『テクノロジーって何だろう? 〈未完了相〉で出会い直すための手引き』
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単行本 – 2025/9/18
はじめに
著者は、かつて電子楽器メーカーでエンジニアとして製品開発に携わり、その後、アートとテクノロジーが交差する領域「メディアアート」の教育機関で教育・研究に関わってきました。
マジかKai.icon
この本では、「人間が世代を超えて継承し構築してきた技術の、現在における地形がテクノロジーである」と捉え、それをより善いものへと少しずつ変容させていくためのやり方を模索します。
第一章 大文字のテクノロジー:「テクノロジー」なるものとはそもそも何かをめぐる言説 テクノロジーは人間身体の各種器官が外に投影されたものだとする器官投影という概念を示す。 技術の取り扱い
技術は目的のための中立的手段であるとする考え方。一般的。
決定論(一方が他方を決定する構造)
技術が社会のあり方を決定するという考え方。
馬具のあぶみが可能にした馬上刺突戦のような戦法によって新たな戦士集団が必要になり、その集団に見合う貴族階級の社会や文化が生まれた。
社会が技術のあり方を決定するという考え方。
ノエル・ペリン
日本において鉄砲は約100年間に渡って広く用いられたが、徳川幕府の天下統一後に制限され衰退した。
わたしたちの現在の世界は技術によって織りなされた世界である。
決定論という枠組み批判から、技術の成立・実現過程に着目。
技術の実現過程は、決して科学理論の応用といった一元的論理のみによって進むわけではなく、そのつど生じる具体的問題を解決しなければならない「創造的過程」である。
初期のペニファージングはヴィクトリア風の慣習に合致したものの、19世紀末からの女性解放の流れには逆らう機能と構造だった。
ローソンの自転車は前輪と後輪の大きさがほぼ同じでチェーンを使っていたが、商業的には成功せず。
安全自転車は前輪と後輪が同じ大きさで足がつく高さ、のちに空気タイヤが採用されて女性解放運動の象徴としての自転車となった。
村田の分析
自転車の形成過程は中立的な意味での手段としての自転車のみに関係しているのではなく、自転車に乗ることの意味や価値に関係している。(⋯)少なくとも、技術の成立過程では、技術的製品は、さまざまな要因に対して閉じられてはおらず、開かれた「解釈の柔軟性」を備えていると考えることができる。(村田『技術の哲学』194)
この報告がきっかけでSCOT:Social Construction of Technologyと呼ばれる領域が誕生。 第一節 総かり立て体制──古代技術と近代技術の対比からテクノロジーの本質を問う
ハイデガー「技術時代の芸術」
古代ギリシアにおける技術(テクネー)は手作業的なことやそれをできるということを示すだけではなく、高次の技芸や造形芸術も表す制作(ポイエーシス)に属するが、産業革命以降のテクノロジーはすべてを挑発して徴用し、駆り立てる体制が本質である。
挑発してかり立てる働きである現代技術とは、単なる人間の行いなどではありません。人間を取り集めては、おのずと〈顕現〉するものを徴用物資として徴用して立てるようにさせる、かの挑発する要求のことを「総かり立て体制」と呼びます。
AIの総駆り立て体制
ケイト・クロフォード『AIの地勢図』
AIの非物質的で脱身体化されたイメージを覆し、AIを「抽出的産業」として描く地勢図を提示。
レアメタルやレアアース、冷却水などの地球からの抽出
低賃金でデータセット作成や運用のためのクラウドソーシングで駆り出される労働力の抽出
ディープラーニングにおいて必要となる大量のデータのために行われるデータの恣意的な整備と占有の問題
ハイデガーはここで、「技術」の全面的な拒否でもなく、かといって「技術」に対する単なる追従でもないような第三の可能性を提示する。「われわれはたしかに技術的対称を使用しながら、しかし同時に、その適切な使用にもかかわらず、技術的対称をいつでも手放すという仕方で技術的対象から自由になることができます」(GA16,526f.)。
われわれは技術的対象の不可避の使用に対しては『然り』ということができ、また同時にわれわれは技術的対象が我々を独占的に酷使し、そのようにしてわれわれの本質を歪めてかき乱し、ついには交配させることをそれら技術的対象に拒むという意味で『否』ということができます(GA16, 527)。
