いたように、日本ではエナクティヴ・アプローチ(or エナクティヴィズム)の知名度はそこそこ上がってきたような気がするものの、それに関する日本語文献で全くといっていいほど紹介されてこなかったのが「適応性(adaptivity)」の概念である。
たとえば最近出た吉田・田口『行為する意識:エナクティヴィズム入門』でも言及されていない(見た限り)。
注で、この本で扱っている「エナクティヴィズム」がヴァレラが存命中のものとそれをまとめたトンプソンの"Mind in Life"のものに限定されていることには触れられている。
僕が知っている限り、日本語で読める唯一の言及はコイファー&チェメロ『現象学入門』(田中・宮原訳)中の以下の2箇所(p. 249, 259)である:
[……] マトゥラーナとヴァレラは、オートポイエーシスを生きたシステムの本質的特徴だとみなす。最近になって、ディパオロ(Di Paolo 2008)がオートポイエーシスそのものは生命の十分条件ではないという説得力のある主張を唱えた。彼が適応性(adaptivity)と呼ぶものも必要なのである。適応性とは、みずからが生存可能性の限界に接近している場合にそのことを察知し、状況を変えるために措置を講じることができるシステムの能力である。これはオートポイエーシス理論に対する重要な修正として広く受け入れられている。これはたとえば、前章でとりあげたブルックスのロボットがどうして生きていないかを示している。
ここで引用されている"Di Paolo 2008"は以下の論文:Di Paolo, E. A. (2009). Extended life. Topoi. An International Review of Philosophy, 28(1), 9–21. https://doi.org/10.1007/s11245-008-9042-3
適応性 (adaptivity): みずからの生存可能性の限界に接近しているときの状況に応答する生きているシステムの能力。
改めて見るとちゃんと必要最低限のことは言われているのだが、これだけみてもなんのこっちゃわからんだろう。
この本でのエナクティヴ・アプローチに関する解説は決して長くはないのだが、そのなかでもこのように(概略的でこそあれ)触れられているというところから、この概念が今のエナクティヴ・アプローチにとって避けて通れないものであることも察せられるだろう。
その他の日本語で読めるエナクティヴ・アプローチ関連の文献に関してはエナクティヴ・アプローチ関連の日本語文献を参照。
これは、2005年にEzequiel Di Paoloによる論文"Autopoiesis, Adaptivity, Teleology, Agency"において提唱された重要概念で、僕を含む現在の(国外の)エナクティヴィストの多くがこのadaptivityがエナクティヴ・アプローチの核にある「認知とは、生物個体による環境に対する主体的・能動的な意味づけ="sense-making"である」という考えを指示するのに不可欠であると考えている。
上の引用でも言われているように、この概念はマトゥラーナとヴァレラによって提唱された「オートポイエーシス」の概念と深く関連するものであり、かつそれが「生命にとっての必要十分条件である」という彼らにとって最も中心的な主張に対して切り込んだ重要なものなのだが、日本におけるオートポイエーシス系のコミュニティもこれについて全く言及していない。
世界全体ではこの20年で約1200回引用されているにも関わらず、である。
これに関して、2023年末にある本のために書き下ろした日本語のチャプターの中で解説していたのだが、それが一向に出版される気配がないので、改めて今の自分の表現で思いつくままに書いてみようと思う。
なんか色々と体裁が整っていないが、あくまで研究ノート的なものとしてゆるくみてほしい。
オートポイエーシスの議論が非常にわかりにくいのは、一つには、それが実際に何を言えていて何を言えていないのかがわかりにくいからだろう。僕自身は、ここで紹介するDi Paoloの議論を通じて初めてオートポイエーシスが何を言わんとしていたのか、その輪郭を掴むことができた気がした。その感覚を少しでも共有できればと思う。
蓋を開けてみたら中級者向けくらいの感じの文章になってしまった気がする……
とくに「※」が頭についている文は他より注釈的・発展的な内容なので読み飛ばしてもいい。
ちなみにcommand + Pなりctrl + Pなりでブラウザの機能でページを印刷→「PDFに保存」をすると、このページの文章部分だけをPDFとして保存できる。
が、ちょくちょく更新や修正がされるので最新版を読みたければブラウザで見た方がいい。
背景となった文脈
まず、この論文が発表された当時の時代的な背景について軽く述べておこう。
軽くと言いつつ気づいたらここも割と詳しめな記述になってしまっていたが、よくわからないところはさらっと読み流してもいい。
第一に、2001年にFrancisco Varelaが若くしてがんで亡くなったことをきっかけの一つとして、彼とHumberto Maturanaが提唱した「オートポイエーシス」の概念の功績とその限界についての議論が活発になり、その後の数年間にそれに関する論文が相次いで発表されていた:
Luisi, P. L. (2003). Autopoiesis: a review and a reappraisal. Die Naturwissenschaften, 90(2), 49–59. https://doi.org/10.1007/s00114-002-0389-9
Bitbol, M., & Luisi, P. L. (2004). Autopoiesis with or without cognition: defining life at its edge. Journal of the Royal Society, Interface / the Royal Society, 1(1), 99–107. https://doi.org/10.1098/rsif.2004.0012
Bourgine, P., & Stewart, J. (2004). Autopoiesis and cognition. Artificial Life, 10(3), 327–345. https://doi.org/10.1162/1064546041255557
Ruiz-Mirazo, K., Peretó, J., & Moreno, A. (2004). A universal definition of life: autonomy and open-ended evolution. Origins of Life and Evolution of the Biosphere: The Journal of the International Society for the Study of the Origin of Life, 34(3), 323–346. https://doi.org/10.1023/b:orig.0000016440.53346.dc
別の要因としては、英語圏で最初に発表された論文から30周年だったことなどがある。
これらに共通しているのは、オートポイエーシスの概念が、提唱者たちがそれを「生命が満たすべき必要十分条件」として提唱したのに対し、実際には「必要条件ではあるが十分条件ではなかった」と指摘していることである。
つまり、部分的には生命の普遍的な性質を捉えることに成功し、その点ではいい線を行っていたのだが、それだけでは生命と非生命を分けるには不十分であり、提唱者たちの当初の目的を達成はできていないということ。
なかでも、後期のVarelaの共同研究者だったBitbol & LuisiおよびBourgine & Stewartらが相次いで共通して指摘しているのが、オートポイエーシスにはそれ自体では「認知(cognition)」が欠如している(そして実際の生命は程度の差こそあれ全て非自明な意味で「認知的」である)ということである。
言い方を変えると、オートポイエーシスの条件をミニマルに満たすが「認知的」でないような系を考えることができるということであり、さらにいえばそのような「オートポイエーティックだが認知的ではない」系を(人工的に)構成することができる、と主張している。
Bitbol & Luisiの場合、Luisiらの研究チームでは「ミニマルにオートポイエーティックな化学反応系を実際に構成する」という、のちの合成生物学(synthetic biology)の走りとなった研究を行っており(Nature論文にもなっている)、そしてそれにある程度成功したのだが、出来上がったシステムを見て、オートポイエーシスだけでは生命の非自明な特徴を捉えるのには不十分であるという洞察に至っている。
彼らは、オートポイエーシス的な系が認知的であるためには、環境との相互作用を通じて系の内部構造が時間的に変化する必要があり、そしてそれはオートポイエーシスのミニマルな定義からは必ずしも帰結されない(単に同一の構成要素Cが環境との相互作用を通じて入れ替わり続けるだけでもよい)と主張している。
オートポイエーシスの必要十分性に関する彼らの議論は、日本語でもピエル・ルイジ・ルイージ『創発する生命:化学的起源から構成生物学へ』の第8章(特にpp. 205-209)で簡潔な概説が読める。
Bourgine & Stewartの場合、3次元のテッセレーションオートマトンというかたちでシミュレーション上でオートポイエーシスの条件をミニマルに満たすような人工生命的なモデルを提案した上で、それが彼らのいう「認知」的な性質を持っていないということを主張している。
彼らは、オートポイエーシス的な系が「認知的」であるためには、環境との相互作用を通じて系による環境(あるいは系と環境の間の関係)に対する動的な介入が起こり、かつそれが系自身の存続可能性を維持あるいは増大させるようなものである必要がある、と主張している。
Maturana & Varela自身もオートポイエーシス的な系による認知について論じている(というかMaturanaのそもそもの関心は「認知の生物学 biology of cognition」にあった)のだが、そこで述べられているのは「認知=オートポイエーシスの成立」、つまり"Life (= autopoiesis) = Cognition"という見方である。それに対してBitbol & LuisiおよびBourgine & Stewartは、オートポイエーシス的な系と環境との間の相互作用が「認知的」と呼びうるものであるためには、単なるオートポイエーシスの成立・維持以上の何かが必要であると指摘している。
※ ちなみに、オートポイエーシスと認知の間にどのくらい強い結びつきを見出すかに関してはBitbol & LuisiとBourgine & Stewartの間で若干の差異がある。前者が「autopoieticでなければ認知的であり得ない」(つまり生命はautopoieticなシステム全体の部分集合)と主張するのに対し、後者はその二つが独立に成立可能であると示唆している。
もう一つの文脈としては、Varela自身が、特に最後の10年間の仕事を通じて、オートポイエーシスの「breakdown(崩壊・破綻・故障・機能不全・途絶)」や「lacking(欠損・欠落・欠如)」がその個体にとっての世界の「認知」にとって根源的な役割を果たしているということを強調するようになったということがある。ここでいう"breakdown"は、必ずしもその個体の全面的な(完全に後戻り不可能な)崩壊(=死)だけを意味するのではなく、個体自身が「生きている」という状態を維持しているなかで起こる大小の故障・不調・機能不全・躓きがそこに含まれている。たとえばVarela (1997; p. 80)では以下のように述べられる:
The source for this world-making is always the breakdowns in autopoiesis, be they minor, like changes in concentration of some metabolite, or major, like disruption of the boundary. Due to the nature of autopoiesis itself [...] every breakdown can be seen as the initiation of an action on what is missing on the part of the system so that identity might be maintained.
