結婚生活の振り返り 2025/10/11
kbyshwtn.iconPA暇なので落ち着いたタイミングで清算を行う。
コミュニケーションの仕方の何が問題だったのか
まずは動機の問題
8割くらいは相手の苦境や目的達成の解決の一助となることであったはず。ブラックな職場への適応、研究者としての成長。
また生活時間の半分くらいは、そういう解決を可能にする状況づくり(例えば家事負担を減らすために俺がほとんどやるとか、家計の管理とか、俺自身が心身ともに健康に生きておくこととか)をしていた。
ただ、2割くらいは言いたいことを言い散らかしたい、みたいなところがあったのかもしれない。例えば「研究たるものこうあるべき論」であるとか。
その過程で「相手のやってること、大事にしてることを下げる」みたいな瞬間が多分にあったことは認めざるを得ない。
「それって何になるの?」みたいなことに大した回答を持てない状態に留まることを許せない存在というのが俺の中にある。文化の作り手側に多い(参加してるだけの人は正味どうでもいい)。
政治家が「経済!成長!」とか言ってるのに対する反感と大して変わらないのかもしれないが、政治家を敵視するくせに代替ビジョンを持とうとしないのはクソだろ、ということに正義がないとも思わない、みたいな。
が、まあ俺が許せないというだけで相手のやることなすことを否定することがつねに正当性を持つわけはない。単に広義の文化の作り手同士の関係性において、俺が闘争を仕掛けている、という構図ではある。
方法の問題
内容自体は常日頃の会話の節々に現れてる自分の考え方の断片みたいなのを、非常時(議論が必要になるようなタイミング)に総結集させて話す、というスタイルだったように思う。
最終的には解決の糸口を見出しネクストアクションにつながるようコントロールすることを心がけていた。そういう意味では問題解決志向の方法を一貫して取っていた。
相手に寄り添うという感じではない。生活態度はごくごく一般的に考えれば相当寄り添う態度を持っていたとは思うが、殊に言語に関してはそうでもない。
話を脇道にそらす、みたいな余白のあるコミュニケーションではなかった。日頃の自分は割と話をあちこちに散らすのが好きな方だと思うが(雑談好きというか)、非常時にそういう余白を持てないのはあまりいいことではないのかもしれない。
関連しそうな点として、妻とそこまでユーモアのセンスは合っていない節はあった、というのもある。
なんというか吉本をはじめとする「テレビ的なユーモア」と「インターネットノリのユーモア」、そこにちょっと「サブカル的ナンセンス」を加えたようなユーモアって俺等の世代で音楽やってるやつに結構多いと思うのだが、妻はテレビもインターネットもさして触れてきていないので、そういうノリが微妙に合わないところがある。
なんか人間の挙動で笑うとかそういうところは割とマッチすると思うのだが。
といっても普段から笑い話はいくらでもしてたのでそんな深刻なもんでもないはず。
なぜもやもやするのか
あまりにも義理のないことばかり言われるから、がまあデカい。
DV、洗脳
まあ広義ではそうなるのか、、、?
とか言われる割に「あなたの信念はそれはそれで正しいと思うから変わらなくていい」とか言うのもどうなんだ。
恩を仇で返されているように感じているが、そもそも客観的にそうなのか?
向こうからしてもそう、という可能性はあるのだろうか。あるいは恩以上の苦痛を与えたという見方に妥当性はあるのだろうか。
俺が今仇で返してるは無い気もするが、恩以上に苦痛とか、あるいはさらに共に暮らすことで音を余裕で超えてくる苦痛を与えてしまうことが予見されるとかはあるのかもしれない。
まあそもそも「恩だと思う必要なんて無い」と長らく言い張ってたの俺だし、俺が今仇で返されてると感じていること自体に俺の不義理がある気もする。
「てめえらしくスパッと受け入れろや」が向こうの本心なのかもしれない。
ここで関係が切れることにより妻がなりたいものへ近づけるようになるのか、むしろ遠ざかるんじゃないか、という疑いもある。お節介なのかもしれんが。
早期に決着つけようとしてるところももやる
歴史って大事じゃないんか?共時的に見ると一瞬で決断してるように見えるが、ゆうてもこれは通時的な歴史だぞってことなんだろうか。
結論がどうしても「でも私は辛かったし今後も辛かろう」になるから、何を言うでも動くでもあまり意味がない。
むろん、歴史が常に挽回可能なものではないことは承知しているが、いざ自分の身に起こると「歴史を誤った」で納得できるもんでもないんだなと。
夫婦の分業について
妻の自己肯定感へのこだわりについて
自己肯定感についてしきりに語っていたことを思い出した。
自己肯定感は外部の何かから得るもの、という観念、わかるようでわからない。