ハイデガーはここで述べられているような、「技術的世界に対して同時に『然り』と『否』と言う態度」を「ものへの放下(Gelassenheit zu den Dingen)」と名づけている。(轟『ハイデガーの哲学』455-456)
総駆り立て体制というテクノロジーによる「技術的開示」の無理強いの避け難さを冷静に見極めることによって「ものへの放下」という態度を取ることができる。
ここよくわからんかもKai.icon
第二節 技術的対象──人間と自然を媒介する第三の存在者に着目する
技術と人間の対立ではなく人間と自然を媒介する存在として技術を位置づける。
「関係の実在論」が根底であると宇佐美達郎は指摘。
実体→関係性の順ではなく関係性→実体の順で生成されると述べる。
『個体化の哲学――形相と情報の概念から手がかりに』内の概念〈変換〉トランスダクション
私たちはトランスダクションによって、物理学的で、生物学的で、心理的で、社会的な一つの働きを意味する。それは、それによって或る活動がある領域内で、その領域のここかしこで行われている構造化に基づいて少しずつ伝搬していくような働きである。構成された各構造区域は後続の区域にとって構成原理の役割を果たす。それゆえ変化はかくして、構造化することの働きと同時に漸次的に拡がってゆく。(シモンドン『個体化の哲学』111)
これはめちゃくちゃわかる。Kai.icon
〈技術的対象〉
技術的対象とは、人間的なものと自然的なものとの安定的な根成体なのであって、人間的なものと自然的なものとを含んでいるのである。技術的対象は、その人間的な内容に自然物の構造と類似した構造を与えるのであり、そしてこの人間的現実を自然的因果の世界のうちに編入できるようにする。
要素は部品、個体は自立した機械、総体は複数の技術的個体と環境の関係性の全体と水準を切り分けて分析。
「具体化」のプロセス
技術的対象が抽象的・分離的な状態からより統合的・多機能的な状態になる過程を指す。
はじめから具体的である自然物に対して技術的対象は具体化へと向かう。
ギャンバルタービンの詳細な分析。水圧管内に発電機を設置するという問題と、それを可能にする冷却システムという題が循環的かつ同時的に解決されている点を称揚。
第三節 エピメテウスの過失──起源における欠如への補綴として技術を位置付ける
人間は技術に対して常に遅れる。
プロメウスは「前もって―考える者」、先見の明の語源であり未来を先取る存在。技術による人間の自然支配を語る際に繰り返し参照されている。
エピメテウスは「後から―考える者」、後知恵の語源であり軽率さと後悔を象徴する存在。
技術に対して遅れをとり、予期せぬ結果に翻弄されながらも、それに依存せざるを得ない人間の在り方。
プロメテウス的技術観に対して、エピスメテウス的技術観を示す。
プロメテウスとエピメテウスの神話、人間の起源における盗みと忘却という二重の欠如 二重の過失――忘却、そして窃盗――の結果たる人間は、未成熟の動物として裸のままである。毛皮も防備もなく、先走り、先行としてでありながら、また、あまりにも遅く到来する(すべての性質が既に分配されており、もはや残っていない)。その未成熟のために必要とされ、また、技術的なものから生まれる政治術もいまだ有していない。しかし、この「いまだない」というのは、二重星、十全な起源とそれにつづく転落の時間があるという意味ではない。起源には過失しかなく、それはまさに起源の欠失、欠失としての起源がある。消失の出現しかなかったのだ。すべては一挙に生じたのである。(スティグレール『技術と時間1』272)
ハイデガー的な道具存在の問題系を受け継ぎつつ、「前―定立」という時間構造を用いて技術を捉え直す。 人間はあらかじめ世界に存在している前―定立のネットワークに遅れて参入し、それを通じて未来を構成していく。
前―定立=補綴。技術は外部に置かれつつも人間を構成する不可欠なものであるという位置づけ。 技術の進化論的理解
人間の脳の容積増大を起点とする進化論ではなく、直立二足歩行によって脳の容積が増大したという進化論。 第三の存在者としての技術
技術的対象には、単なる物質の塊とは済ませられない歴史性がある。技術存在は自らの収斂と適応によって進化する、第三の存在者である。 人間との関係においても、前―定立的に存在し記憶を取り入れる内在化の対象であるとともに、そこに記憶を投射する外在化の対象でもある。(第三次過去把持) 技術的対象による記憶の外在化が人間の意識の時間性そのものを構成している。
第四節 宇宙技芸と技術多様性──土地に根差した技術に着目し多元的に立て直す 道具は人間の延長であり有機的な関係を結べるが、機械は自立した機械であり有機的な関係を結べない。機械を有機的にする技術の必要性を述べる。