Varela, F. J. (1997). Patterns of life: intertwining identity and cognition. Brain and Cognition, 34(1), 72–87. https://doi.org/10.1006/brcg.1997.0907
「この世界形成の根源は、常にオートポイエーシスの破綻にあり、それは、いくつかの代謝物の濃度の変化のような小規模なものから、境界の破壊のような大規模なものまである。オートポイエーシスの本質上、あらゆる破綻は、システムの欠如している部分に対する行為の開始と見なすことができ、それによって同一性が維持されるのである。」
彼の死後2002年に出版されたAndreas Weberとの共著論文"Life after Kant"では、「生きる」ということが必然的・潜在的にそのような大小の崩壊の可能性を伴っていることを"precariousness"(脆弱さ、不確かさ、不安定さ)という言葉で表している。
※ "precarious"という言葉は、語源的には"pre-"(〜の前に)ではなく"pray"(祈り)から来ており、原義としては"obtained by entreaty or prayer"、「祈りや嘆願によって得られているような」ということらしい。つまりそれは、自分自身の力だけでは完全には制御しきれず、最終的に「神頼み」にならざるをえないような不確実性のことを指している。
彼がこのような"breakdown"や"precariousness"の概念を通じて強調したのは、生物にとって「生きる」ということが、絶えず自身の「崩壊」に抗い続けることであり、そのような「抗い」なしには「生きている」という状態が保たれることはないということ、すなわち、その個体にとっての「生きている」という事実が、ただ受動的に与えられているものではなく、それ自身がそれ自身の活動を通じて動的・主体的に作り上げられる「達成物(achievement)」であるということである。
そのような意味で、この時期からVarelaはオートポイエーシスを自己の同一性(個体性)の「自己確証」(self-affirmation)と表現するようになる。
これには、彼自身の体調の急速な悪化が少なからず関係していたという指摘もある(e.g., Froese, 2017; p. 43):
And he [Varela] was also forced to recognize its [mortality's] importance personally as he dealt with the rapidly deteriorating state of his own body toward the end of his life.
Varelaは、こうした"breakdown"が、オートポイエーシス論が対象とする細胞レベルの現象だけでなく、我々の日常生活における(主観的)経験においても重要な役割を担うと述べている。
彼は晩年の著書"Ethical Know-how" (1999)の中で、以下のような場面を切り取っている:
Picture yourself walking down the street, perhaps going to meet somebody. It is the end of the day and there is nothing very special in your mind. You stop at a kiosk and buy a pack of cigarettes, then continue on your way. You are in a relaxed mood. You put your hand into your pocket and suddenly you discover that your wallet is missing. Your mood is shattered. Your thoughts are muddled. And before you know it, a new world has emerged. You see clearly that you left your wallet at the kiosk. Your mood shifts again to one of concern about losing your documents and your money. The only thing on your mind now is getting back to the store as quickly as possible. You ignore the surrounding trees and passers-by; all your attention is directed at avoiding further delays.
「街を歩いている自分を想像してみてください。おそらく誰かと会うために歩いているところです。一日の終わりで、特に何も特別なことはありません。キオスクでタバコのパックを買って、そのまま歩き続けます。あなたはリラックスした気分です。ポケットに手を入れると、すぐに財布がないことに気づきます。あなたの気分は一瞬にして崩れ去ります。思考が混乱します。気づけば、新たな世界が目の前に広がっています。キオスクに財布を忘れたことに気づきます。気分は再び、書類やお金を失ったことへの心配に変わります。今や頭の中は、できるだけ早く店に戻ることしかありません。周囲の木や通行人を無視し、それ以上遅れることを避けることに全ての注意が向けられます。」
我々の生活=生命(Life)は、常にこのような、ある固有の場面、ある「世界」に結びついた自己から別の自己へのあり方への移行と、それに伴う「あたらしい世界」の生成を経験しており、そしてそれは古い自己の「破綻(breakdown)」を伴う。Varelaはこのような、ある固有の世界に結びついた個々の自己を「microidentity」、それと結びついた世界を「microworld」と呼んでいる。そしてVarelaは、この"breakdown"の瞬間にこそ生きているシステムによる認知の根源があるという:
... In fact, the key to autonomy is that a living system finds its way into the next moment by acting appropriately out of its own resources. And it is the breakdowns, the hinges that articulate microworlds, that are the source of the autonomous and creative side of living cognition. Such common sense, then, needs to be examined on a microscale, for it is during breakdowns that the concrete is born.
「実際、自律性の鍵となるのは、生きているシステムが自らのリソースから適切に作用することで、次の瞬間へと至る道を見いだすということです。そして破綻[breakdown]、すなわちマイクロワールド同士を接合する蝶番こそが、生きている[生物の]認知の自律的かつ創造的な側面の源なのです。このような常識は、微小のスケールにおいて精査される必要があります。なぜなら、破綻の最中にこそ、具体的なものが生まれるからです。」
実はこのような視点は、以下で述べるように、「生きている(=オートポイエーシスが成立している)限りその個体と環境の間の関係が"congruent"(調和的・合同的)であり続けている」という古典的なオートポイエーシスの理論とは一線を画すものとなっている(少なくとも、そこから必然的に要請されるものではない)。
そして2005年の論文でDi Paoloが指摘するのは、後期のVarelaによるsense-makingとしての認知という見方を擁護するには、古典的なオートポイエーシスの概念の描像に対して、Varelaが行なったよりもさらに決定的かつ明示的なアップデートを施す必要がある、ということなのである(p. 433)。
... autopoiesis simpliciter cannot provide the intended grounding for sense-making.
「単なるオートポイエーシスは、sense-makingに対して[Varelaによって]意図されていたような基礎づけを与えることができない。」
以下で述べていくように、元々のオートポイエーシスの理論は生物自身による環境のsense-makingを必ずしも支持せず、むしろ積極的に否定している部分もある(sense-makingのように見えるのは「観察者による解釈にすぎない」と言われる)。
古典的なオートポイエーシス
Maturana & Varela(以下、M&Vと略記)によって提唱されたオートポイエーシスとは結局なんだったのだろうか。一部の人たちはそれを金科玉条のように掲げるが、ではなぜ、当初提唱者たち(やそのフォロワーたち)が目論んだような生物学における根本的な革命が起こらなかったのだろうか。
それは本当に、大多数の生物学者の不勉強や無理解によるものなのだろうか。
晩期のVarelaの共同研究者でもあった合成生物学者のLuisi (2003, 2007)は、そのような頑固な態度がオートポイエーシスの概念が受け入れられることの大きな妨げになってきたと指摘する。
かたや、それを全くまともに扱わない人が多いが、ではこの理論が言わんとしていたことは完全に間違っていた荒唐無稽な机上の空論にすぎないのだろうか。
以下でも説明するように、オートポイエーシスは即物的に言えば「膜と代謝の相互依存」のことだと言っても間違いではない(M&V自身もそういう表現をしている箇所がある。たとえば『知恵の樹』p. 54)が、生物にとってそれが重要であることは少なからぬ生物学者が認めるだろうし、むしろあまりにも自明すぎると捉えるのではないだろうか。
もちろん、M&Vは生物学者が自明のものとして想定してしまっているものをこそ考えたのだが。
ここで(少なくとも科学者として)健全な態度は、それがどのようなことを言おうとして、それにどの程度成功・失敗し、それゆえにどのようなアップデートが必要かを検討することだろう。
「オートポイエーシス」という言葉は「自己」を表す接頭辞"auto-"と「創造・生産」を表す"poiesis"を合わせて作られた造語で、生命が自分自身の活動を通じてそれ自身を作り続けることを指す。
晩年のVarela (1997)による定義を見てみよう:
an autopoietic system is organized (defined as a unity) as a network of processes of production (synthesis and destruction) of components such that these components:
1. continuously regenerate and realize the network that produces them, and
2. constitute the system as a distinguishable unity in the domain in which they exist.
