ドゥルーズと恥
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https://note.com/m_l_b_j_c/n/n703a25155468
晩年のドゥルーズは「恥」のテーマを度々繰り返して語る。「人間であることへの恥が哲学や芸術において創造的な契機となる。」これは『批評と臨床』や『哲学とはなにか』、あるいは『アベセデール』に至るまで頻出するモチーフである。それと同様に頻出するのは、動物になることのモチーフだ。
書くことの最良の理由は、「男=人間(ルビ:オム)」であることへの恥ずかしさにありはせぬかと喝破したドゥルーズを思いださせて。
小説の聖典 漫談で読む文学入門p77
https://odatomo.wordpress.com/2013/02/26/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E6%81%A5%E3%81%98%E3%82%8B/
アウシュヴィッツの生き残りであったプリーモ・レーヴィの最初の著作は、日本語題名は『アウシュヴィッツは終わらない』だが、原題は『これが人間なのか』だ。人間は、こんなことまでなしうるのか、という絶望と、自分もまたその同じ人間の一人である、といういたたまれぬ絶望とがない混ぜになった題名だ。プリーモ・レーヴィが『これが人間なのか』から『溺れるものと救われるもの』まで、ずっと見つめ続けていたのは「人間であることの恥」である。
哲学者ドゥルーズと精神分析医ガタリの最後の共著『哲学とは何か』で、彼らはこのプリーモ・レーヴィを引きながら、「人間であることの恥」は、レーヴィが体験したアウシュヴィッツの極限状況ばかりでなく、私たちの日常の場面においても感じられる、という。
「わたしたちは、自分が自分の時代の外部にいるとは感じていないのであって、外部にいるどころか反対に、私たちは、自分の時代と恥ずべき妥協をし続けている。こうした恥の感情が、哲学の最も強力な動機の一つだ。私たちは犠牲者に責任があるのではない、犠牲者の前で(devant)責任があるのだ」
鵜飼哲さんが『主権のかなたで』で書かれているように、「犠牲者の前で責任がある」の「前で」を理解することは非常に難しい。鵜飼さんは「前で」に、さらに「前方で」を付け加えて、「犠牲者の前で、前方で責任がある」と訳されている。鵜飼さんは、「前方で」を付け加えることによって、ここに「まだない」が鳴動していることを示そうとなさっているようだ。「犠牲者の前で」は、レヴィナスであれば「対面」というだろう。もうずいぶん長くこの問題に取り掛かっているのだけれど、未だ自分の言葉にならない。
ヨルムンガンドで「空を見上げるたびに人間の恥を目の当たりにする、という状況で人は争うのか」みたいなくだりがある。思考のカテゴリーとして人間であることの恥というものがあるのだと考えると、やはり争う他なかろうと思う。飛行機は飛ばず、鳥は飛ぶという状況で人間は人間であることを嫌と言うほど実感するであろうが、そこでの思考が争いを避けるために働くものであるかはわからない。動物的に考えての結論ではないが、争いは動物化することを頑なに否定するために、人間的英雄と動物を重ねることで生じる闘争偽本能なのでは。影の英雄すらFOXと名付けられるわけだし(メタルギア)。恥の反動としての闘争。