「モノイドとしての自己」と分人主義
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2023年に札幌で開催されたALIFE 2023(人工生命研究の国際会議)で、廣田・西郷・田口は「自律性(autonomy)」の概念を圏論における「モノイド」として形式化するという論文を発表した。 Hirota, R., Saigo, H., & Taguchi, S. (2023). Reformalizing the notion of autonomy as closure through category theory as an arrow-first mathematics. ALIFE 2023: Ghost in the Machine: Proceedings of the 2023 Artificial Life Conference. https://doi.org/10.1162/isal_a_00627 この定式化自体はある種の必然性から得られたものなのだが、結果として得られたものを改めて眺めてみると、著者ら自身も当初は想定していなかったさまざまな話題に対しても示唆を持つ、著者たち自身から見ても存外に味わい深いものになっている。
そうした示唆の一つが、「分人(dividual)」と呼ばれる概念に関するものである。
この概念に関しては特に日本での関心が高いと思われるので、自著の宣伝も兼ねてそれについて少し述べてみたいと思う。
※「モノイドとしての自己」という議論は著者3人全体の見解であるのに対し、ここで述べる分人主義との関連は一応今のところあくまでも私(西郷さんでも田口さんでもない奴)個人の見解であることには注意。
「分人」の集まりとしての自己
「分人」概念は、哲学者のジル・ドゥルーズや作家の平野啓一郎などによって論じられてきた、それ以上「分割できない(in-divide-able)」ものとしての個人・個体(individual)という描像に対する一つのオルタナティヴである。
「分人 dividual」とは、「個人 individual」に代わる新しい人間のモデルとして提唱された概念です。
「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。
https://youtu.be/KAZywRmbzQE
つまり、「まず実体的な単一の自己(=『本当の自分』)が常に中心にあり、それが個々具体的な状況に応じて多様な現れ方をする」という神話を解体し、むしろ個々の状況において成立する自己を「分人」と呼び、そしてその複数性を、自己に関する副次的でない根源的性質として認める、という立場であるといえるだろう。
『なめらかな社会とその敵』(通称『なめ敵』)において鈴木健は、分人主義を複雑系科学や身体性認知科学の議論の文脈のなかに位置付けている。
少なくとも一部の身体性認知科学者によって繰り返されてきた「知覚と行為は常に個々具体的な環境との動的なカップリングであり、主体の内部にそこから切り離された中央集権的なシステムの存在を仮定する必要はない」という主張は、確かに上で述べた分人主義とも重なり合うだろう。
この点については最後の方に立ち戻る。
次に、「モノイドとしての自己」という描像について簡単に述べよう。
「モノイド」としての自己
まず圏(category)とは、「対象」と「射」と呼ばれるものたちからなり、以下の4つの条件を満たすシステムである(それらさえ満たせばなんでもいい)。
射はそれぞれ「域(domain)」(source)と「余域(codomain)」(target)をもつ。
ある対象Aからある対象Bへの射は一つとは限らない。つまり、射は対象のペアには還元できない。
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射は対象を介して「合成(composition)」することが可能である。
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合成は、「結合則」と呼ばれるルールを満たす。
$ (h \circ g) \circ f = h \circ (g \circ f)を満たすということ
要するに括弧の位置を気にする必要がないので、単に$ h \circ g \circ fと書いていいということ。
各対象は、それと一対一に対応する、それからそれ自身への射の一種である「恒等射」を持つ。
よって、対象もまた射の特殊ケース「である」といえる。
恒等射は「なにもしない」射である。
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通常は点のように描かれる対象も実際には射の一種である、という図
これを踏まえて田口と西郷は、圏論が示唆する世界観を「射の一元論」と呼んでいる。
田口茂., & 西郷甲矢人. (2020). 圏論による現象学の深化 : 射の一元論・モナドロジー・自己. 『現代思想』, 48(9), 202–214.