「オートポイエーティックなシステムは、構成要素の生産(合成と破壊)のプロセスからなるネットワークとして組織化される(統一体として定義される)システムであり、それらの構成要素は次の特徴を有する:
1. それらを生産するネットワークを継続的に再生し実現し、
2. 存在する領域において区別可能な統一体としてシステムを構成する。」
もう一つ、Maturana and Varelaによる定義を見てみよう:
オートポイエティック・マシンはホメオスタティック・マシンである。だがオートポイエティック・マシンの特性はこの点にあるのではなく、それらが基本的な変数を一定範囲に維持しているという点にある。〈オートポイエティック・マシンとは、構成素が構成素を産出するという産出(変形および破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)された機械である。このとき構成素は、次のような特徴をもつ。
(i) 変換と相互作用をつうじて、自己を産出するプロセス(関係)のネットワークを、絶えず生産し実現する、
(ii) ネットワーク(機械)を空間に具体的な単位体といて構成し、またその空間内においで構成素は、ネットワークが実現する位相的領域を特定することによってみずからが存在する。〉
したがってオートポイエティック・マシンは、それ自身の構成素を産出するシステムを機能させることによって、不断に有機構成を生みだし特定する。そしてこのとき、ゆらぎとゆり戻しが繰り返されながら、構成素は果てしなく循環する。
『オートポイエーシス:生命システムとは何か』pp. 70-71(読みやすいように改行を追加)
近年のエナクティヴ・アプローチの文脈では、箇条書きの1つ目の側面は"self-production"(自己生産)、2つ目の側面は"self-distinction"(自己区別)と呼ばれることが多い。時期によって細かな表現に変化はあるが、大まかに言ってこれら2つの側面から定義されるという点に関しては大きく変わることはなかった。
たとえば:https://www.dialecticalsystems.eu/contributions/enaction-and-dialectics-part-ii/
ここで素朴に思い浮かぶ疑問は、これら2つの側面は同じことを言っている(少なくともオーバーラップがある)、あるいはどちらか一方を他方に還元可能なのではないか?ということである。実際、「オートポイエーシス」という言葉が字義的に意味しているのは「自己生産」で、とすればself-distinctionはやや冗長、あるいはadditionalであるようにも見える。
実際、self-productionは細胞における「代謝」、self-distinctionは「膜」にしばしば対応づけられるが、理論生物学における生命の理論的・形式的モデルのほとんどが生命の「代謝」的な側面、つまりは何らかのプロセスや因果関係がなすループ的な構造に着目している(e.g., Kauffmanの自己触媒ネットワーク)のに対し、「膜」の必然性にスポットライトが当たることはほとんどない。
生命の起源のシナリオに関する仮説には大別して「複製(核酸)ファースト」(RNAワールド仮説など)「代謝(たんぱく質)ファースト」(カウフマンなど)などがあるが、それら2つの間のいわゆる「鶏が先か卵が先か」論争に比べると「膜(脂質)ファースト」派(Damer and Deamerなど)はあまり人気がない。
では、なぜこの2つが(区別されるものとして)必要だと考えられたのだろうか。
ここで、理解のためのメタファーとして役に立つと思われるのが、数学的帰納法による証明のプロセスである。
たとえば何らかの命題Pが全ての1以上の整数nで真となることを数学的帰納法で証明したい時、やるべきことは以下の2つを示すことである:
1. inductive step: ある任意に選ばれたkに関してn = kでPが真になると仮定した時、k+1でも同様に真となる。
2. base case: n=1の時にPが真となる。
重要なのは、1の方を示しただけでは不十分だということである。もしこれが成立していると示せたとしても、それは「ある仮定をおけばこれが成り立つ」ということが示されただけで、そこで仮定されていることが実際に正しいとは限らない。それとは独立に、ある具体的数値においてそれが確かに成立しているという「事実」が求められる。反対に、ある(いくつかの)数に関して成り立ったからと言ってそれが全ての場合で成り立つとは限らない。つまり、「あるステップkで成り立てばk+1でも成り立つ」ということと、個々具体的な数において実際に成り立っているという事実は相補的な関係にあり、個々の具体的なステップにおいて成り立っているという事実を「飛び石」としてそれまでの推論とそこからの推論が接続されることで、それがドミノ倒しのように無限に続けられるのである。
オートポイエーシスの定義の2つの側面も、これに似た相補的な性質を持っているように思われる。つまり、self-productionは、「あるタイムステップにおいてある生物が個体として成立していればそれが(環境との相互作用を通じて)次のタイムステップにおけるそれ自身を作り出すことができる」ということに対応し、self-distinctionは、「個々のタイムステップ、よりspecificには〈今ここ〉において現にその生物が個体として成立している」という基底的・具体的な事実に対応していると考えても、さほど的外れではないだろう。そしてこれら2つは相互に還元不可能で補い合っている。
これをM&Vは「閉包(closure)」という数理概念を用いて表現しようとしている。閉包とは、特定の操作や関係などで「閉じた」ものの集合で、つまりその要素のどれに対してその操作を適用しても、得られるものが元の集合の中に含まれているようなものである。たとえば、力学系は、その相空間(phase space、その系がとりうる状態全体)のどの状態に状態遷移を適用してもその結果が相空間に含まれており(その意味で「閉じて」いる)、それによって状態遷移を再帰的に適用しつづけることができる。
"Operational Closure"の和訳についても参照。
くわえて重要なのは、M&Vが「構造決定論(structural determinism)」というある種の決定論・機械論的な世界観に強くコミットしていることである。これは以下のようなかたちで表明されている:
... 科学者としてのわれわれは、構造的に決定された単体だけを、相手にすることができる。つまり、すべての変化が構造によって決定されているようなシステム、そこではすべての構造的変化がシステム自身の内的ダイナミクスか外部との相互作用によってのみひきおこされるようなシステムだけを、われわれは相手にすることができる。
『知恵の樹』p. 110(emphasis added)
ここでいう「構造」(structure)とは、「組織」(organization)と対をなす概念で、何らかの関係性のクラス(組織)を物理的に実現している具体的状態をもったインスタンスだと思ってよい。
組織とは、あるシステムがある特定のクラスのメンバーとなるために、そのシステムの構成諸要素相互のあいだに存在しなくてはならない諸関係のことだ。構造とは、ある特定の単体をじっさいに構成しその組織を現実のものとしている、構成要素と関係の全体をさす。
こうして、たとえば水洗トイレを例にとると、水位調整システムの組織は、水位を探知することのできるしかけと、水が流れこむのを止めることのできるもうひとつのしかけとの、関係によって成立している。水洗トイレというユニットは、フロートとヴァルヴを作り上げている、プラスチックと金属の混合システムからなる。とはいえこの特定の構造は、トイレとしての組織を失うことのないままに、プラスチックを木に置きかえるという変更をくわえられることもできる。
『知恵の樹』p. 58
それに先立つ1980年の『オートポイエーシス』の方では、オートポイエーシス的なシステムが「機械(machine)」であることが繰り返し強調されている。
つまり、あるシステムの状態およびそれが置かれている環境(との相互作用)が決まれば、次のステップに起こることも一意に定まるということを前提としている。
これは、オートポイエーシスにおけるself-production、すなわち、ある時点kで「生きている」のであれば、次の時点k+1でも「生きている」という状態が維持されるということが、適切な条件さえ整えば「Aならば必ずBが成り立つ」という決定論的なプロセスでありうることを示唆している。
単純化して言えば、たとえば「ある時点kで生きているのであれば次の時点k+1においても〈99.5パーセントの確率で〉生きているという状態が維持される」というような確率的なdecayが入ったりしない(少なくとも今置かれている条件下では)ということ。
ここでの「適切な条件さえ整えば」という条件付けに関わるのが「構造的カップリング」である。それは、ある個体とその周囲の環境が「お互いを破壊しない」ような両立的(compatible)な関係にある状況を指す:
単体がその環境とのあいだに破壊的相互作用をはじめないかぎり、観察者としてのわれわれは、環境の構造と単体の構造とのあいだに、〈両立性〉あるいは〈合同〉を、かならず見いだすことになる。この両立性があるかぎり、環境と単体は、おたがいに状態変化をひきおこしながら、攪乱をもたらす相手としてふるまうことになる。ぼくらはこの進行するプロセスを、構造的カップリングと呼んだのだった。
『知恵の樹』 p. 114
さて、有機体と環境との構造的カップリングは、作動的に独立したふたつのシステムのあいだで、起こるものだ。有機体をその環境においてダイナミックなシステムとして維持するということに眼をむけるなら、この維持は、有機体と環境との〈両立性〉を中心にすえて成立しているように見えるだろう。その両立性こそ、適応と呼ばれるものだ。ところで、生物とその環境とのあいだに破壊的相互作用が起こり、生物のオートポイエーシス・システムが崩壊してしまうのが観察されれば、ぼくらはその崩壊してゆくシステムのことを、適応を失ってしまったものと見なす。ある単体のある環境への適応とは、したがって、その単体のその環境との構造的カップリングの、必然的な結果だ。これは驚くにはあたらない。いいかえれば、個別の構造的変化の歴史としてのすべての個体発生とは、組織と適応の維持をともなって起こる、構造的ドリフトのことなのだ。
まとめておこう。オートポイエーシスの保存[conservation]並びに適応の保存[conservation]は、生物の存在にとっての必要条件である。ある環境におけるある生物の個体発生的構造的変化は、つねに、環境の構造的ドリフトと合同する構造的ドリフトとして起こる。そしてこのドリフトは、生物が生きているかぎりおこなわれる相互作用の歴史において、環境によって「選択」されてきたものだと、観察者には見えるだろう。
『知恵の樹』 p. 117(ただし訳註を削除し"conservation"の訳を「維持」から「保存」に改変)
換言すると構造的カップリングとは「自分を保つような相手(環境)を保つ」という関係であり、なおかつここでの「保つ(conserve)」とは「(自ら進んで)破壊しない」という意味であり、結局のところそれは「自分を破壊しないような相手を破壊しない」という関係である。
一方が他方を破壊してしまうような「破壊的相互作用」と違って、「構造的カップリング」においては、個体と環境の間の調和的(両立的)関係が繰り返し、再帰的に再現され続ける。より正確に言えば、そのような調和的関係の外側へと少なくとも「自分から」出ていくことはなく、外的要因(システムとその外部の環境を合わせた「合成系」にとっての外側にある「メタ環境」的な要因)によるイレギュラーなことが起こらない限りは、その内側をぐるぐると周遊=「ドリフト」することになる。そしてその限りで、「ある時点で『生きている』状態にあれば、その次の時点でも『生きている』という状態が保たれる」という自己生産が保証されることになり、またその限りでその生物が環境に「適応(adaptation)」していると言われることになる。
ここでの「ドリフト」というタームは木村資生の「遺伝的ドリフト」から取られており、M&Vはこれを系統発生だけでなく個体発生にも当てはめている。
※ 系とそれが置かれている環境の「合成系」、さらにそれにとっての「メタ環境」というタームは西郷(2024)より拝借した。
M&V自身も『オートポイエーシス』の中で以下のようにシステムと環境の「合成系」について述べている(p. 70):
ここに機械Mがあるとして、Mは環境にもフィードバックを繰り返し、出力の結果が入力にも影響をあたえている。このとき私たちは実は、より大きな機械M'について語っているのであり、M'を規定する有機構成[organization]には、環境とフィードバック回路の両方がふくまれている。
ではなぜこのような調和的な、都合のいい関係があると言えるのか? M&Vはそれについてほとんど積極的な説明をしていない(ただそれが「実際に起きている」ということしか実質的に言っていない)のだが、彼らの回答は「そうでなければシステムは崩壊する("otherwise, it distintegrates")」という彼らの著作にしばしば現れるフレーズに集約されていると考えられる。
上で引用したようにM&Vは「オートポイエーシスの保存並びに適応[構造的カップリングの成立]の保存は、生物の存在にとっての必要条件である」と考えた。これは言い換えると「〈生物が存在する〉ならば〈構造的カップリングが成り立っている〉」という論理関係である("otherwise, it distintegrates"はその対偶)。そしてこれに「今(我々自身を含む)生物が実際に生きて存在している」という既成事実を合わせると、前件肯定により「構造的カップリングが成り立っている」も真ということになる。
もちろん何らかの(その生物と環境を合わせた系にとって)イレギュラーな事態によって構造的カップリングが壊れることはあるが、そうするとその生物は遅かれ早かれ消滅("disintegrate")するので、結局のところそれは生きている生物に関して「構造的カップリングが成り立っている」ということには影響しない、というふうにも言えるだろう。
この論法は、ある種の(戯画化された?)自然選択に基づく適応の説明にも似て見える。実際、Di Paolo (2009; p. 17) は次のように指摘する:
In effect, the theory of autopoiesis says nothing about how relational interactions and internal compensations are coordinated. They just happen to be or else there is no autopoietic system. So, in this specific interpretation (irreducibility as non-intersection), autopoietic theory is strictly Cartesian in a way that Jonas and enactivism (and even Maturana and Varela themselves!) are trying to avoid. The Malebranchean solution—i.e., that God takes care of the coordination between non-intersecting substances,—here takes the form of appeals to evolution, appeals that are pregnant in the phrase ‘‘otherwise it disintegrates’’. Evolution takes care of sieving out those unhappy organisms for which the two domains are uncoordinated.