ユク・ホイはそれももはや今となっては不可能でしょという立場。 三木の死後に発展
ウィーナーやウィーバーはサイバネティクスを人間の人間的な利用を意図していたが実際は人間の非人間的な利用を招いた。 注におけるテクノロジーそのものの相対化
技術(テクニクス):あらゆるかたちの制作や実践の一般的なカテゴリー
すべての体系を意味する広い概念であると同時にコミュニティや地域、文化圏においてローカルであり多様である。
テクネー:技術のギリシア的な概念であり、ハイデガーがポイエーシス――あるいはこちらへと―前へと―もたらすこと――と理解しているものを指す テクノロジー:ヨーロッパの近代に起こり、絶えず増大し続ける自動化へと発展してゆき、その結果ハイデガーの言う〈総かり立て体制〉を導いた根本的な転回を指す 現代の科学においては学問知(エピステーメー)と技術知(テクネー)が一体化している。見ること(テオーリア)と作ること(ポイエーシス)が別物ではなくなっている。見ることは「作って―見る」こととなっている。 これは近代の科学「革命」であったが、起こった革命は前提となる。職人的熟練を哲学的探究と一緒くたにすることは伝統的に非学問的混同とされてきたものであった。
p63 ホイは、「宇宙」という接頭辞に「宇宙論が技術に原動力を与え、その条件を規定すること、そして技術が宇宙と人間世界の道徳のあいだを媒介する」という意味を持たせ、「典型的な唯物論的アプローチを超え」た「より豊かな技術の概念」として宇宙技芸を位置づけます。 元々は器であることに加えてその道(真価を発揮する使い方のようなもの)が合わさった道器合一が必要であった。
思想家の李三虎を参照し、西洋の文化と直面することで、器が道より重要とみなされるようになったことを説明。 器を西洋のテクノロジーにすり替えること
道と器を西洋の理論とテクノロジーにすり替えること
これらによって道器合一を最高の境地とする宇宙技芸から遠いものとなってしまった。 テクノロジーそのものが普遍的で、文化的な多様性のみが言われる前提を批判。テクノロジーそのものの根本的な多様性を考える。
世界の各地域にはそれぞれ独自の宇宙論があるというホイの前提。
私がこの概念を宇宙技芸とよんでいるのは「宇宙」は宇宙空間ではなく地域性を示すと確信しているからだ。すべての文化はそれぞれの宇宙論を持っている。それは各地域の地理や人々の想像力の産物である。
宇宙論と土地の独自の起源を求めようとする故郷回帰的な考え方は全く異なる。
京都学派が標榜した「近代の超克」のような「形而上学ファシズム」につながる危険性がある。 ユク・ホイは思想の形としてマーク・フィッシャーとかに近い気がする。時代的なものなのかな。Kai.icon 第一章のまとめ
第二章 小文字の諸テクノロジー:個別具体のテクノロジーをめぐる経験の記述を重視する言説 第一節 ポスト現象学──人間と世界の媒介項を複数の関係性と多重の安定性で捉える 「人間―テクノロジー―世界」の4つの関係
フッサールは数学化されうるもの以外を捨象したガリレオを批判するが、そこにはテクノロジーの身体化についての視点が欠けている。
(ガリレオ―望遠鏡)→月
→:志向性(自らを超えて指し示すという意識に固有の特徴を表す一般的な述語) ガリレオは望遠鏡というテクノロジーによって拡張された身体で世界を知覚することができた。
人間がテクノロジーを身体化し、その新たな志向性が世界に向かうという関係を身体諸関係と名付けた。
(人間―テクノロジー)→世界
光学望遠鏡から電波望遠鏡への変化。光学望遠鏡においては類質同像であったが、星の分光画像はもはや星に似ていない。 観測者→(電波望遠鏡―天体)
ここで言う解釈学、単なる解釈、テクスト解釈の両方の文脈を汲み、テクノロジー的な文脈における特別な解釈行為を意味するもの。 人間→(テクノロジー―世界)
テクノロジーによる変換機能のこと。
断層撮影法によるコンピューターは解釈学的機器と言える。
ATMでお金を下ろす、自動券売機で乗車券を買うなどテクノロジー自体が目的となる関係。
人間→テクノロジー―(―世界)
冷暖房機など半自動家電が自動でオン/オフするような、テクノロジーは知覚のための文脈を形成する関係。
関係の連続性
ピアノは人間の声を模倣するわけではなく解釈学的な性格を持つが、演奏される段になると演奏者の表現と一体化する身体化諸関係に移行する。
The Hallway
線画の図形は見方によって廊下にもピラミッドにも見える。
ウィトゲンシュタインのアヒルみたいなやつKai.icon
