マイノリティの擁護
マイノリティの擁護kbyshwtn.icon
二項対立におけるマイノリティ側の項をつい無批判に高く評価することの是非について考えてみてもいいのかもしれない。
タイトルとしてわかりやすいから擁護としたが、問題にしたいのはむしろ擁護する意図もなく無意識的にマイノリティ側の形容詞をポジティブな文脈で使用したり、脱構築的態度を取ったりすることの是非かも。 または脱構築それ自体の是非。
前者だとLo-fiでいいね、ノイジーでいいね、とか。後者は「〇〇を解体する」「揺るがす」みたいな手つきとして表出するだろうか。
マイノリティの戦略としては概ねそれでいいと思うのだが、戦略論の水準じゃない場合はどうか。
戦略論の水準でも、多かれ少なかれ強い項に身を置くことで自己実現のための安全領域を確保しているということもある。
ほしいのが権利ならばマイノリティ擁護の戦略は重要。
ほしいのがワールドオーダーなら?
統治されない状態に耐えることもまた人間にとって不可能なことなのでは?という根本的な人間観があるかもしれんkbyshwtn.icon
マトリョーシカ状に再生産され続ける支配-従属の関係を解体する努力には肯定的だし、その後に独裁に陥らずに新たな内発的かつ分散的な、権力なき有機的なシステムとしての秩序みたいなもの(いうならば「むきだしの自然」)が現れるべきだ(現れてほしい)、みたいな発想はあるが、それがアナキズムなのかはよくわからん。人間は内発的な自己に統治されることができるが、それは凄まじいトレーニング(脱構築と創造の繰り返し)を必要とするので若いうちからできると思うな、と思ってるのかもしれん。人類総哲人化計画。
正味僕は「内発的な自己に統治される人間」の出現にあまり期待していない。
ほしいのがニュータイプ化(あるいはニュータイプとの共生社会)なら?