「実質的にオートポイエーシスの理論は、関係的な相互作用と内的な補正とがどのように連係されているのか[環境との相互作用とシステム自身の状態変化の間の調和的な整合性がどのように保たれているか]について何も言っていない。それらはただ、たまたま存在しているか、そうでなければオートポイエーシス的なシステムが存在しないかでしかない。つまり、この特定の解釈([Maturana (2002)の主張する]非交差性としての還元不可能性)においてオートポイエーシスの理論は、[ハンス・]ヨナスやエナクティヴィズム(そしてマトゥラーナとヴァレラ自身さえも!)が避けようとしている仕方で、厳密にデカルト的[心身二元論的]である。マルブランシュ[17〜18世紀の神学者]的な解決法——すなわち、相互に交わらない実体同士の連係を神が取り計らっている、というもの——は、ここでは進化に訴えるというかたちを取り、それは「さもなくばそれは崩壊する」というフレーズに内在している。2つの領域[関係の領域と構成の領域]が連係されていないような不幸な生物たちを進化がふるい落とすように取り計らっている、というわけである。」
以上の2つ、すなわち、
閉包性:ある状態(構造)の集合が、特定の変換に対して「閉じて」いる(その変換を経ても元の集合の内部に留まっている)こと
(構造)決定論:その変換が、それが現在置かれている条件下では決定論的(「Aならば必ずBが成り立つ」というような関係)であること
さらにいえば、この決定論的関係の成立条件をシステム自身の状態変化が積極的に壊さないこと(=構造的カップリング=「自分を壊さない環境を壊さない」)
が同時に成り立つとき、self-productionとself-distinctionの間の循環的な連鎖は、外的な・イレギュラーな要因によって阻害されない限りは、数学的帰納法の証明のように確実性を保ったまま無限に連ねていく(「果てしなく循環する」)ことができることになる。
このようにして無限に続きうる循環とその成立条件を明確にすることこそが、オートポイエーシスの核心であったと言えるのではないかと思う。
そう考えれば、前提条件やそこから導かれる帰結の真否はともかくとして、少なくとも彼らがやろうとしたことにそれなりのロジックがあったことは理解できるだろう。
Adaptivityの定義
さて、ここまでM&Vによる古典的なオートポイエーシスの理論を概観・再構築してきたのだが、Di Paoloはまさにここでの描像を乗り越えるために"adaptivity"の概念を導入することになる。
まずDi Paoloが指摘するのは、M&Vがオートポイエーシスについて語る時、「恒常性(homeostasis)」と「保存(conservation)」という2つの言葉を用いているということである。
Di Paolo (2005; p. 435)は、この2つには重要なニュアンスの違いがあることを指摘する:
Two terms are used by Maturana and Varela: conservation and homeostasis. These terms have different connotations. Sometimes the emphasis is on homeostasis: an autopoietic system dynamically maintains certain relations invariant through compensatory structural changes and the homeostatic variable is the system’s own organization (Varela 1979, p. 13; Maturana and Varela 1980, p. 79). Other times the emphasis is on conservation as opposed to change (Maturana 1975). This is a more abstract and neutral notion.
「マトゥラーナとヴァレラによって用いられている2つの用語がある:保存(conservation)と恒常性(homeostasis)である。これらの用語は異なる含意を持つ。ある時は、ホメオスタシスに重点が置かれている。すなわち、オートポイエーシス的システムが、補償的な構造変化を通じて、特定の関係を動的に不変に保つのであり、そのホメオスタシス的な変数とは、システム自身の「組織(organization)」である(Varela 1979, p.13;Maturana and Varela 1980, p.79)。別の文脈では、「変化」に対する対概念としての「保存」に重点が置かれていることもある(Maturana 1975)。この「保存」という語は、より抽象的で中立的な概念である。」
"homeostatic variable"とは、制御を通じてある一定の幅の中に恒常的に保たれるべき変数のこと。人間の場合、体温や血糖値、心拍数など。
そして、Di Paoloによれば、M&Vによって形式的に定義されたオートポイエーシスの概念が実際にカバーできていたのは(彼らの意図に反して)静的な「保存(conservation)」の方のみであり、暗に想定されていた「恒常性(homeostasis)」的な側面に関しては、オートポイエーシスの概念を補う別のものが必要になるのである。
ここでDi Paoloが問題とするのは、上記のように定義された古典的なオートポイエーシスの概念では実質的に、「生きている」か「死んでいる」かという離散的な、「全か無か」(all-or-nothing)的な区別しか扱っていないという点である。
オートポイエーティックなシステムは、それ自身の「組織」を保ちながら環境と相互作用する中で、その都度の個々具体的な「構造」については変化(ドリフト)をし続ける。しかし、古典的なオートポイエーシスの理論においては、それらはすべて「生きている」ということにおいて(正確にはそれらの間の遷移の「可逆性」によって)実質的に同一視され、それらの間のグラデーション的な差異はないとされる。
M&Vも、はたから見ればその都度の個体と環境とのあり方に「うまい適応」とそうでないものとがあることを認めているが、それは外的な「観察者」から見た(文字通り「はたから見た」)描像に過ぎず、その個体そのものにとってある区別ではないとしている。『知恵の樹』(pp. 156-158)ではそれを、以下のような印象的な比喩を通じて述べている:
[…] ずっと潜水艦の中だけで生きてきた人を、想像してみよう。彼はそこから出たことはない。潜水艦の操縦の仕方は教えられている。さて、ぼくらは岸辺に立ち、潜水艦が優美に浮上してくるのを見ているところだ。それからぼくらは無線を使って、中にいる操縦士に呼びかける。「おめでとう!あなたは暗礁を避けて、みごとに浮上しましたね。あなたは潜水艦の操縦が、ほんとうにおじょうずですね」。潜水艦の中の操縦士は、とまどってしまう。「なんですか、その暗礁とか浮上とかって?私がやったのはただいくつかのレヴァーを押したりノブを回したりして、いろんな計器のあいだに、ある関係を作りだしただけのことなんですよ。それは全部、私がよく馴れている、あらかじめ決った手続きにしたがっているんです。特別な操作はなにもしなかったし、それになにより、あなたがたは潜水艦とかおっしゃってますね。なんのご冗談でしょうか」
潜水艦の中の人にとって存在するのは、さまざまな計器のしめす数字と、その変化と、それらが相互に結んでいる特定の関係を読みだすやりかただけだ。潜水艦と環境とのあいだの諸関係がいかに変化するかを見ている、外部にいるぼくらにとってのみ、潜水艦の行動は存在し、そこから生じる結果によって適切なものに見えたりそうでなかったりするわけだ。論理的判断を明確に維持しようとするのであれば、潜水艦の作動そのものと、運動および環境内での位置変化をともなう異なったさまざまな状態からなるそのダイナミクスとを、混同してはならない。外部世界を知らない操縦士をもつ、潜水艦の異なった諸状態のダイナミクスは、外部にいる観察者が見ているような世界の表象とは、まったく関係ないところで生起している。それには「岸辺」も「暗礁」も「水面」も関係なくて、ただある限界内での計器類の相互関係だけがかかわっているのだ。岸辺、暗礁、水面といった実体はただ外部の観察者にとってのみ有効であるにすぎず、潜水艦にとっても、その構成要素のひとつとして機能する操縦士にとっても、有効なものではない。
つまりそこには、後期のヴァレラが論じたような、ある個体が「生きている」ということを保っているなかで経験する、自己を完全に崩壊させてしまうのではない程度の規模の「breakdown」といったものは本来あり得ず、ただ「生きている」という状態の中を遷移する「構造的ドリフト」か、あるいは一度それを起こせば二度と元には戻ってこられないような完全な崩壊(すなわち「死」)かの区別しかありえない。言い換えれば、古典的なオートポイエーシスにおいて"breakdown"は、徹底してその個体の生の「外側」にある、全くイレギュラーなものなのである。
... autopoiesis, a concept allowing no degrees, can only entail the more general case of conservation (thus admitting the possibility of fortuitous self-maintenance) and not the special case of active homeostasis.