なんか最近思うのは、自己肯定感は根本的には自己の内部から湧くものであって、外から傷つけられることはあれど、外から支えられることはあんまないのではないか。
他者という存在は基本的には否定性そのもの(自らを逃れでんとする動きを止めるもの、メデューサ)なのであって、それを自己としてどのように躱すか、なのではないか。
湧き出る自己肯定は純粋には自己の動きの肯定であり、存在的欠損の承認である(欠損があるから動ける、人間である、根源的否定)。他者は本質的にこの動きを固定する働きを持つ存在だが(否定性、より厳密には外的認識が含む否定性)、私はこの脅威に対して契約の提案が可能である。私をこう見ないでください、あなたをあなたが望まない形で認識することをしないのであなたもそうしないでください等々。
無論、契約を前もって成立させることは不可能。一度は脅かされることになる。
この契約は現実的には「他者と過ごすかったるい時間」として実現化しやすい。躍動のない時間というか。リアリズムが強い作品で(契約としての)愛が間延びとして表現されることが少なくないのは偶然ではない気もする。
問題は契約が適切にカスタマイズされていなかったり、テンプレ契約が成り立っている状態である。
例えば理想の恋人像はまさに無数にあるテンプレ契約の一つであり、往々にして履行不可能である。
カスタマイズするのは素朴に疲れることではあるはず。完璧なカスタマイズを作成することを耐えうるほど人間は多分強くない。だからテンプレをもとにほどほどのカスタマイズをなしていく。例えば「それぞれの結婚」という契約。
また別の問題として、時間経過に伴う両者の自己の変化を契約に取り込む技術はそう簡単ではない、ということがある。
その技術は中庸みたいなバランスに関わるコンセプトに関わる。成熟(経験的な積み重ね)が要る。
※契約というと固定的なニュアンスが強いが、仮固定みたいな流動性を踏まえた言葉でもいいし、取り決め、くらいに柔らかく言っても良い。約束でもいい。そのへんの概念整理はちゃんとできていない。ただ、「取り決める、合意する(暗黙的合意でも成立しうる)、カスタマイズできる、テンプレがある、自らを同定する、破れる、漏れ出るものがある、その下では自由である、罰則規定をつけることもできる、社会通念で成立する契約すらある」といった特色を持つ(ある種実践的な)契約という言葉が気に入っている。
仮固定が流動性へ個人がとりうる抵抗手段ならば、契約は共同体がとりうるそれなのでは。
nozakimugai.icon
ちょっと実存主義すぎませんかね
めっちゃつまんないこと言いますけど、「自己から純粋に自己肯定が湧き出ている実存主義的状態」を構造的/過程的に支えているのは周囲の環境や他者なんじゃないでしょうか
あと他者が純粋な否定性として現れる瞬間ってそんなにありますかね? いじめられてる時とかに頭の中で想定してたバーチャルな大文字の他者とかはそうだった気がするけど、リアルな他者と触れ合う時に「ガチの他者性」を感じることってあんまなくないすか?
むしろどんなに他者的なものを求めても自己的なものしか返ってこない、みたいなことの方が多い気もする
自己以上の肯定性として他者が機能した経験めっちゃあるし、それが内面化されたり変形される中で(あたかも自分の内から湧き出ているように見える)自発的自己肯定が生まれている、というのが少なくとも僕の経験的な事実には近いです
経験的な事実を構成しているというかそれを可能にしてる条件みたいなのをまずは探求している状態。kbyshwtn.icon
経験としては他者からも肯定されてるし、自己としても肯定している、ではある。逆もある。
「経験としての自己肯定感を与えられてあげていない」のだとして、「そもそも与えられるもんなのか、与えられるのだとして何が経路として開かれている必要があるのか」について考えている。
僕はまあ「いるだけでいい」とはよく言っていたので与えられるもんではない、みたいなレールを敷いていた側面もある。厳密には「いるだけでいいし、それは私を変えている」とも言っていたと思うけども。
この辺僕もめちゃくちゃよく考えていますが、自分が何かをすることで人を変えるみたいな思考に限界がある気がして来ました。Kai.icon
こちらが認識する相手の状況とか問題みたいなものにも、こちらがタッチできない必然性的なものがあり(現にその状況が生まれているという時点で)それが僕の行動によってどうなるかは複雑な因果関係の中で意味づけされる運でしかないので、問題として向き合いすぎない半分の「どうでもよさ」を確保することを意識しています。
意味もなくクソブラックな仕事し続けてる彼女と話してそれ飲み込むのめちゃくちゃキツイけど…