「弓」を一つとっても物質性、身体技術、歴史的な役割の観点から単一の存在として定義することは不可能である。
代わりに、さまざまな社会文化実践や習慣化された形態に沿うようにさまざまは方法で設計されている。
アイディを批判的に継承
超音波画像診断の例
妊娠期間中でのダウン症推測は、利用するしないに関わらず、胎児を潜在的な患者として構成し、妊娠という経験を医療や選択のプロセスに変化させる。
テクノロジー中立じゃなくない!?という話。
アイディの関係性分析だけでは、志向性の多様な形態がブラックボックス化されてしまう傾向があるという批判。
ペースメーカー、人工内耳など、人間とテクノロジーがハイブリッドならやり方で世界に向かう存在者を形成する関係。
(人間/テクノロジー)→世界
テクノロジーが環境と融合してハイブリッドになり、人間がその環境を知覚ひ、行動するという関係。
睡眠を分析しアドバイスをするスマートウォッチ。
人間⇔テクノロジー/世界
録音機での録音など、テクノロジーが「それ自体にとっての」世界に向かっている志向性と、それによって生じるものに向かっている人間の志向性の合成。
人間→(テクノロジー→世界)
ガダマーの循環的な解釈原理とアイディの解釈学を統合。 人間、テクノロジー、社会文化的世界の3つが相互に関連しあった動的で循環的な関係性の中で意味が共同生産、再解釈される過程を表現。
対象のテクノロジーの可能な安定性を特定し、それらの特徴を対比させる。
ベンチには座るためのものとして使う安定性の寝るためのものとしての安定性があることを特定した上で、寝ることのみを阻害するように仕立てられているかを分析できる。
第二節 道徳的媒介──人間の道徳的行為を媒介する非人間の存在者を設計する
ポスト現象学への批判
テクノロジーを「私たちがテクノロジーとして使用したり見たりするもの」に限定することで大文字のテクノロジーをスルーしている。
経験的転回と言われているが、他の学問でも同じような議論見た気がする。Kai.icon
しかし、テクノロジーと社会の分離を再び導入してしまっている例もある。
人間のみが行為性を持てるという伝統的な倫理学の枠組みでは、テクノロジーによって誘導された人間行動は道徳的行為の範囲から除外されてしまう。 ポスト現象学の媒介理論によるアクターネットワーク理論の読み直し概念。
テクノロジーは道徳的媒介項である。
テクノロジーの道徳的役割は能動的かつ関係的である。
技術に同行する倫理
設計者と使用者に関与する必要がある。
特定の技術が人間の実存において果たす媒介的役割の分析と技術的媒介との間に倫理的な関係性を築くことが求められる。
主要な仕事は、使用者と設計者が技術の社会的文化的影響の質を理解し、予見し、評価するための適切や枠組みを設定することである。
経験的転回と倫理的転回の統合が必要。
第三節 サイボーグ−テクノロジー諸関係の哲学──テクノロジーとの境界線をサイボーグの生きられた経験から問い直す 障害学とテクノロジー倫理の研究者で自身も障害の当事者 フェルベークのサイボーグ論や、テクノロジーを使うものは誰しもサイボーグであるというような主張に対して、適切にサイボーグを説明できるのはサイボーグ自身だけであると主張。
p103 シューとアールの指摘で重要なのは、テクノロジーの設計者が想定するような特定の場面での一階的な最適化とは異なり、サイボーグは変化し続ける身体状況と変化し続けるテクノロジーとの関係を、連続する時間の中で生き続けているということです。
テクノロジーが不在であってもサイボーグがそのテクノロジーと持続的な感情的関係を維持することが重要な要素。
トライボーグとは、自分たちがサイボーグでありたいと願う人たちのことである。その人々は、テクノ楽観主義的なレンズで障害や老化の「問題」を「解決」することを目的とするものとして「ハイテク」テクノロジーを見て、売り込む。(Shew and Earle, "Cyborg-Technology Relations,"4)
正常性や生産性を基準に人々の価値を決めつけ、その基準から外れる人々を劣った存在として存在として扱う差別的なシステムを支える考え方。
既存の社会構造を変えることを考えずに障害のある人々が一方的に適応することが前景化してしまうことが、インクルーシブな社会についての議論でも生まれがち。
本当のリスペクトある態度は自分が変わる可能性を引き受けて人と関わることだと思う。Kai.icon
現象学やポスト現象学は根本的に認識論的な枠組みである点に限界がある。