「オートポイエーシスは、段階的な変化を許さない概念であり、保存(conservation)というより一般的な事例は伴いうる(したがって幸運な偶然による自己維持の可能性を許容する)が、能動的な恒常性(homeostasis)という特殊な事例についてはそうではない。」
つまり、後期のVarelaが論じようとしていた「その個体のbreakdownの可能性(precariousness)と結びついた、世界への意味づけ(sense-making)を伴う認知」を擁護するためには、"all-or-nothing"的な区別しか扱うことができない古典的なオートポイエーシスの概念では不十分であり、個体自身が自分の状態を段階的・グラデーション的に区別できなければならないのである。
そこでDi Paoloが導入した(より正確には、それまでにも暗に想定されていたものを明示化した)のが、「適応性(adaptivity)」の概念なのである。
満を持してDi Paolo (2005) におけるadaptivityの定義を見てみよう:
Adaptivity is defined as:
A system’s capacity, in some circumstances, to regulate its states and its relation to the environment with the result that, if the states are sufficiently close to the boundary of viability,
1. Tendencies are distinguished and acted upon depending on whether the states will approach or recede from the boundary and, as a consequence,
2. Tendencies of the first kind are moved closer to or transformed into tendencies of the second and so future states are prevented from reaching the boundary with an outward velocity.
「適応性は、以下のように定義される:すなわち、ある状況において,システムがその状態や環境との関係を調整することで,その状態が生存可能性の境界に十分に接近したときに,
(1)境界に近づくものであるか遠ざかるものであるかに応じて[状態変化の]傾向同士を区別したうえでそれらに対して働きかけ,なおかつその結果として,
(2)1つ目の種類の傾向[=生存可能領域の境界に接近していくような状態変化の傾向]を2つ目の傾向[=生存可能領域の境界から遠ざかるような傾向]へと近づけたりそれへと変化させたりすることで,将来の状態が外側へ向けて加速しながら境界に到達すること[=生存可能領域の外へと飛び出すこと,つまり「死ぬ」こと]を防ぐ能力である。」(Di Paolo, 2005, p. 438)
ここでいう「生存可能性の境界(the boundary of viability)」とは、ありうる状態全体からなる状態空間のなかでそのシステムが「生きている」ような状態たちを集めた部分集合(これを「生存可能性の集合 viability set」と呼んでいる)とその外側との間にある境界であり、それを超えてしまえば二度と「生きている」側へと戻れなくなる、いわば状態空間における「三途の川」である。
あるいは「三途の超曲面」(Himeoka et al. > https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10595/ )️。
Di Paoloによれば、古典的なオートポイエーシスでは、この「生存可能性の集合(viability set)」には「その内部かそれ以外か」の離散的区別しかない。そして、ある時点でその内部にいれば、次の時点にもその内部に留まっているようなかたちで環境との相互作用を通じた状態発展が起こる、とM&Vは主張していることになる。
「その集合内部のどの状態(構造)をとっても、そこからの状態発展の結果が再びその領域内部に留まっている」ということを指していたのがoperational closure(あるいはorganizational closure)の概念であった。
そして、ここでいう「次の時点にもその内部に留まっている」ということを保証するのが「構造決定論」(次の状態は現在のシステム自身の状態および環境との相互作用のみによって決まる)と「構造的カップリング」(今あるシステムが現に生きているということは、そのシステムと環境は相互に破壊的でないような関係にある)であった。
後期のVarelaによる生命の"precariousness"の強調は、この循環的なプロセスが決して決定論的なものではなく、むしろどこまでも不確実性を孕んだものであるということを指摘したものであるといっていいだろう。
M&Vの初期のオートポイエーシス論でもオートポイエーシスの成立の不確実性について言及されてはいるのだが、それはあくまでも今現在安定的に成り立っている環境とのカップリングの「外」にある、徹底してイレギュラーなものである。対してVarelaは、それをシステムが身体を持って環境の中に存在する限り常にシステムに内在するレギュラーなものであるとみなした。
※ すかさず我田引水をすると、"determination"(「Aがあれば必ずB」)ではなく"mediation"(「AがなければBはない」)を射とする「モノイド」(対象が一つの圏)として自律性を再形式化した僕らの論文もVarelaのこの見方を引き継いでいると言えるだろう。
詳しくは「モノイドとしての自己」と分人主義も参照。
「Aがあれば必ずB」という決定論と「AがなければBはない」という意味での因果性の違いについては西郷(2024)も参照。
※ (構造)決定論からの脱却という点に関連していうと、90年代以降のVarelaが当時影響力を増していた複雑系の科学からの影響(Weber and Varela, 2002などを参照)もあってニュートン的な決定論的・機械論的な世界観をもはや前提としなくなっていたことに関しては、Froese and Stewart (2010) "Life After Ashby"でレビューされている:
https://gyazo.com/2ecb4a58818ad91e0bf953205de3193b
対照的にMaturana (2002) は、カオスや創発といった概念は「観察者の思考を表現するための刺激的[evocative]なメタファー」ではあるが「システムの構成に関わるプロセスを解明するものではない」(p. 18)と冷ややかである。
とはいえ実際は、カオスはむしろ現象の背後のニュートン力学的・決定論的な前提を捨てないままにマクロレベルの現象における(見かけ上の)ランダムな振る舞いを「ミクロスケールにおける初期値の揺らぎを指数関数的に拡大した結果」として説明する(つまり「本当は決定論的であるにもかかわらず見かけ上は確率的に振る舞う」というかたちで説明する)ために用いられてきたという面も強く、つまりこの表の"Newtonian mechanics"と"Complexity theory"には(少なくともontologyとしては)それほど決定的な違いがあるわけではないとも思うが。
Di Paoloの元教え子であり2010年代以降のエナクティヴ・アプローチの中心人物の一人であるTom Froeseは田口茂との共著論文"The Problem of Meaning in AI and Robotics"の中で、「意味の問題」に正面から向き合うためには自然の決定論性の前提を捨ててむしろ非決定論性の方を前提とするべきであると主張し、非決定論性へのコミットメントをさらに強めている
彼はその後さらに非決定論性へのコミットメントを発展させ"Irruption Theory"という独自の理論を提唱している。
これに対して、カオスや複雑系の理論の観点から主体性や自己を理解することを試みてきた谷淳ら(Tani and White, 2022)は、Froese & Taguchiに一定の共感を示しつつも、自然そのものに強い非決定論性を想定せずともカオスによるミクロレベルでの揺らぎのマクロレベルへの拡大で十分に説明可能であると述べている。
エナクティヴ・アプローチからの構造決定論批判としては以下も参照:Mojica, L., & Froese, T. (2021). On the spatiotemporal extensiveness of sense-making: ultrafast cognition and the historicity of normativity. Synthese, 198(1), 447–460. https://doi.org/10.1007/s11229-019-02240-7
そして、それに対してDi Paoloは、生物の個体(organism)が、それ自身の現在の状態変化が「生存可能性の集合 」(それ自身の崩壊=死)に近づくものか遠ざかるものかを区別し、そして尚且つそれ自身の働きかけによって後者の傾向をもつ変化を前者へと変えるようにそれ自身のあり方や自身と環境との相互作用のあり方を変化させる能力を持つことが、その個体自身による「sense-making」としての認知が可能となる条件であると主張しているのである。
こうした能力があるとき、ある個体の今の状態が「生存可能性の境界」の内側にあることは、単に偶然(contingent)に(幸運にも)成立していることではなく、その個体自身の「境界に近づきそうになったらより内側へと戻ろうとする」という能力によって維持されているもの、その個体の振る舞いを通じて得られる "achievement" であるということになる。そしてそれこそが後期のVarelaの論じた「self-affirmation」としての生命にふさわしいものだろう、というのがDi Paoloの主張であるということになる。
実際のところ、Maturana & Varelaによる初期のオートポイエーシスの理論においても、生物が自らを破壊しないような環境との相互作用(構造的カップリング)を保つためには「生存可能性の境界」に近づいたら引き返す(「ゆらぎ」に対する「ゆりもどし」)のような動きが不可欠であることは意識されていると思われる(特に"homeostasis"的な側面が強調されるときには)。Di Paoloは、それが彼らの形式的定義(および構造決定論へのコミットメント)からは必ずしも示唆されない(むしろそれと緊張関係がある)にも関わらず非明示的に「密輸入」されしまっているということを指摘していると言えるだろう。
It seems that some of the consequences of autopoiesis are not derived strictly speaking ordine geometrico but rather rely on appealing to intuitive notions to guide the interpretation of the terminology.
