フーコーの実存と実践の哲学
一般的には「実存主義」に対する「構造主義」の哲学者として理解されるフーコーは、「具体的な実存」を哲学的思考の対象にすることを試みた。実存主義が「人間」一般を問題にしていたのに対して、フーコーは、個別的な存在としての主体を哲学的思考の対象にしようと試みたのである。つまり、「人間」一般とは何かという形で主体の理論を練り上げるのではなく、個別的な存在者をいかにして哲学的思考の内部へと編入するのかということが課題だったのである。重要なことは、デカルト以降の近代哲学史において主体の問題が論じられる際、そこで典型的な主体像として理解されていたのが、明証性の規則に基づいて、明晰判明な観念を保持する知の主体だったというフーコーの認定である。その限りにおいて、個別的な存在としての主体がそこで検討されることはない。なぜなら明晰判明な知が単一なものである限りにおいて、思惟実体であれ超越論的主観であれ「人間」であれ、そこで問題にされるべき主体もまた唯一者としてしか想定されえないからである。それに対してフーコーは、「具体的な実存」を、単に認識主体としてだけではなく、同時に、実践と行為の主体としても捉える。このような問題構成においては、主体は、単に認識されるべきものとしての身分をもつのみではなく、自己認識をその一つの要素としつつ、主体自らによって構成されるものとして理解されることになる。そこから、主体に関する自己認識と、実践による実存の構成との関係という問題が出現することになる。さらにその帰結として、真理の概念がもつ意味が変容する。認識論において真理は一般的に、現実との一致やその正確な反映として理解される。それに対して、フーコーにおける真理概念は、単に主体の現実を認識することによって獲得されるものではなく、自らの実践によって現実化されるべきものとして提示された。そこから本論文では、「真理の現実化」を、フーコーの「実存と実践の哲学」において核となる構想だと主張した。