サイボーグは存在論的、政治的、倫理的なカテゴリーである。ペースメーカーはサイボーグというカテゴリーを生み出す構成要素である。
われわれは、テクノエイブリズムという言葉を使って、障害関連の文献で確認されている現象を表現している。つまり、障害者の学者や活動家が、障害者がしばしばデザインの単なる対象であり、周囲を取り囲むようにデザインされ、非障害者の支援者を称賛する物語の中で使われることを認識し、非難しているのである[⋯]。テクノエイブリズムとは、障害者とテクノロジーに関する物語、つまりサイボーグに関する物語を表現する方法である。それらは、テクノロジーに関する非障害者の「専門家」からもたらされるのだが、その専門家は、多くの場合、コミュニティに根ざした障害横断的な深い知識を持ち合わせておらず、その人たちの研究対象である障害者がその中で生きざるを得ないスティグマや構造に関する重要な知識を欠いている。テクノエイブリズムは、障害者の声を覆い隠し、障害者でない支援者を真の専門家として持ち上げてしまう。障害者に「力を与える(empowering)」という枠組みを持つ多くのアプローチでさえ、テクノエイブリズムに染まっている!その根底には、障害者はテクノロジーや支援者によって力を与えられる必要があるという前提がある。障害者がテクノロジーを拒否したり、何かを試してみることに適切な意欲や感謝を示さなかったりすることなどあり得ない!その人達は、時間や配慮や包摂を受ける価値があるほどには努力していない、あるいは普通になりたいとは思っていない、悪い障害者だというレッテルを貼られてしまうのだ[⋯]。テクノエイブリズムは、包摂(inclusion)に値札をつけさせる。あなたは、私たちが約束するものに憧れ、それを買い求めることで、このテクノロジー社会における消費者としての役割をはたさなければならない、と。(Shew and Earle, "Cyborg-Technology Relations," 5)
大事すぎて長い引用をそのまま孫引用してしまった。Kai.icon
人を舐めないということの真髄だ。
障害者は、障害を生み出したり、私たちを壊れた存在にしようとしたりするシステム自体を変え、生き述べるためにテクノサイエンスを使用する。
クリップ・テクノサイエンスの4つの基本原則
1.クリップ・テクノサイエンスは、知る者であり作る者(knowers and makers)としての障害者の営みを中心に据える。
2.クリップ・テクノサイエンスは、摩擦としてのアクセスに本気で取り組む。
3.クリップ・テクノサイエンスは、政治的テクノロジーとしての相互依存に本気で取り組む
4.クリップ・テクノサイエンスは、ディスアビリティ・ジャスティス(Disability Justice)に本気で取り組む
社会的包摂は非サイボーグがサイボーグのためにテクノロジーを開発するものではなくて、非サイボーグがサイボーグと共に、さらにサイボーグみずからがテクノロジーを開発し、改良するものである。
第二章のまとめ
第三章 ベルクソンの哲学:生命論にして時間論にして技術論 テクノロジーの超越論的アプローチと経験的なアプローチを繋ぐキーとしてベルクソンを読む。
第一節 生命論──物質と生命の折り合いによる分岐的な進化
植物→動物→人間のような程度のヒエラルキーではなく、本性の差異で捉える。
〈麻痺〉〈本能〉〈知能〉という3つの傾向。
〈本能〉と〈知能〉
道具をつくり・つかうことを技術であるとするなら、〈本能〉と〈知能〉に共通の能力である。
そのうえで、本能が作る道具は有機的な(組織された)道具であるが、知能が作る道具は無機的な(組織されていない)道具であるという点に違いがある。
工作する人(ホモ・ファベル)として人間を定義。
道具の製作と使用を持つために人間が特別という話ではなく、人間に「なる」、生成の過程がユニークである。
ハイデガーやホイの概念を元に考えられるのは、人間という種の中でのオルタナティブであるが、ベルクソンは生命全体に技術を共有し、人間自体のローカルさとしてのテクノロジーと捉えることで、テクノロジーと人間を同時に相対化することができる。
第二節 時間論―生きられた時間の質的側面を時制ではなくアスペクトで捉える 主観的な時間と客観的な時間の間をつなぐベルクソンの時間論
アスペクト
言語学の用語で未完了相、完了相、完結相が代表的。
私はこの本を読みつつある(未完了相)。私はこの本を読み終えている(完了相)。私はこの本を読んだ(完結相)。
未完了相は過程の内側から描写、完了相は出来事とその後の時間の関係に注目、完了後の状態に注目する。