「オートポイエーシスの帰結のなかには、厳密に言えば演繹的な論述によって導出されているのではなく、用語の解釈を導くための直観的な概念に訴えることに依存しているものがあるように思われる。」(p.435)
ここでいう「直観的な概念」(複数形)は上述の「恒常性(homeostasis)」と「保存(conservation)」のことである(この"It seems that ..."の文で始まる段落の後半部分が、上で引用した"Two terms are used by Maturana and Varela: conservation and homeostasis. ..."という文章である)。つまりM&Vは「恒常性」という語を用いて直観に訴えることで、本来は形式的に導かれないはずのものをオートポイエーシスに忍び込ませている、ということである。
「生きている」という状態の集合(viability set)の内部でのグラデーション的な評価は、個々の状態そのものに内属しているというよりも、その状態がどれだけ生存可能性の境界に近いかという、関係性の中での相対的な位置によって生まれるといえる。
より正確に言えば、上の定義で「評価」の対象となっているのは状態そのものではなく状態の変化(の傾向)である。
Di Paoloが強調するのは、実際にこの「境界」を超えてしまうとすでに手遅れであるため、そうなる前に生物はアクションを起こす必要があるということである。
そしてそのためには「今はまだ境界を超えていないが、もしも今と同じ状態変化を続けていれば境界を超えてしまう」というふうに、「今ここ」において実現されている状態(構造)だけでなく、それが位置付けられる他の潜在的(virtual、potential)な状態たちとの関係のあり方にも依存して振る舞いを変えられる必要があるのである。
これは、〈今ここ〉において実現されている構造のみによる決定性を強調した構造決定論とは明確に対照的である。Varelaと袂を分かった後も構造決定論を堅持したMaturana (2002; p. 9) は以下のように述べている:
Biological phenomena take place in a dynamics that occurs in the present without any operational relation to what we call the past or the future. Past and future are explanatory notions introduced by the observer.
「生物現象は現在において生じるダイナミクスのなかで起こるものであり、我々が過去や未来と呼ぶものへの作動的[実働的]な関係を持たない。過去や未来は、観察者によって導入された説明のための概念である。」
Di Paolo (2005; p. 435)は以下のように指摘する:
Accordingly, there need not be any tendency originating in the organism to counteract potential loss of viability (in this view, that would be like a structure-determined system acting in response to a future event and thus against structural determinism).
「したがって[Maturana & Varelaにしたがえば]、生物に由来する潜在的な生存能力の喪失に対抗する傾向が存在する必要はない(この見解では、それは構造決定的なシステムが将来の出来事に応ずるかたちで振る舞うことを意味し、したがってそれは構造決定論に反している)。」
ここで、僕が最近思い付いた一つの比喩を手がかりに説明してみよう。
全ての比喩がそうであるように、ここでの比喩にも限界はあるのだが。
古典的なオートポイエーシスとは、喩えるなら「HP表示のないゲーム」のようなものではないだろうか。
中古のレトロゲームはしばしば紙製の説明書がすでに失くなっていて、なおかつ容量の制約によって今のようなゲーム内での丁寧なチュートリアルもないため、手探りで操作方法やルールを把握する必要があることがある。
また、ファミコンやゲームボーイくらいの年代のゲームではグラフィック面での制約も大きく、ゲーム画面上の表示を見ただけではそのオブジェクトが何なのか、敵なのか味方なのかも一目ではわからないこともある。
多くのゲーム(とくにアクションゲームなど)では、プレイヤーが操作するキャラクターのヘルスやバイタル、いわゆる「HP」に関する情報が画面上に表示されている。それは何らかのゲージや数値だったり、最近だとダメージを受けるほど画面の周辺が赤く血走ったり視野角が狭くなったりする場合もある。とりあえず、これをなるべく減らさないように、できれば増やすように振る舞うのが望ましいということになる。
しかし、古典的な意味でのオートポイエーシス的なシステムにそのような「HP表示」にあたるものはない。ただ、プレイが進行する限り「少なくとも今はまだゲームオーバーになっていない」ということはわかる。それは、少なくともこれまでの振る舞い方が周辺の環境との間で決定的な「破壊的相互作用」を起こしていないということの証拠になっている。しかし、見えていないだけで実は内部ではダメージが蓄積していて、ある時突然HPが0になりゲームオーバーになることもありうる。そうした状況では、画面上に現れるどれが触れるとダメージを食らう「敵」でどれが「回復アイテム」なのか、プレイヤーには区別がつかない。「これをすれば危ない」「これがよい」といった、個々のプレイングに対する「価値」や「意味」(significance)が生じえないのである。
ゲームならリセットして再走を繰り返すことで試行錯誤が可能だが、生物は一度「ゲームオーバー」すればその瞬間プツンと切れておしまいで「GAME OVER」などの表示もない。その意味で、「生きている」と「死んでいる」ということの間の離散的な境界を超えることは、その生物が「生きている」うちの経験の中には現れず、どこまでもその完全な外側にある(プレイ画面には映らない)。
それに対してM&Vが提示した解決策は、「そもそも事前にプレイヤーに攻略法のマニュアルが与えられている」というものであった。
つまり、プレイヤー自身は画面上の個々のアイコンが何を表しているのかは全く知らないのだが、それの特定の配置などに対してどうキーを入力して対処すべきかを全て叩き込まれており、ただそれに従って操作をし続ける。評価的なフィードバックがないので、独自の試行錯誤を通じてそれを改良したりすることはできない。
あるいは、そのマニュアルに勝手にアレンジを加えることはできる(M&Vのいう「個体発生」としての構造変化)のだが、それは(今すぐに)アウトにならない限り(ある一定の範囲内の「ドリフト」である限り)はどんなものでも許容され、かたやある一線を超えたら即終了、という二極的な評価しかない。
それを極端なかたちで表現したのが、『知恵の樹』(pp. 156-157; emphasis added)の潜水艦の喩え話だろう。再び引用しよう:
[…] ずっと潜水艦の中だけで生きてきた人を、想像してみよう。彼はそこから出たことはない。潜水艦の操縦の仕方は教えられている。さて、ぼくらは岸辺に立ち、潜水艦が優美に浮上してくるのを見ているところだ。それからぼくらは無線を使って、中にいる操縦士に呼びかける。「おめでとう!あなたは暗礁を避けて、みごとに浮上しましたね。あなたは潜水艦の操縦が、ほんとうにおじょうずですね」。潜水艦の中の操縦士は、とまどってしまう。「なんですか、その暗礁とか浮上とかって?私がやったのはただいくつかのレヴァーを押したりノブを回したりして、いろんな計器のあいだに、ある関係を作りだしただけのことなんですよ。それは全部、私がよく馴れている、あらかじめ決った手続きにしたがっているんです。特別な操作はなにもしなかったし、それになにより、あなたがたは潜水艦とかおっしゃってますね。なんのご冗談でしょうか」
潜水艦の中の人にとって存在するのは、さまざまな計器のしめす数字と、その変化と、それらが相互に結んでいる特定の関係を読みだすやりかただけだ。潜水艦と環境とのあいだの諸関係がいかに変化するかを見ている、外部にいるぼくらにとってのみ、潜水艦の行動は存在し、そこから生じる結果によって適切なものに見えたりそうでなかったりするわけだ。論理的判断を明確に維持しようとするのであれば、潜水艦の作動そのものと、運動および環境内での位置変化をともなう異なったさまざまな状態からなるそのダイナミクスとを、混同してはならない。外部世界を知らない操縦士をもつ、潜水艦の異なった諸状態のダイナミクスは、外部にいる観察者が見ているような世界の表象とは、まったく関係ないところで生起している。それには「岸辺」も「暗礁」も「水面」も関係なくて、ただある限界内での計器類の相互関係だけがかかわっているのだ。岸辺、暗礁、水面といった実体はただ外部の観察者にとってのみ有効であるにすぎず、潜水艦にとっても、その構成要素のひとつとして機能する操縦士にとっても、有効なものではない。
この「潜水艦の中の人」は、計器の値の変化というかたちで潜水艦の構造(状態)の変化を「見て」いるのだが、力学系が相空間の点に対して次に起こる状態変化を返すのと同じようにオートマティックに次の構造変化を引き起こすだけであり、彼にとって計器が示す値に「この値が増えるとまずい」というような「意味=(その主体自身にとっての)重大さ」(significance)は存在していない(一定の範囲内に保たれている限りニュートラルである。どんなにその範囲の境界に近づいても、それに対する操作があらかじめ定まっており、ただそれに従うだけである)。そしてそれゆえに、「だからそれをもっと『上手く』一定に保てるように操縦法を少し変えてみよう」といった創意工夫もあり得ない。
そのようなシステムにとって、今生きているということは、自分自身の(主体的な)振る舞いによって維持されているというよりも、「たまたまうまく成り立っていて、今はまだ幸運にも壊されていない」というものに過ぎない。
しかし、後期のVarelaは、そうした見方から離れていく。
彼は、ある生物の「生きている」という状態(それ自身の個体としての"identity")を全面的に壊してしまうほどではない規模の"breakdown"、彼のいうところの"microidentity”のbreakdownと、そこからの別の安定的な"microidentity"への遷移を通じて、個々のmicroidentityと結びついている"microworld"もまた別のものへと移り変わっていくという、いわばその個体自身によって主体的に行われる試行錯誤的なプロセスとして世界の認知を捉えるようになっていった。
Di Paoloが指摘しているのは、後期のVarelaが示唆したような"breakdown"とそこからの回復を伴う「意味を持った(meaningful)」世界の認知には、自分自身のグラデーション的な状態に関する自己モニタリング能力、すなわちある種の「HP表示」のようなものが必要だということである。そして、HP表示があれば、それを減らすものは「敵」であり、それを増やしてくれるものは「回復アイテム」であると次第にわかってくる。そのようにしてそれ自身が見ている世界が分節化され「意味」(meaning, significance)を帯びていくプロセスこそが"sense-making"である、と差し当たり言ってもいいだろう。
※ 先に述べたように、もちろんこの比喩を通じた説明にも色々な限界があるだろう。
たとえば、この「HP表示」はどこからくるのだろうか? Enactive Approachからの一つの回答は、ここでいう「HP表示」に当たるものは他の画面上の情報と対等な、それに付加的に付け足されるものではなく、むしろそれこそが我々が「経験」する最初のものである、というものだろう。
言い換えるとそれはそもそも後になってoptionalなものとしてどこかから「くる」ものではないということ。
Thomas Fuchs (2012, 2017)は内受容感覚(身体の生理学的状態に対する感覚)に結びついた「生きていることの感覚」("feeling of being alive"または"feeling of vitality")こそが主観的経験において最も根源的であると主張している。そしてそれは(ある意味でその「後に」成立する)外界の知覚にも常に伴われ(むしろ常にそれを介して世界が見られる「媒体 media」である)、あらゆる経験に「浸透」しそれらを「色付けて」いると言う(2012, p. 153):
... feelings of vitality should always be considered as media of perceiving the world as well; they color and pervade all experience.