圏論は、射(矢印)と対象(object)でできているが、対象もまた一種の射として見ることができる。通常の定式化では、対象と射を別に立て、各対象に対して「恒等射」とよばれる「何もしない射」が対応している、とするのであるが、実は対象をその恒等射と同一視することもできる。いいかえれば、対象とは恒等射の「ことである」として圏論を定式化することが可能なのである。したがって、一切を射(矢印)に還元する「射の一元論」として圏論を解釈することができる。そこでは対象は、矢印と矢印とを「つなぐ」機能に特化した矢印にほかならないのである。(ibid, pp. 203-204, emphasis added)
例えば西郷らは、ある系の「状態」を対象としそれらの間の「状態遷移」を射とする「モビリティの圏(category of mobility)」というものを提案しており、そしてこれは「状態とは過去の状態遷移と未来の状態遷移をつなぐものである」という見方に基づいている。
Saigo, H., Naruse, M., Okamura, K., Hori, H., & Ojima, I. (2019). Analysis of Soft Robotics Based on the Concept of Category of Mobility. Complexity, 2019. https://doi.org/10.1155/2019/1490541 The state connects the past and future; it can be defined through the equivalence between preparation processes and provides a basis for discussing the possible transition of the relationship between the system and environment. (p. 4)
状態とは、過去と未来をつなぐものである。それは、準備過程間の等価性として定義でき、系と環境の関係の可能な推移を議論するための基盤を提供する。
The concept of the category of mobility is based on the idea that the state at a moment is an effect caused by hidden dynamics while at the same time causing the future development of the dynamics. (p. 4)
モビリティの圏の概念は、ある瞬間の状態は隠れたダイナミクスによって引き起こされる結果(effect)であると同時に将来のダイナミクスの発展を引き起こすものであるという考えに基づいている。
圏論においては、対象よりも射の方にプライオリティがある。
圏論は、「まず対象を定めて、その後それらの間の射を考える」という順序ではなく、「まず射があり、各々の対象はそれが他の対象(あるいはそれ自身)との間に持つ射によってのみ特徴づけられる」という、ある意味で逆向きの順序の思考を我々に促す。
対象は、それ自体として何らかの性質をもつ(そしてそれによって他の対象との関係が一意に定まる)のではなく、むしろそれ自体としては何の特徴ももたない空虚なものであり、他の対象との間の射によってのみ特徴づけられる。
大まかに言って、集合論的アプローチでは数学的対象は「それが何によって構成されているか」という内部的な性質によって特徴づけられるのに対し、圏論的アプローチでは「それが他のものとどのような関係にあるか」によって特徴づけられる。
「それが何によって構成されているか」すらも、他の(ある特殊な)対象からの射(の集まり)として記述できる。
例えば、集合を対象とし写像を射とする「集合圏」における「要素を1つのみ持つ集合」="singleton set" $ 1からの射(「行き先の集合$ Xの要素を一つ指定する」という写像)が$ Xの各要素と一対一に対応している(下図(c)参照)
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Elements are a special case of functions.
要素とは、関数の特殊ケースである。
Leinster, T. (2014). Rethinking Set Theory. The American Mathematical Monthly: The Official Journal of the Mathematical Association of America, 121(5), 403–415. https://arxiv.org/abs/1212.6543 「対象のあらゆる性質を、その『中身』に言及することなく、それら同士の関係(射、矢印)の側面から記述する」という、ある種の「縛りプレイ」みたいなものとも言えるかもしれない。
このような思考は、圏論に限らず、現代数学全体を特徴づけるものである。
例えば、高校で習う数学ではベクトルは2次元や3次元の空間上の矢印のような「もの」として定義され、そしてそれらに「足し算」と「スカラー倍」という演算を行えるということ、言い換えれば、あるベクトルにそれらの演算を施した結果もまたベクトルであり、つまるところベクトル同士がそのような演算で結ばれる「関係」にあるということを学ぶ。しかし、より現代的な数学を学ぶ大学の数学の講義では、まず先に演算、すなわち「関係」の方が論じられ、その後「そのような演算をもつものたちの集合を『ベクトル空間』と言い、その元を『ベクトル』と呼ぶ」というかたちでベクトルという「もの」が定義される。このように、現代的な数学においては個々の「もの」や「同一性」からそれらの間の「関係」や「変換」へと主役が移っている。
西郷・田口『〈現実〉とは何か』pp. 176–178参照
また、位相空間論の初歩においても、〈我々がイメージしやすい距離空間において「近傍」を定義した上で、それらが互いにもつ関係(例えば「Aが近傍でかつA⊂Bならば、Bも近傍である」)をその定義から導く〉という向きの考え方から、むしろ〈より一般の空間においてある特定の関係を互いにもつようなものたちのことを「近傍」と定義する〉という向きの考え方へと「発想を逆転」(藤田, 2022, p. 15)させることが一つの起点になっている。
藤田博司. (2022). 位相空間のはなし: やわらかいイデアの世界. 日本評論社.
