デリバティブへの対抗力
〇〇批評や社会学が金融と向き合ってないことにも何らか違和感がある で、この記事を見つけた
デリバティブは、未来についての約束の結果勝ち負けが生まれるという性格をもつ、「競覇的約束(agonistic promise)」(Appadurai 2016:13)なのである
アパドゥライはデリバティブをこう位置づけるが、デリバティブの信用リスクの緩和という機能についてはどう考えているのだろうか。 リターンの側にだけ目を向ければそうなるのはわかるが、リスクの側に目を向ければ「未来についての不確実性の結果生じるリスク・リターンの範囲を狭める(外部に転嫁する)」ものとしてもデリバティブを捉えることができる。
///カルヴァン派の予定説に基づく/// 禁欲的なエートスは、いったん資本主義が確立されると必要なくなる。複式簿記や資本会計といった装置が作られて合理化が進めば、資本主義は「自己推進的なマシン(self-propelling machine)」(Appadurai 2016:43)となり、アクターがどのような精神を持っているかは関係なくなる。ここから言えるのは、「どのような資本主義のエートスやハビトゥスの背後にある精神も、装置そのものの配置や形態から演繹できない」(Appadurai 2016:30)ということだ。……現代の金融を考えるとき、それを成り立たせている装置とエートスとしての「不確実性の想像力」のズレをとらえなくてはならないのだ。 アヤーシュは、デリバティブの価格はオプション理論が考えるように確率論的モデルによって算出できるものではなく、前後の脈絡とは関係なく取引の行為そのものによって生み出される「きわめて偶発的な出来事(radical contingent events)」(Appadurai 2016:84)であるととらえる…… このように考えると、デリバティブ取引における真のリスクは、……果たしてある価格において同意できる取引相手を見つけられるだろうか、という根本的な不確実性である。だから、それぞれの取引は、決まりきった官僚的ルーチンではなくて、この不確実性を乗り越えるカリスマ的な出来事なのである。そして、至高の存在としての市場の連続性は、出来事としての取引の後で遡行的に見出される。デリバティブの取引は、この観点からは、アボリジニの儀礼と同じように、不確実な状況において全体性を遡行的に作り出そうとする賭けと見ることができる。 アパドゥライは、このようにまとめられるデリバティブの論理が、「本質的に不公平で悪であるとは考えない」(Apadurai 2016:127)という立場を取っている……アパドゥライは失われた安全へと戻ろうとするのではなく、むしろ、デリバティブの論理に対抗するようなもう一つの「不確実性の想像力」を構想しようとする。 アパドゥライによると、デリバティブは「捕食性分人主義(predatory dividualism)」である。ここでは、分割可能なのはトレーダーたち自身ではなくて、その餌食となる債務者たちだ……デリバティブは「少数の人々の(利益獲得を通した)個人化のための、大多数の人々の分人化」(Appadurai 2016:112)である。だとすると、問題は「不確実性の想像力」そのものではなくて、それが一部の人たちの豊かさのために独占されていることだ。
「進歩的分人主義(progressive dividualism)」は可能だとして、アパドゥライはムンバイのスラムの住民運動の例を取り上げている。そこでは、カーストや民族や宗教の違いを超えて、排泄のような生活上の問題を改善するための具体的な実践を人々が試み、それを通してコミュニティの連帯という肯定的な価値を生み出している。それは、西洋の個人主義とも古典的なヒンドゥーの分人主義とも異なる、進歩的な「分人」の政治なのだとアパドゥライは主張する。 軽くググったけどどういう事例かはわからず。個別のイシュー(=社会問題)について分人として連帯する、という話だと理解すればいいのか。
『文化的事実としての未来』(2013)を読めばもっと詳しくわかるらしい。