その意味で、HPバーなどよりも最近のFPS(First-Person Shooter)ゲームなどに見られる「画面全体が赤く血走る」みたいな表現の方がイメージとしてはまだ近いかもしれない。
Fuchsは2017年の著書"Ecology of the brain"でこの「生きていることの感覚」を神経生理学者Damasioのいう"protoself"(原自己)と関連付け、それが環境へと「向けられる」ことの神経的基盤を論じている:
https://scrapbox.io/files/68886ea885e4085daf566083.png
protoselfおよびcore selfに関してはダマシオ『意識と自己』参照。
しかしなぜkindle版の図の画質がこんなにも悪いのだろうか……
くわえて重要なのが、Adaptivityの定義に、ここまでで述べたような自己の状態の「グラデーション的な差異(評価)」に対する「自己モニタリング(self-monitoring)」の能力だけでなく、それに基づいて評価された「悪い」状態変化を「良い」状態変化へと変えることを可能にする、システムと環境の間の関係を〈そのシステム自身が〉特定の方向へと変化させる「調整(regulation)」能力が明示的に含まれていることである。
もちろんここでいう制御や調整は、完全なものではありえず、むしろ常に破綻・失敗の可能性を孕んでいる。しかし、その失敗や破綻の可能性こそがそれ(システムによってregulateされたシステムと環境との相互作用)を「行為」にしている。
何かが「失敗」可能(fallible)であることがそれが単なる傾向性(disposition)ではなく「能力(ability)」であるための必須条件であるということは、ほかにもたとえばMillikan (2000) によって主張されている(らしい)。
たとえば、砂糖は適切な温度の水に溶けることに「失敗」しない。傾向性(disposition)は、適切な条件が与えられれば必ずそれが生じるような関係である。
Millikan, R. G. (2000). On Clear and Confused Ideas: An Essay about Substance Concepts. Cambridge: Cambridge University Press.
ここで言われている"regulation"は、古典的なオートポイエーシスの理論で考えられていた構造的カップリングとは多くの面で異なっている。
構造的カップリングがシステムと環境を入れ替えても成立する対称的な関係(下図のB)であったのに対し、adaptiveなregulationはシステムと環境の間の相互作用のあり方を「システムの側が」制御するという非対称性がある(下図のC)。
https://scrapbox.io/files/68807b825a7d9586fe8f8338.png
Di Paolo (2009) "Extended Life"(p. 15)より
生物と環境の間の非対称性(asymmetry)は、晩年のVarela (1997, p. 78)によっても示唆されている:
Now, in this dialogic coupling between the living unity and the physicochemical environment, there is a key difference on the side of the living since it has the active role in this reciprocal coupling. In defining what it is as unity, in the very same movement it defines what remains exterior to it, that is to say, its surrounding environment. ... the autopoietic unity creates a perspective from which the exterior is one, which cannot be confused with the physical surroundings as they appear to us as observers, the land of physical and chemical laws simpliciter, devoid of such perspectivism.
「この、生きた統一体と物理・化学的環境との対話的なカップリングにおいて、鍵となる違いをもっているのが生物の側である。というのも、この相互的な結びつきにおいて、生物は能動的な役割を担っているからである。自己をひとつの統一体として定義しつつ、それと同じ運動の中で、それは自らの外部にあるもの、すなわち周囲の環境を定義する。… オートポイエーシス的な統一体は、外部をひとつのものとして捉える視点を創り出す。これは、我々観察者に対して現れる物理的な周囲、すなわち物理的・化学的法則に端的に従うだけの、そうした視点性をもたない世界と混同してはならないものである。」
しかしDi Paoloは、このVarelaの方針を評価しつつも、Varelaの論理(breakdownの根源性)のみでは不十分であるという。彼によれば、ここで言われている非対称性が成り立つには、生物がそれ自身と環境との間の関係・カップリングに自ら影響を及ぼす(調整・制御する)ことができなければならず、それこそがその相互作用を「行為」(あるいは生物の「行動・振る舞い behavior」)たらしめているのである。
Behaviour defined not as physical coupling, but as its regulation, is always asymmetrical, has an intentional structure, and can be said to either succeed or fail. It is only at this stage, when the organism behaves, that we may speak of an agent ...
「行動は、物理的な結合ではなく、その調節として定義される場合、常に非対称であり、意図的[志向的]な構造を持ち、そしてそれが成功か失敗かを言うことができる。この段階、すなわち生物が「行動」する段階においてのみ、我々は「エージェント」[行為主体]について語ることができるのである ...」
この非対称性は、のちにBarandiaranら (2009) が提唱するEnactiveな「Agencyの定義」の中で、"individuality"(それが個体的な何かとして「ある」こと)、Normativity(それが何らかの意味で何か「のため」となるようなかたちで環境との相互作用していること)と並ぶ"Interactional Asymmetry"(個体と環境との相互作用の一部が何らかの意味でその個体「によって」行われているものであるという意味で、個体と環境の間に非対称性があること)として明示的にagencyの3つの条件のうちの1つに数えられている。
Barandiaran, X. E., Di Paolo, E. A., & Rohde, M. (2009). Defining Agency: Individuality, Normativity, Asymmetry, and Spatio-temporality in Action. Adaptive Behavior, 17(5), 367–386. https://doi.org/10.1177/1059712309343819
構造的カップリングが「自分を破壊しないような環境(との相互作用)を破壊しない」という非介入的で受動的な関係であったのに対して、adaptiveなregulationは、「自分の成立可能性(viability)を高めるような環境(との相互作用)の成立可能性を高める」という、より介入的かつ能動的な関係である。
このような環境(との相互作用)に対する介入性は、冒頭の方で言及したBourgine and Stewart (2004)においても「オートポイエーシスには認知が欠けている」という時の「認知」が持つべき性質として挙げられている(p. 338)
... On the definition proposed here, they will not be cognitive unless the consequences for the internal state of the system are employed to trigger specific actions that promote the viability of the system.
「ここで提案された定義によれば、それら[システムと環境の相互作用]は、システムの内部状態に与える影響がシステム自身の生存性を促進するような特定の行為を引き起こすのに用いられていない限り認知的ではない。」
これは、Bitbol and Luisi (2004; p. 106)がまとめているように、「認知は[そのシステム自身の]生存の条件を課す、あるいは維持するための環境への能動的な介入を伴わなければならない」ということである:
In other words, cognition must imply active interventions on the environment in order to impose or maintain the conditions for survival.
これは上で言及した静的な「保存(conservation)」と動的・能動的な「恒常性(homeostasis)」の違いでもある。
そして、このような違いこそが「エナクション」、すなわち生物による主体的・能動的な行為としての認知にとっての条件となっているのである。
ざっくりとした仕方で言えば、後期のVarelaが主張したbreakdownによって駆動されるsense-makingには、ただbreakdownがあるだけでは不十分であり、breakdownを受動的に被るだけでなく「自分で(自分の仕方で)なんとかしようとする」ということも含めることで初めて可能になる、ということである。
Adaptiveな行為の例
このような調整は、全て一からその場でのアドリブで行われるわけではなく、実際はいくつかの定型的なパターンをあらかじめ持っていて、それらの間を状況に応じて切り替えるようなかたちで起こる。そのような切り替えの primitiveな例としてよく知られているのが、大腸菌(E. coli) における lacオペロン による代謝経路の制御である。
lacオペロンは、乳糖(lactose)という糖を分解してエネルギー源として利用するための酵素群をコードする遺伝子群のことである。
このシステムの興味深い点は、それが環境中の栄養状態に応じて“ON/OFF”の切り替えを行うという点である。たとえば:
環境中にグルコースが存在する場合、大腸菌はより効率的なこの糖を優先的に代謝する。このとき、lacオペロンの転写は抑制される。
一方で、グルコースが枯渇し、代わりに乳糖(ラクトース)が存在する場合、lacオペロンが活性化され、乳糖を分解してエネルギーを得るための酵素群が産生される。
この「ON/OFF」の制御には、ラクトース存在時にアロラクトースという誘導体がリプレッサータンパク質に結合してその抑制作用を解除するというスイッチング機構が関与している。この仕組みによって、大腸菌はその代謝状態を環境に応じて動的に切り替えることができる。
重要なのは、これは単なる反射的な反応ではなく、「環境の状態に応じて複数の内部モードのどれを選ぶか」という条件依存的なモードの切り替えであるという点である。言い換えれば、大腸菌は常に一から環境に対する反応を作り出しているわけではなく、あらかじめ用意されたいくつかの代謝様式(代謝経路)の中から、状況に応じて適切なものを選んでいるのである。
Di Paoloは、このような行為のレパートリーが、自己状態のモニタリングと「意味」の生成(sense-making)深く結びついていると述べる:
Self-monitoring without the right response is (apart from useless) meaningless, since significance must relate to a referential totality (in this case a totality of operations internal to the system). This paradigmatic aspect of meaning is provided by the actions of the counteracting mechanisms which differ in degree or in kind for different encounters. Events that provoke the same regulative response are not meaningfully distinguishable.