「クラインの壺」でも知られる数学者フェリックス・クラインは、1872年に23歳(!)でエルランゲン大学の教授に就任する際に、幾何学を個々具体的な幾何学的図形に関する学問としてではなく「特定の変換群に対して不変の性質を探究する学問」と一般的に定義することを提案した(例えば、「射影変換」に対して不変な性質を扱うのが射影幾何学であり、「位相変換」に対して不変な性質を扱うのが位相幾何学であり、「ユークリッドの合同変換」に対して不変の性質を扱うのがユークリッド幾何学である)。この提案は「エルランゲン・プログラム」と呼ばれ、のちの数学に大きな影響を与えた。そしてここでもやはり、まず図形という「もの」があってのちにそれが「変換」されるのではなく、どのような変換の構造を持っているかがその「もの」自体を規定するのである。
圏論の提唱者であるアイレンバーグとマクレーンは圏論のはじまりの論文 "General theory of natural equivalences" の導入部分で彼らの理論がこのエルランゲン・プログラムの延長線上にあるものであると述べている:
This may be regarded as a continuation of the Klein Erlanger Programm, in the sense that a geometrical space with its group of transformations is generalized to a category with its algebra of mappings.
Eilenberg, S., & Maclane, S. (1945). General theory of natural equivalences. Transactions of the American Mathematical Society, 58, 231–294.
このような観点から、Hirota, Saigo, Taguchiは圏論を、対象ファーストならざる「射ファーストな数学(arrow-first mathematics)」と形容している。
一言で言えば、圏とは「関係性のネットワーク(network of relationships)」である(David Spivak)。
https://youtu.be/cJ46AOEOc14?si=YDdwqTiDcH16Zorp&t=107
これは一見すんなり理解できそうな表現だが、よく考えると少々トリッキーなことを言っている。「Aのネットワーク」とは一般に「その中でAたち同士が(何かを介して)相互に関係付けられるもの」であるから、関係性のネットワーク(=圏)は「関係性(=射)同士が関係付けられているもの」なのである。
では一体何によって関係付けられているかというと、それは「対象を介した合成によって」なのである。
実際、Spivakらを含め応用圏論で現在広く用いられている「結線図式(string diagram)」という枠組みでは、射の方が箱として描かれ、対象がそれらを結びつける線(string)として描かれる。
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※ 念のため、数学のタームとしての「関係(relation)」は普通、何か(集合$ Sの要素)から何かへの間で一意に定まるもの(写像$ F: S \times S \to R)であることには注意。ここではそういったテクニカルタームとしてではなく、あくまで日常的・直感的な意味で「関係性」と言っている。
西郷はこの意味での、つまり関係付けられるものが決まれば一意に定まるようなものとしての「関係」と区別するために「媒介」という言葉を使っている。つまり、より正確には、圏とは「媒介のネットワーク(network of mediation)」というべきだろう
さて、圏の一種としてのモノイドとは、対象が1つのみの圏である。
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重要なのは、対象は一つしかないのだが、それがもつ射は一つとは限らず、多くの(場合によっては無数の)射が存在しうるということである。
上で述べた「射は対象のペアに還元できない」ということからの帰結でもある。
モノイドの場合、対象が一つなのですべての射は「自己射(endomorphism)」であり、そしてそれらすべてが互いに合成可能である。
つまりモノイドは、実質的には「互いに合成可能な射の集まり」である。
西郷甲矢人・能見十三『圏論の道案内』p. 57参照
「モノイドとしての自己」という描像において、それを実質的に構成している自己射にあたるのは、外部の環境や自身の部分(臓器など)を介して実現される、ループ的な自己媒介(self-mediaton)である。
ここで媒介(mediation)とは「AがなければBはない」という関係を指す。
これは「因果」と呼ばれる関係(に関する一つの解釈)でもある(西郷・田口『〈現実〉とは何か』参照)
つまり、因果関係とは「原因がなければ結果はなかった(だろう)」という関係を指す、ということである。
このように「何かがなかったならば」という反実仮想を「因果」と呼ばれるものに関して根源的なものとみなす立場は、ジュディア・パールらの統計的因果推論の枠組みなどにも見られる。
これは「AがあればBは必ず生じる」という決定論的・演繹的な関係とは異なっている。
たとえば「種を植えれば必ず芽が出る」とは言えないが「種がなければ芽は出ない(蒔かぬ種は生えぬ)」とは言える。(『〈現実〉とは何か』)