「マルチ時間スケール」平井靖史『世界は時間でできている』
大きく時間スケールの異なる時間が異なる時間が縦に累積しており階層間の時間スケールギャップによって感覚質や意識が生じるというベルクソン解釈。
そういう話だったんだKai.icon
階層0:瞬間(フェムト秒単位)は物質に対応
階層1:一瞬(数十ミリ秒単位)は感覚質(クオリア)に対応 階層3:人生(数十年単位)は人格質(心・私)に対応 繰り返し水が流れることで水路ができ、自動的に水が流れやすくなるというような働き。
環境との相互作用で会得した行動が、習慣的なレベルに染み付くこと。
環境は受動的に生物に影響を与える静物ではなく、生物と相互に変容する動的なものであると考える。
知覚に関するランドスケープ
生得的ランドスケープ
突然変異と自然淘汰による種レベルのランドスケープ
〈本能〉の傾向が顕在化している生物においてはこのランドスケープが支配的。
後天的ランドスケープ
個体が学習により獲得したランドスケープ
〈知能〉の傾向が顕在化している生物においてはこのランドスケープが支配的。
脳の情報処理に関する理論。知覚、行動、学習という脳のあらゆる機能を、変分自由エネルギーと呼ばれるコスト関数を最小化するための解決策として説明しようとする理論。
好ましい感覚入力が得られているときは小さく、そこから逸脱すると大きくなるサプライズという情報理論的指標の最小化を実現するために、変分自由エネルギーから間接的にサプライズを計算するという説明。
ミクロなスピノザ主義感がある。Kai.icon
生命システムにとっては誤差、不安定性が生存の条件である。そのことから、生物を「誤差を食らうネットワーク」として捉えることを提案。
生命は誤差を喰らい続けることで生きながらえている。一つの層での予測誤差の消費が別の層での消費を可能にする。
日常生活まで拡張すると、予測誤差が最小化されると意識が消えてゾンビ的になっていく。
〈自動的再認〉と〈注意的再認〉
運動記憶によって形成される知覚のランドスケープに基づいて作動するのが自動的再認。
紋切り型の無意識的な再認。類型化できる知覚。
これまでの経験に類型化できない新奇なものに出会ったときに作用するのが注意的再認。
純粋記憶にアクセスすることで能動的に対象を心的イメージとして再構成することができる。
注意的再認は階層1からのボトムアップでも、階層2からのトップダウンでも結果を決定できず、相互作用が必要になる。
ここで〈折り合い〉のための新しい時間領域の出現が必要になり、階層1と階層2の間に未完了相の特性を有する知覚の時間的窓ができる。これが〈知覚の未完了〉。
階層2と階層3の間は〈記憶の未完了〉。
自身の人格を構成するランドスケープからの逸脱、変容が要請される体験へと展開すると〈実存の未完了〉がひらく。
知覚、記憶の未完了はしばらくすると閉じるが、実存の未完了による変容は知覚のランドスケープ自体が変化するため持続する体験になる。
第四節 技術論への展開―ベルクソン哲学に基づく大文字と小文字の折り合いについての試論
大文字のテクノロジーと小文字のテクノロジーの間の未完了相を開くこと。
あるテクノロジーを組織化された道具として扱う(消費エネルギーを最小化する)のではなく、組織化されていない道具として捉うことでテクノロジーを決定論的な相ではなく,未完了相として扱う事ができる。
マルチ時間スケールによるテクノロジー解釈
あるテクノロジーの意味を固定されたものとして扱うと、初めて触れたときの知覚の未完了が開いて終わり。
テクノロジーの意味は自分で決めると遊ぶところから始める場合は、遊んでいるうちに実存の未完了まで移行する。
開発者でなくても、遊びながら新たな意味を見出すことは個人レベルでもできる介入である。
未完了相でテクノロジーと出会うための実践例
問題の定義とその解決策というデザインは、その解決策が新たな問題を呼び起こす事がある。大量生産・大量消費のシステムと結びつくと特に顕著になる。
問題解決ではなく、「問題を提起するデザイン」を行う。
いわゆる「アート」としてキュレーションされることが多く、西洋中心的で特権的な視点に偏りがちであり、実際の文脈から切り離されているという批判もある。 鑑賞者が時間的外部から作品を「眺める」だけでは完結相に陥る危険性がある。
予測符号化理論を集団にまで拡張することで記号が創発される仕組みを統合的に説明しようという試み。
カーネマンの二重課程理論を、マルチ時間スケール解釈で拡張する。 システム1、2に対して、物理的で反射的な行動であるシステム0と社会的で集団的な思考であるシステム3を追加する。
