顔
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レヴィナスのキー概念
フォルム的な意味ではなく、自我による意味づけや主題化を逃れ突き破り現れる<他者>そのものの顕現を意味する。
レヴィナスにおいて自我(le Même、同一なるもの)は世界を自己理解に取り込む(=自我は所有可能性に開かれている)という意味で「全体性(Totalité)の秩序」をもつが、〈他者〉(l'Autre)は、自我が把握不可能であるという意味で「無限(Infini)」の次元から来訪するものである。
「私のうちにおける〈他者〉の観念を越えて〈他者〉が現前する様式、我々は実際それを顔と呼ぶ。こうした仕方は、私の視線のもとに主題として姿を現わすことには存していないし、ひとつのイメージを作りあげる諸々の質の総体として自らをひけらかすことにも存していない。〈他者〉の顔は、それが私にゆだねる可塑的なイメージを絶えず破壊し、あふれる。すなわち、私に適合した観念、その観念されたものに適合した観念、つまり十全な観念を絶えず破壊し、あふれる。顔はその質によって現出するのではなく、それ自体として現出する。顔は自ら表出する」
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倫理的次元においては、その意味での「顔」をもった<他者>は世界で唯一、私の世界に対する所有に異議を唱える存在であり、根源的に自我を見下ろしている。この原理的に発生する距離は「高さ(hauteur)」と呼ばれる。
注意すべきは「顔」が最初から抽象概念として現れるのではない、という現象学的なセンスかも。レヴィナスにとって、顔は「他人(autrui)」のものとして自我が出会うものであり、私の責任を呼び覚ます具体的な他人がきっかけとなる。ただ他人が客観的対象かというとそれもまた微妙で、他人は<他者>の原理を担い顕現させる「場所(lieu)」と解される。
イメージとしては、他人は「倫理的現象の唯一のフィールド」であり、顔は「倫理の現象」であり、<他者>は「倫理の原理」って感じだろうか。厳密には違うと思うけど、入口の理解としてはそこまで間違っていない気もする。
レヴィナスの平和についての考察においての「顔」
顔は、いかなるコンテクストや文化的な装飾にも覆い隠されることのない「赤裸々(nudité)」において現れる。私の暴力に完全に晒されている。この脆弱性の中から、声なき命令として「汝、殺すことなかれ(tu ne tueras point)」という絶対的な禁止が発せられる。
レヴィナスにとってこの命令はあらゆる言語活動に先立つ「第一の言葉」であり、私の殺人の自由は、「顔」との対面において、倫理的な不可能性として現れ、私を責任へと方向づける、ということになる。
※裸であるがゆえに自我が「殺人への誘惑」も同時に読み取ることに注意。
したがって、レヴィナスにおける「対面」とは、<他者>の無限性が私の全体性を貫き、その脆弱性をもって私に無限責任を課す、倫理の原-現象となる。
face-to-face、顔と顔。
またこれも現象学的なセンスになると思うのだが、「顔は認識できない」とも言われる。
なぜ顔は見ることも認識されることもできないといわれるのだろうか……認識とは「無から出発して存在を掴むこと、あるいは無へ連れもどすこと、存在からその他性を剥奪することへと帰着する」。認識においては、つねに中立化された存在、すなわちつねに一般化された存在しか対象として現われず、〈他者〉がその絶対的他性を保ったまま現前するということは不可能であると考えられるのである。以上から、視覚や認識と〈他者〉との相容れなさが明らかになる。そしてここから、〈他者〉の顔が抱えるジレンマが浮き彫りになる。すなわち、〈他者〉の顔は、もし視覚や認識において捉えられるならば、〈他者〉の顔として現前することはできない。だが、そうした仕方で捉えられなければ、その他性を無化されることはないが、世界内では現出しえない。このように、顔の認識は顔の無化へとつながるため否定される。
「顔」は赤裸々に現れ「汝、殺すことなかれ」と命令するわけだが、しかしそもそも「顔」は認識できないのだから、私は「顔」を原初的な「語り(discours)」として「聞く」しかない。互いの目のうちに、殺人の誘惑とその禁止を「聞く」ことが「対面」である。そういう仕方でしか「顔」と出会うことはできないのであって、だから「顔は認識できない」と言われる。