この関係は、"Enabling relation"(可能化関係)とも呼ばれている。
see also: Longo, G., Montévil, M., & Kauffman, S. (2012). No entailing laws, but enablement in the evolution of the biosphere. Proceedings of the 14th Annual Conference Companion on Genetic and Evolutionary Computation, 1379–1392. https://hal.science/hal-02398759/document Di PaoloとThompsonは、自律性の概念を、システムを構成する複数のプロセス同士が"Enabling relation"に関して閉じているという「operational closure(作動的閉包)」として形式化している。
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丸は何らかのプロセス、矢印はプロセス間の「可能化関係」(「AがなければBはない」)を表す。黒い丸(プロセス)は、他の一つ以上の黒い丸(プロセス)からの矢印(可能化関係)をもち、かつ他の一つ以上の黒い丸に対して矢印をもつ丸であり、つまり可能化関係に関して「閉じた」プロセスたちである。
Di PaoloとThompsonは、この黒丸で描かれたプロセスたちこそが自律的なシステムを構成するプロセス(constitutive processes)であると定義している。
言い換えれば、そのシステムにとっての自己(黒い丸)と非自己(灰色の丸)の区別(self-other distinction)はそのようにして定まる。
この定義の本質は、「自律性とは自己媒介性である」ということである。
A precarious, operationally closed system is literally self-enabling, and thus it sustains itself in time partially due to the activity of its own constituent processes. (Di Paolo and Thompson, 2014; p. 72)
不安定で作動的に閉じたシステムは文字通り自己可能化的なのであり、したがって、時間の中での自身の維持が部分的にそれ自身の構成プロセスの活動に依っているのである。
Di Paolo, E. A., & Thompson, E. (2014). The enactive approach. In L. Shapiro (Ed.), The Routledge Handbook of Embodied Cognition (pp. 68–78). New York: Routledge.
言い換えれば「自己と呼ばれるものは『それ自身を媒介する』という関係を(それ自身に対して)持ち、逆に言えば、そのような関係を(それ自身に対して)もつものを『自己』と呼ぶことができる」のではないか、ということである。
上で述べたベクトルの例と同じ
An autonomous system ... is organized in such a way that its activity is both the ‘cause and effect’ of its own autonomous organization; in other words, its activity depends on organizational constraints, which are in turn regenerated by the activity itself.
Froese, T., & Di Paolo, E. A. (2011). The enactive approach: Theoretical sketches from cell to society. Pragmatics & Cognition, 19(1), 1–36
「自律的なシステムは、その活動がそれ自身の自律的な組織化の『原因であり結果でもある』ようなかたちで組織化されている。」
「モノイドとしての自己」という描像において、射(→)は媒介関係を表す。
このモノイドは、他のさまざまな対象(プロセス)とそれらの間の媒介関係がなすより大きな圏から、ある特定の対象と、その対象から出発してそれ自身へと戻る「自己射(endomorphism)」たちを取り出すことで作られる部分圏(subcategory)とみなせる。
モノイドを構成する自己射には、上記の「より大きな圏」における他の対象を介したものが含まれている。
例えば、自己→環境→自己というループ
ミズムシ("water boatman"、ゲンゴロウみたいな水生昆虫)の一種は、身体の表面の毛で空気を捕まえることで水中で体表に気泡を纏うことができ、その気泡中の空気を吸うことでより長い時間水中にいることができる (Di Paolo, 2009)。このとき、「ミズムシ→気泡→ミズムシ」という相互媒介関係、そしてそれらを合成することで得られる自己媒介関係(「ミズムシ→ミズムシ」という自己射)が成立している。
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Di Paolo, E. A. (2009). Extended life. Topoi. An International Review of Philosophy, 28(1), 9–21.
