なぜか今更『屍者の帝国』の話
を敢えてする。しかもうろ覚えで。
こういう一部の人にとって当たり前であえて言うのも野暮なことを改めてネットに書いておくことには意外と価値があったりする。
『屍者の帝国』の「語り手の変更」という手法自体が伊藤計劃へのオマージュになっている。
『屍者の帝国』は、主な書き手が異なるだけあって一見『虐殺器官』や『ハーモニー』とはかなり毛色が異なるが、実際にはそのなかで用いられている道具立てはほとんど全て伊藤計劃の作品の中で用いられていたもののオマージュであり、それを超えたものはほとんど出てこない。
実際には「その先」についても書かれているのだが。
そしてそれには、この作品自体の「語られ方」も含まれる。
長編版『屍者の帝国』は、伊藤計劃によって書かれた「プロローグ」を除く全てのテキストが、作中に登場する自動筆記用の「屍者」(プログラマブルなゾンビ)である「フライデー」によって書かれたものであるという設定になっている。これ自体が、伊藤が『ハーモニー』などで用いた「作品そのものが作中に存在するテキストでもある」というスタイルを踏襲しているのは(読んだ人には)言うまでもない。
つまり、伊藤計劃が書いた冒頭部分から円城塔が書いたそれ以降の部分に移る段階で、語り手=書き手がワトソンからフライデーに移っている。
同時に、フライデーはあくまでワトソン御付きの文字起こし機能付き手帳のような存在で、ワトソンが語ったことをただ書き起こしているだけであり、これは円城塔が完成させた『屍者の帝国』が伊藤計劃が語ったであろうものをただ「代わりに書き起こした」ものであるということの表明にもなっているのも自明である。
ところで、映画化もされた三部作と比べてあまり知られていないように思われるが、伊藤計劃自身も『屍者の帝国』における円城塔と同様の「他人が語った物語を代わりに語る」という仕事をしている。ノベライズ版『メタルギアソリッド4』がそれである。
『メタルギアソリッド』シリーズは小島秀夫が「監督」を務めたゲームシリーズであり、『4』はその(少なくとも作中時系列上での)集大成にあたる作品である。小島と親交のあった伊藤計劃はMGS4のノベライズを担当するにあたり、それを主人公ソリッド・スネークではなくその相棒であるエンジニアの「オタコン」の視点から見た物語として再構成している。これは、「他人が作り上げた物語を代わりに語る」という行為に必然的につきまとう居心地の悪さを解消するための策であると同時に、小島と自身の関係をスネークとオタコンの関係(伝説的なヒーローと、その活躍を見守ってきた者)に重ねることで小島に敬意を捧げるものでもある。
そしてこのノベライズ自体もまた、オタコンがスネークの足跡を後世に語り継ぐために記した手記として「作品世界内に存在するテキスト」になっている。
そもそも『メタルギア』がスネークを主人公とする物語であると同時にプレイヤー自身の物語でもある(他人の物語を自分の物語として介入的に擬似体験する)というゲームに特有の(小島が元々志していた映画とは異なる)構造には『メタルギア』シリーズを通じて繰り返し焦点が当てられており、シリーズ最後の作品になった『5』の結末もそれを意識したものになっている。
円城塔が『屍者の帝国』を書き継ぐ上で行った「視点の変更」もこれと同じであり、結果的に二重の意味でのオマージュ(敬意)が捧げられている。つまり、伊藤がかつて誰かに敬意を捧げるのに用いた手法を借用=オマージュして、伊藤自身に敬意を捧げている。
もっと言うと、ノベライズ版『メタルギアソリッド4』で伊藤が採った「主人公以外の視点から物語る」という手法の最たる事例が『シャーロック・ホームズ』シリーズであり、スネークとオタコンは小島と伊藤であると同時にホームズとワトソンでもある。そして『屍者の帝国』のフライデーはいわば「ワトソンのワトソン」であり、ワトソンの役割をシミュレートしながらワトソン自身について語ることで、「語る者」としてのワトソンと「語られる者」としてのワトソンを同時に描いている、ような気もする。
『屍者の帝国』の主人公が「あの」ワトソンなのは伊藤計劃が生前に書いたプロローグからなので、それを拾いつつ上記のような仕掛けにつなげた円城塔は、少なくとも結果から見ればものすごく複雑なパズルを解くようなことをさらりとやってのけているように見える。