「適切な応答をともなわない自己モニタリングは(役に立たないというだけでなく)意味をなさない。なぜなら、意味というものは常に、何らかの参照可能な全体性(この場合、システム内部の操作全体)との関係において成立するからである。この“範例的”な意味の側面は、遭遇する出来事の違いに応じて程度や種類において異なっている調整メカニズムの活動によって与えられる。同じ調整反応を引き起こす出来事どうしは、有意味には区別されえない。」
つまり、大腸菌が持ちうる環境に対する分解能は、それが持っている環境との相互作用に対する「調整」のレパートリーに依存しているということである。
生物のadaptiveな振る舞いのもう一つの代表的な例として挙げられるのが、バクテリアにおける化学走性(chemotaxis)である。
これは、周囲に存在する化学物質(たとえば栄養源)の濃度勾配に応じて、バクテリアが運動の方向や様式を変化させる現象である。典型的には、鞭毛の回転方向を変えることで、まっすぐ進む「ラン」(run)と、その場で方向を変える「タンブル」(tumble)を切り替える。濃度勾配が増す方向に向かっているときにはタンブルを抑制して直進を維持し、減少する方向に向かっているときにはタンブルを頻発させてランダムな方向転換を行い、結果として好ましい環境へと進むことができる。
このような行動は、古典的には極めて機械論的なプロセスとして理解されてきた。実際、Maturana & Varelaの『知恵の樹』でもこの例が登場し、「その分子的なメカニズムについて多くのことが解明されている」ことが強調されている。彼らが意図するのは、この種の応答があくまで「あらかじめ巧妙に設計された構造的カップリング」の一形態であるということである。つまり、「潜水艦の操縦士」にあらかじめ巧妙なマニュアルが与えられていたように、環境との相互作用を適切に保つための感覚と運動の結びつきが、進化的過程によってあらかじめ装備されているというのである。
これに対して、Di Paoloらのチーム(Barandiaran et al., 2010)が提案した化学走性の理論モデルは、より動的かつ文脈依存的な適応性に着目している。彼らは、化学走性の背後にあるセンサーモーター連関が単一で固定されたものではなく、バクテリア自身の内部状態——たとえば栄養状態や代謝系の活性——に応じて可塑的に変化するという事実に注目している。
Egbert, M. D., Barandiaran, X. E., & Di Paolo, E. A. (2010). A minimal model of metabolism-based chemotaxis. PLoS Computational Biology, 6(12), e1001004. https://doi.org/10.1371/journal.pcbi.1001004
実際、Alexandre and Zhulin (2001) がレビューしている一連の研究では、化学走性が単なる外部刺激に対する反射的な反応ではなく、バクテリアの代謝状態に応じて修飾されることが複数の実験から明らかにされている。たとえば、飢餓状態に置かれたバクテリアは、通常よりも弱い濃度の attractant(誘引物質)にもより敏感に反応するようになる。また、特定の糖を代謝できない変異株は、その糖の存在を感知する受容体が正常に機能していても、その糖に向かって泳ぐという化学走性を示さない。つまり、外部の化学物質が「それに近づくべきもの」としての(行為と結びついた)意味を持つかどうかは、バクテリアの代謝能力に依存しているのである。さらに、代謝可能な糖が周囲に存在すると、それ以外の attractant に対する化学走性が抑制されることも知られており、これはバクテリアが「より有利な資源に集中する」ような行動選択を行っていることを示唆している。また、ある糖の代謝を阻害すると、それに対する化学走性も同時に消失するが、この変化は受容体の機能とは無関係に起こる。
Alexandre, G., & Zhulin, I. B. (2001). More than one way to sense chemicals. Journal of Bacteriology, 183(16), 4681–4686. https://doi.org/10.1128/JB.183.16.4681-4686.2001
これらの事実は、バクテリアが自身の内部の、自身の生存可能性に直結した状態に応じて感覚運動的な応答の様式を変化させていることを示している。すなわち、特定の化学物質が「誘引物質」として働くかどうかは、それが代謝可能かどうか、今それが必要(=欠如している lacking)か、という内部的基準に基づいて動的に解釈されているのである。
このように、化学走性の行動は、単に「外界の状態に合わせて応答する」機構ではなく、内的状態と外的状況との相互関係に基づいて環境を意味づける一種のsense-makingの事例とみなすことができる。バクテリアのような単純な系ですら、固定された刺激—反応モデルでは捉えきれない、より動的な適応性の形を備えているのである。
さらにもう一つ、やや特殊ながら示唆的な例として取り上げたいのが、森山徹らによるダンゴムシの「交替性転向反応」に関する研究である(森山徹『ダンゴムシに心はあるか』参照)。この反応は、ダンゴムシが壁にぶつかったときに、進行方向を左右交互に切り替えるという行動様式であり、たとえば右に曲がった後には左に曲がる、次は再び右に曲がる……というように、かなりの確率で規則的なパターンを示すことが知られている。
https://youtu.be/bxlR0uGp7lM?si=Ult2ui49E2LFQOqc&t=215
古典的には、これは単純な神経回路や生理学的なメカニズムに基づいた機械的反応であると考えられており、実際、そのように捉えられてきた経緯もある。
ここまでの例(lacオペロンや代謝依存的な化学走性)についても、それらがどれほど柔軟で文脈依存的であるとはいえ、最終的には全体としてはそれもまた進化的に備えられた固定的な構造的カップリングによって動作しているに過ぎず、その切り替え自体も「想定内」の振る舞いなのではないか、という反論がありうるだろう。つまり、生物の柔軟性は、あくまで「事前に設計された範囲内での可変性」であり、本質的には決定論的な挙動なのだという立場である。
しかし森山たちの実験は、まさにその「想定の外」にダンゴムシを置くことで、こうした見方に対して疑問を投げかけている。彼らは、床面を回転させることのできる特殊な迷路型装置を用いて、ダンゴムシがどのように進んでも同じ経路を半永久的に繰り返し移動し続けるような、自然環境にはまず存在しないような異常な状況を人工的に作り出した。この環境の中に置かれたダンゴムシたちは、当初は交替性転向反応に忠実に従って動くものの、やがてその法則性を逸脱するような多種多様な動きを示すようになる。つまり、これまで通用してきた「機械的」なルールを破って、自発的に行動のパターンを変化させるのである。
このような行動は、「あらかじめ進化的に獲得された固定的な反応様式」とは異なり、個体が実際の行動経験を通じてその規則性の“限界”を(ある意味で)認識し、そこから逸脱するという、よりラディカルな適応性を示しているように見える。森山たちの研究は、機械論的な枠組みでは捉えきれない「意味の変化」「法則性からの脱出」といった現象が、比較的単純な神経系を持つ生物においても観察されることを示しており、sense-making の観点からも興味深い。
終わりに?
結局のところ、生物が「適応性 adaptivity」をもつと考えるべきだろうか?
M&Vの枠組みでは、生物はあくまで「構造的に決定された機械(machine)」として位置づけられる。環境との関係が両立的(compatible)である限り、生物は自己維持的に生き続けることができ、その関係が破綻すれば静かに消滅する。
これに対してDi Paoloらが強調するのは、「崩壊」とそれに対する対処こそが生の核心にあるという視点である。生命とは、ただ環境と(たまたま)調和するだけの存在ではなく、むしろ環境の変化や不調和、破綻を積極的に感知し、それに応じて自らと環境の間の相互作用のあり方をそれに「抗う」ようなかたちに変えることのできる存在である。つまり生物は、単に今生きているということを甘受するだけでなく、理想的でない状況において「より良く」生きられるように振る舞いを変えて足掻く「しぶとさ」も持っている。この能力こそが「適応性(adaptivity)」であり、sense-makingの前提条件である。
僕自身は、生物とは、それが「あらかじめ想定された環境」のみでうまく振る舞い、それ以外では崩れ去るような脆弱な存在ではなく、むしろ「想定外」や「崩壊」の契機においてこそ、しなやかに、したたかに、しぶとく環境との関係を切り替えて生き延びていく存在であるのではないかと思う。
言い換えれば"Life finds a way"(「ジュラシック・パーク」)、あるいは「一度生まれたものはそう簡単には死なない」(「アーマード・コアVI ファイアーズオブルビコン」)。
こうした「しぶとさ」や「したたかさ」、「泥臭さ」こそが、生命を他の物とは異なるものにしているものであり、私たちがそこにどうしようもなく惹かれてしまう理由なのではないか。そして、そのような生命観は、Di Paoloの「適応性」という概念を通して、ようやく理論的に捉えうる輪郭を与えられるのではないだろうか。