また、「自己→臓器→自己」のような、自身の「部分」を介した自己媒介も含まれている。
このような「部分と全体の間の相互媒介関係」としての自律性の理解は、カント(『判断力批判』)によって指摘されて以降しばしば参照されてきた。
スチュアート・カウフマンはこれを"Kaintian Whole"(カント的全体、カント的総体)と呼び、生物の本質的な性質としている。
日本語ではスチュアート・カウフマン『WORLD BEYOND PHYSICS: 生命はいかにして複雑系となったか』を参照
圏論においては、包含関係にあるもの同士も、フラットな「対象」間の間の関係(射)として扱うことができる。つまりこれも「非自己を介した自己媒介」の一種として上で挙げたものと同列に捉えることができる。
「モノイドとしての自己」と分人主義
私は、この「モノイドとしての自己」という構造が、生物的な自律性のレベルを超えて、知覚・運動的、社会的な自己などのさまざまなレベルにおいて成立しているのではないかと考えている。
そこで、これまでの議論をより一般化するようなかたちで、分人主義にまつわる議論へと結びつけて考えてみたい。
第一に、ある意味では、その都度成立している個別のループには「自己」と「非自己」を明瞭に区別するような絶対的で実体的な境界は存在していない。
拡張された心 (Extended Mind)
Clark, A., & Chalmers, D. (1998). The Extended Mind. Analysis, 58(1), 7–19.
拡張された生命 (Extended Life)
Di Paolo, E. A. (2009). Extended life. Topoi. An International Review of Philosophy, 28(1), 9–21.
この論文においてDi Paoloは、上でも述べた「ミズムシ→気泡→ミズムシ」というような自己と環境との相互媒介関係が成立している時、ある意味ではその個体は環境へと「拡張」されていると主張している。
Batesonのきこりと斧と木:
きこりが、斧で木を切っている場面を考えよう。斧のそれぞれの一打ちは、前回斧が木につけた切り目によって制御されている。このプロセスの自己修正性(精神性)は、木―目―脳―筋―斧 ―打―木のシステム全体によってもたらされる。このトータルなシステムこそが内在的な精神の特性を持つのである。正確には、次のように表記しなくてはならない。[木にある差異群]―[網膜に生じる差異群]―[脳内の差異群]―[筋肉の差異群]―[斧の動きの差異群]―[木に生じる差異群]…。 サーキットを巡り伝わっていくのは、差異の変換体の群れである。…ところが西洋の人間は一般に、木が倒されるシークエンスを、このようなものとは見ず、「自分が木を切った」と考える。 そればかりか“自己"という独立した行為者があって、それが独立した“対象"に、独立した“目的" を持った行為をなすのだと信じさえする。
『精神の生態学』
実際に「ある」のは物理的なプロセスの連鎖のみであり、「自己」とはそこに後から一定のまとまりを(説明の便宜などのために)見出しているにすぎない、という思想。
そして上で述べたように、モノイドとは実質的に「射の集まり」である。
ここまでは「モノイドとしての自己」という見方は「分人主義」的な自己像、すなわち確固たる境界を持った実体としての自己の解体と対応するものであるといえるだろう。
他方で、「モノイドとしての自己」という描像において、複数的な「自己媒介」のループ同士を「合成」することを可能にしているのがモノイドの「対象」であった。
対象とは「何もしない」射(恒等射)であり、それ自体としては(その他の射から切り離されては)いかなる特徴も持たない空虚なものである。
これは「自己がなければ自己はない」という自明に(immediately=「無媒介」的に)成り立つ無内容な自己媒介関係を表している。
よって、複数的な自己媒介のループの背後・根底に「実体としての自己」のようなものはなく、そこにあるのは「無」である="nothing exists" =「なにもない」。
この点においても、「モノイドとしての自己」論は分人主義に同意する。
しかし、そのような「それ自体としては空虚なもの」を介して複数的な自己同士が相互に結びつきあっているということが、我々が「自己」と呼んでいる現象の根幹にあるのではないだろうか。「モノイドとしての自己」という描像は、そのような示唆を我々に与えていると思われる。
すなわち、「モノイド」としての自己という見方は「複数の、あるいは無数のループが、それ自体としては空虚で無意味な点を介して相互に接続されていることこそが『自己』という現象である」ということを示唆しているように思われるのである。
ここで極めて重要なことは、「実体的な自己」を否定することは「いかなるかたちの自己も存在しない」という素朴な無我論とは異なるということである。
その意味で、「モノイドとしての自己」は仏教における(正しい意味での)無我論にも近いと思われる。
以下の『〈現実〉とは何か』p. 256 注(6)を参照:
「私」を普遍的実体と捉える見方を真面目に展開したのがウパニシャッド哲学(アートマン=ブラフマンという考え)であると言ってよいと思われるが、この実体論を解体しようとしたのが仏教である。……(「無我」と言われているのは、「アートマンではない」ということであって、単に「われわれがふだん自我と思っているもの、私として言い表しているものがまったく存在しない」と言っているわけではない。むしろ「私」の実体論を含めたすべての実体論からの脱却を意図しているのである。)
また、我々の議論は「複数の自己(分人)がバラバラに存在している」という主張とも異なっている。
すなわち「自己」とは複数の分人同士の「あいだ」にこそあるのではないか。
また(これはALIFE2023論文でも少し触れているが)、生物において「膜」(自己区別化、self-distinction)がもつ意義とは、「モノイドとしての自己」における恒等射に対応し、つまりそれまでの自己生産プロセスをそれ以降のプロセスへとつなぐ=それを介した合成を可能にすることにあるのではないだろうか。
https://gyazo.com/d8f0e379d2ae49ff0adda1470e1592af
物理的な境界(膜)を持つことは、この「プロセスとプロセスをつなぐ」という特殊なプロセスの実現形態の一つではないだろうか。
恒等射は「なにもしない」、すなわち「何も変化させない」射である。そして膜もその内部の物質の「空間的位置を変化させない」という役割を持つ。
これは、分人主義を支持する鈴木健が『なめ敵』において生命システムの【膜】的な要素を緩めること(そして、それによって世界をより「なめらか」にすること)を指針として掲げていることともある意味で整合する。
彼は内と外との区別の一切ない「フラット」な世界を求めているわけではなく、否定しているのはあくまでも外から離散的に区別される実体的な自己概念であり、その点においては我々の見方と合致している。
が、我々の提起する自己観は、「開かれつつ閉じている」ことを「開かれている」(=フラット)ことと「閉じている」(=ステップ)の間のスペクトラムの中間(=なめらか)をとるようなこと(言ってしまえば「ほどほどに開かれる」こと)として考えるのではなく、モノイドという極めてシンプルな構造の2つの側面として捉えようとしている。
ここで述べたものと似た自己観は、オートポイエーシスの提唱者の1人として知られるフランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)によっても提示されている。
彼は、自己とは"a meshwork of selfless selves"、すなわち、生物としての自律性や環境とのセンサーモーターカップリング、免疫系の作用などさまざまなレイヤーで生じる複数的な自己(selves)同士が折り重なり合う「〈自己なき自己〉たちがなす網目」であると述べている。
Varela, F. J. (1991). Organism: A Meshwork of Selfless Selves. In A. I. Tauber (Ed.), Organism and the Origins of Self (pp. 79–107). Springer Netherlands.
個々のループは「自己であって自己ではない」(selfless selves)。それは「自己」を構成するものでありながら、ベイトソンが言うようにそれ単体としては「自己」ではなく、それらが一つの網目をなすことで「自己」となるのである。
他にも、例えば東浩紀は『観光客の哲学』の中で、『なめ敵』に代表される現代的な分人主義的思想に関してその有効性をある程度認めつつ、完全な「アカウント分け」の不可能性、すなわちアカウント間の不可避的な相互侵食・相互干渉という観点から批判している。
これは続編にあたる東の『訂正可能性の哲学』第7章での『なめ敵』批判にも通じている。
我々は日々、置かれている状況に応じて、ある意味では異なる「自己」=分人を生きている。しかし、それら複数の自己たち同士は無関係・無相関ではありえない。その意味で、「私」をなす分人たちの間の関係は、あなたと私の間の関係とは決定的に異なっている。
高校時代の友人と遅くまでお酒を飲んだ時の自分(「俺」)は、翌朝の研究室での自分(「僕」)とはある意味では異なるが、決して無関係ではありえない。それらは、この場合一つの身体を介して不可避的に相互に接続されてしまっているのである(aka 二日酔い)。
他にも「モノイドとしての自己」という観点は、障害者の当事者研究を行っている熊谷晋一郎によって論じられている「自立(=independence)とは依存先を増やすこと(=multi-dependence)である」という考え方とも共通するところがあるように思われる。
それについてもいつか書くかもしれない。
「モノイドとしての自己」に関しては日本語での(短めの)論文も書く予定なので、どうぞご贔屓に。
他にも興味・質問等があれば、一番最初に紹介している論文に載っている連絡先に気軽に連絡ください(極めて自然な誘導)
これをみた同じキャンパスにいる文化人類学系の学生の方が実際に連絡を下さり、めちゃ元気出ました。ありがとうございます。