ある時期から僕も積極的介入は避けて「放っておく」とか、ぶっちゃけ「体壊したら気づくだろ」位の気持ちで「どうでもいい」を体現してみていたが、なんかそれが事態を好転させたのかどうかはよくわからん。kbyshwtn.icon
まあその態度を「見透かされていた」気はしなくもない。向こうが「あ、この人放任フェーズに入ったな」みたいなのをわかっちゃってるというか。kbyshwtn.icon
そこでバレずに「大事がる」バランス感覚は必要説はある。実践の問題として。なんで俺がそんな大変な思いせなあかんねんとは素朴に思うが笑kbyshwtn.icon
それはまじで思いますが、そうです笑。とはいえ僕は単に放任することもできず、自分の感じる居心地の悪さとかある程度話してしまっていますがそれも見方によってはダルいし、やっぱマジで結果は運ゲーなので自分がどれぐらいガチで向き合ったと自分に言えるかで事実を納得する他ないよな。。という受動的な感じになってます。
最終的にこっちがガチであったということだけしかない諦め的な態度。
それうちのケースではダメらしいので気をつけて()kbyshwtn.icon
マジカKai.icon
こっちがガチかどうかなんて「被害者」に関係ないからね。kbyshwtn.icon
まあそれはそうですね、結局結果には納得する他ないので、問題に対してどう機能するかがわからない以上、だめでもガチだったのにな〜と思うしかないって話です。よく作用するかは別です。
自然の摂理とはいえ、普通に良かれと思って色々考えてたことが被害として機能してたって言われてしまうのは単純に相当キツイす(;_;)
(´;ω;`)kbyshwtn.icon
自分の親の裏目行動が半端なかったので、だいぶ学習して覚悟してるつもりではありますが、リアルに考えるとダメージが厳しすぎます。
基本態度がガチすぎてifが「クソな自分像」しか思い浮かばないのが納得を阻害している気もする。「理想の彼ピッピ」みたいな笑 なりたくねえよ、という。モノじゃねえんだぞこちとら。kbyshwtn.icon
まああと僕は実存主義的な考え方が発想しやすいだけ、みたいなのもある。馴染んでいるので。kbyshwtn.icon
経験としてはまあノザキの言う事は普通に分かる。ただ「湧き出ているように見える」のではなく、「湧き出た形容し難い自己肯定」に「形容詞(や経験、設計)」が引っ付いてくる、みたいな感覚はあるかも。
人間は生きているだけで偉い、みたいなのも別にピュアな自己肯定だとは思わないというかね。「てにをはをつけるまでもなく私」がまずあって、そこに生きるとか、仕事ができるとか、信念があるとか、まあ色々ひっついてくる。
この辺の感覚は人によって180度違いうる気もしなくはない。
現象学の流れだと基本的に他者は到達し得ないものとして、徹底して自己と線引きされるけど、その前提に立った上で「愛」を言語(と非言語)との関係で分析できる枠組みを提示してるレヴィナスはすごい。大先生や。
レヴィナスの枠組みでいえば、俺は俺で<他者>として「高い」位置から語りかけるしかないとしても、それを「気遣う」べきであったし、また「愛」を根源的なものとする誤認を正す必要があった。愛は根源的経験ではなく、言語活動とは係わらない他性を受け取る経験(情動的次元への誘惑(エロス)、官能の成就)であり、愛される他者を言語的に把握しようとする行いが、まずもって不可能であることを知るべきであった。 「あなたを愛しています(あるいは愛していません)」という言明は端的に嘘である。愛は他者において表現されるものではない。「今なお、自我が含まない可能性に惹きつけられている」という言明だけが許されている。それが「あなた」である保証は全く無い。
愛に基づく共同体の生活とは、対話相手として現れる他者の情動的次元へと誘惑され、また肉体的官能を受動的に感じる(ことを求めるために愛撫する)ことを、何の保証もないままに続けることであり、その意味で言語の彼方であり手前であることを肯定することなのかもしれない。
現実問題、共同体としての生がすべて愛に満たされるということはないので、対話と愛のバランスということになるが、対話の位相においては、両者に無限責任が生じている(気遣うとはこれのことだと思う)。両者ともに相手を危険に晒すことができる(既にさらされている、という方が正しい)。ただ責任と引き換えに、双方の自我は全体性の秩序(飽和)から逃れ、変様のきっかけを既に得ているという望みもある。この変様は「あなたの言葉で変わる」という性格はしていない。理解することなく変わるという性格をしている。レヴィナス語では「応答」と翻訳されてるけど、充満した可能性の外(理解の外)において責任を伴う形で起こる自我の変様は、感応と言い表す方が正しいような気もする。 寂しさとかってどう説明されるんだろう