社会集団におけるやりやすさ/やりにくさを決める社会的ランドスケープによって決まる。
ここでは大文字のテクノロジーと小文字のテクノロジーが階層的に接続されたものとなる。
大文字のテクノロジーに関する議論は、テクノロジーという社会的ランドスケープに着目したもの。
小文字の諸テクノロジーに関する議論は、社会的ランドスケープと後天的ランドスケープの間における相互作用。
技術とは、言語などと同様に数千年の時間によって水路づけられていた社会的ランドスケープの一つです。
〈総駆り立て体制〉は資本主義によって水路づけられた社会的ランドスケープである。
システム3をシステム2の時間スケールから見ることで決定論的で静的なものに見える。
第三章のまとめ
設計者による設計のための設計論における不十分さ
設計者が対象の利用者に最適化しすぎると、想定された使い方しかできない狭いテクノロジーとなる。
バスドラにつけたディケイがリック・ルービンをはじめとしたミュージシャンたちに注目され、発明と「なった」
音に幅を持たせるパラメーターとして、ディケイが一番コストがかからなかったという理由で搭載。
完成という言葉が閉じることを示す「作品」に対して楽器はほかの人に開くことができるようになった段階が完成になる。
p185 通常、コンピューターを搭載している電子機器においてインタラクティブというと、入力としてのセンサーと出力としてのアクチュエーターがあり、その間で何らかの情報処理が行われるという構成によって起きることを指します。生物における感覚―運動システムと同様に、機械を外側からみた時に感覚―運動システムに相当するものがあると見做し、そうした感覚―運動システムを備えているものがインタラクティブであるとする見方が一般的でしょう。しかしながら、インタラクションというものは、電源が入ってソフトウェアが動作している状態においてのみ生じるわけではなくて、目の前にそうしたものが在る段階においても生じているのです。それは物質としてランドスケープを構成しており、そのランドスケープとの相互作用があるのです。電子楽器として完成するというのは、固定化してしまうことではなくて、そこから動的にさまざまな過程が生成されていくための準備が整えられた状態だと定義できるかもしれません。
第一節 ポスト現象学の諸概念をベルクソン時間哲学で拡張する
ポスト現象学の〈多重安定性〉〈人間―テクノロジーの諸関係〉概念は、複数性を前提しているが移行には注目されていない。
スチルカメラのコマとコマの間の隙間には名前がないということ
最高のイベントの最高の瞬間は写真に撮られない。何かが起きつつある家庭の内部にいながらそれを外側から眺めるということの矛盾
インスタに上げれないだってカメラじゃ遅すぎる ということかKai.icon
移行の過程に注目されてこなかったという前提を認識し、未完了相を分析・記述・制作する手がかりにする。
テクノエイブリズムとケア
通常の設計における、目的への最適化はケアの現場においては最善とは言えない。
テクノロジーを前にして、多くの人が関わるような状態やテクノロジーとの間に三角関係、あるいはもっと複雑なネットワークが構成されることを促すようなものが求められる。
病気のある人が自律的な個人であると捉え、その個人に対して選択の機会を与えることが最善とする考え方。
ケアのロジックとは対置される。
直線的で分岐的な時間。結果論として評価することが可能である。
対象と距離を持って評価を行う。血糖値測定器、インスリン・ペンなどを正確、不正確、使いやすい、面倒というようにラベリングしていく。
しかししばらく使っていくと自分の一部として対象が癒着してしまい評価は難しくなる。
合理的で一貫した規則のことではなく、ローカルで雑多な実践の中に浮かび上がってくる何らかのまとまりのこと。
「選択は単一のプロセスの中に分岐点を形成するが、ケアすることは、反復しながら、調整しながら、なんどでもいじくってみることだ。それは、予期していなかったねじれや変化を受け入れながら状況の改善を試みることであり、同時になんども、今ここで、改善することに何が伴うのかを問い続けることである。」
非線形的な時間。始める前に目標を定めることが不可能で評価も難しい。
QOLを客観的に評価するのは不可能で、「生きる」という同士の主体としてとして改善のタスクをやっていくしかない。
