エロスの現象学
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エロスの現象学の主題
超越という形而上学的出来事、すなわち〈他人〉(Autrui)を迎え入れること、歓待ないし〈欲望〉と言語活動(langage)は、愛として成就するのではない。しかし対話による超越は愛と結びついている。われわれが示そうとするのは、いかにして超越が、愛によって言語活動より 先に進むと同時に言語活動と同じ水準には達しないかということである」(TI 284)。 対話(discours)による関係と愛(amour)による関係の区別と結び付き。
愛による超越が対話による超越よりもさらに遠くに進むと同時に対話の手前にとどまること、つまり他人との対話の「手前と彼方」(TI 285)に位置すること、 自我の主題化や概念化に先立つ他人の他性(〈他者〉)との、対話より直接的な係わりこそ、愛において問題とされ、対象の知覚や所有に比してより根源的な経験とみなされるという前提……ジャニコーが問題視しているのは、まさにこの前提なのである……どうしてこの検証不可能な前提から出発した「現れざるものの現象学」が「現象学を乗り越えている」とか、「志向性の分析によって記述される経験よりも根源的な経験を問題化している」などと主張しうるのかということだ(TT 73)。筆者は、ジャニコーのこの素朴な疑問を共有する。 レヴィナスにとっての「真理という経験」は「対面」と「弁明」を必要とする、歴史には汲み尽くされないもの。 『全体性と無限』第三部「顔と外部性」で、まったく新たなものを知るという経験(TI 242)、レヴィナスが「真理」と呼ぶ経験(TI 272; cf. TI 55-56)の成立に必要な二つの契機が解明される。すなわち、対話者が自我の知りえなかったものとして(「顔」(visage)という仕方で)現れる対面という契機と(TI 227-228)、この対話者に向けて自我が自ら正当化すべき言明を語る弁明(apologie)という契機である(TI 268)。第三部最終節「意欲の真理」で、弁明における自我は特定の他人に向けた言明の帰責主体となる限りで、他の人々と取り換え不可能な特異性を有し(TI 275)、人称的な観点を欠いた記述(レヴィナスが「歴史」と呼ぶもの)には汲み尽くされないと主張される(TI 272-274)。 「愛」と「対話」の区別
レヴィナスにとって「愛」とは、他人の人格にも、事物や抽象的なものにでも向けられるもの。特に事物や概念への愛は「対象との係わりそれ自体を楽しむ享受(jouissance)」とみなされうるが、かといって享受としての愛とそうじゃない愛の「2つの愛」があるわけではない。そういう道徳的言明をレヴィナスは狙っていない。
レヴィナスの関心は本質分析であり、ここでは「愛に固有の曖昧さ」が析出される。
「愛が意味するのは〔愛の対象が何かを〕探る主導権をもつ前に自分が結びつけられてしまっているものを探求する運動である〔…〕」(TI 284-285)。愛するということは、愛する理由を見出したうえで意図的になされることではなく、自分が自覚する前にすでに惹きつけられてしまっているものを探し求める運動である。
……愛の場合、自我を惹きつけるものは、自我によるいかなる理解も方向づけず曖昧なままにとどまる。「愛される女性の顔は、〔…〕秘密を表現することがない。それは表現することをやめる、あるいはお望みなら、表現することへのこの拒否だけを、対話のこの終焉だけを表現しているともいえよう〔…〕」(TI 291)。対話者としての他人が、自我による一方的な把握に先立って、理解されるべき意味を自我に与える(「表現する」)のに対して、愛される者としての他人は、何も表現することなく自我を惹きつけ続ける意味表示しないこと(non-signifiance)のうちにある(TI 292)……レヴィナスは、愛が対話と比べて(〈他者〉に係わる程度という面で)劣っていたり徹底的であったりするのではなく、対話とは端的に異なる他性への係わり(「彼方」)でありかつ享受(「手前」)であると考えていたのだ。
愛という位相における「他人の他性」
自我を(合理化とは無縁な情動的次元へと)魅惑すること
愛において自我を魅了するものは、精神的ないし抽象的なものではなく、他人のエロス的な性格である。この性格は、対話において理解すべきものが自我を魅惑するものへと転化するというしかたで露わになる……ひとたびその言葉に惹きつけられるやいなや、たとえそれを含した当人がそのような含意を否定しようとも、自我はその言葉を合理的に理解するよりも、謎めいたその言葉に情動的に駆り立てられるがままになる。発話が肉体的な活動である以上、それは発話内容の正当化や他人への真摯な向き合いをつねに帰結するのではなく、対話相手の感情に働きかけ、合理化とは無縁な情動的な次元、「真剣さをまったく欠いた次元」(TI 295)へと誘導する可能性を有する。
愛における官能は、自我の瞬間的な快感にではなく、他人の官能や他人の愛を欲することに見出される……レヴィナスが愛撫を「何も把握しないこと」と特徴づけ、愛される者を「対象と顔の彼方に」位置づけたのは、愛撫が愛する者を対象として所有ないし認識したり、対話者として尊重することとは根本的に異なり、他人の愛や官能を探し求めることに存するからだ。
第一に官能は志向(intention)ではない(TI 302)。というのも官能は自我が何らかの対象を目指すことによってではなく、他人が自我を愛し官能を覚えてくれることによってのみ成就されるからだ。それゆえ官能において、自我は自らの可能性によって何かを把握するのではなく、他人の愛や官能を受動的に感じる(TI 302-303)。愛が自我の諸可能性の「飽和状態」からの解放(TI 303)、すなわち自我の可能性に含まれないもの(他人の愛や官能)への希求と、自我とは根本的に異なるもの(「子」)への変化を可能にするというレヴィナスの主張はこうした分析にもとづいている。
2つの性格を統合すると↓となり、これがレヴィナスが根本的な自我の変様に「生殖」を求める理由でもある。 愛は他人の情動を欲し、他人の他性を「感じる」というしかたで、情動的な自己(soi, TI 303)の変様に身を委ねることと解されているのだ。
生殖とは、自我が自らの可能性に含まれないものを愛し求めることで、自我の可能性の現実化ではない「子」として生まれ変わること、「自我の死を含みこむような、子のうちに蘇ること(résurrection)」(TI 50)と定義される。
なぜ対話だけでは駄目なのか、愛は対話で達成されないのか。
「なぜ{他人との対話だけでなく}さらに愛と生殖が必要とされ、それが対話の「彼方」と呼ばれねばならないのか。」
対話に関わるのが「他人」だとすれば、愛は「他者」と係る。
対話において〈他人〉があくまで理解されるべき者(自我の理解の枠組みを問い直す者)として現れるのに対して、愛において自我を魅惑し自我を変様させる〈他者〉は感じられるのみである。愛される〈他者〉が「把握不可能」であるのは、愛が日常的経験を超越した根源的な経験だからではなく、愛が言語活動とは係わらない形で他人の他性を受け取る経験だからだ。
わ、わかる~~~~~~~~~~
他人と他者の区別についての筆者別稿があるらしい。後でチェック。