「われわれ人間」が世界を支配しているという幻想は捨てよう。健常無人とそうでない人を絶えず区別するのはやめよう。事実、コントロールしようという試みが失敗するたびに、不意打ちを受けることになるのだから。かわりに、ケアしよう。世界は――ケアのロジックが思い出させてくれるように――私たちが外部から見て判断を下す何かではない。身体も何もかも、そこに絡み取られているし、参与している。慢性的に――私たちが死ぬ日まで。(モル『ケアのロジック』199-200)
コントロールからケアへと言うのはよく分かる。Kai.icon
ケアのロジックは完結相として外部から観察者として介入するのではなく、未完了相で捉えて時間的内部において参加することの重要性を指摘していると言える。
第三節 完結相・未完了相・完了相の三つ組(トライアド)で捉える
3つのアスペクトからなる構造を「トライアド」として相互関係を規定。 事象の動性を捉える未完了相に対して、完結相と完了相はいずれも(準)静的である。
完了相は、未完了相とのあいだに隔時性をもつが、完結相は必ずしもそうではない。つまり、未完了相と完結相は非隔時的・共時的な事象を指示しうる。
完了相と未完了相は事象を一定の幅をもつものとして呈示するが、完結相は単位性・瞬間性を示す。
AIの例
完結相・過去:企業「A」はテキスト生成AI「B」を開発した。
出来事自体を一つの完結した単位として捉えている。ここでのBは〈組織化された道具〉として静的に現れる。
この相のみで捉えると、規制や利用ガイドラインが中心的課題となる。
完了相・現在:テキスト生成AIの普及により私たちの労働環境は変容してきた。
AIの導入によっての社会的変化に重点を置いている記述。過去のAI普及の影響が現在にも続いているという隔時的な視点を持ちつつ、テクノロジーと社会の関係を歴史的文脈で捉える。事後的に歴史的文脈による評価を行っている。
この相のみで考えると、社会変化への適応策が中心的課題となる。
未完了相・現在:テキスト生成AIの普及により私たちの労働環境は変容しつつある。
進行中の動的な過程に焦点を当て、〈組織化されつつある道具〉として捉える。
この相のみで考えると考えると共進化的な発展プロセスへの参加のあり方が主要な課題となる。
完了相、未完了相の過去
完結相・過去:1990年代後半、グーグル者は検索エンジン「Google」を開発した。
完了相・過去:1990年代後半までに、インターネットの普及により情報アクセスの構造が変容していた。
異なる歴史的時間におけるテクノロジーの累積的影響を捉えることができる。
テクノロジーの連鎖的・重層的な歴史的発展を理解するうえで重要な役割を果たす。
歴史的な隔時性の視点は、過去の技術革新がその後の社会や文化にどのような累積的変容をもたらしたかを考察する際に特に有効。
未完了相・過去:1990年代後半、検索技術は情報の階層構造を再編成しつつあった。
当時進行中だった動的な発展プロセスも含めてて捉えることができる。
内部構造の展開や人間との共進化的関係を歴史的文脈において把握できる。
完結相、未完了相の共時的場合
完結相・現在:この会議で使用しているAIシステムは我々の会話を要約する。
AIの機能を単一の能力として全体的に捉えている。
未完了相・現在:この会議で使用しているAIシステムは、注意機構に基づくトランスフォーマーアーキテクチャを中心とする言語モデルが、プロンプトエンジニアリングによってハルシネーションを抑制しながら、リアルタイムで我々の会話を分析・要約している。
AIシステムの複雑な内部構造に焦点を当てている。
未来系のアスペクト
完結相・未来:2030年に、人間の創作と完全に区別できないレベルの芸術作品を生み出す画像生成AIが登場する。
未来のある時点における画像生成AIの能力を、内部過程を捨象した単一の達成として予測する。
完了相・未来:2035年までには、画像生成AIの普及によって、視覚芸術の創作過程が根本的に再構築されているだろう。
現在から隔たった未来のある時点に至るまでのあいだの社会的影響、構造的変化、概念的枠組みの変容について予測する。
累積的な影響を捉える。
未完了相・未来:今後十年間、画像生成AIはますます多様な美的感覚を学習し、文化的文脈を理解しながら進化し続けるだろう。
未来について何が起こりつつあるだろうかということを考える。
あるテクノロジーの発展の方向性、進化のダイナミクス、継続的改善の道筋を探るうえで重要。
https://gyazo.com/bceaca887770eeb0f39bf2a792863a3f
第四節 遊びながら〈未完了相〉でテクノロジーと出会い直す 遊ぶことは、世界のうちに存在することだ。それは、自分を取り巻いているものを、そして自分が何者であるかを理解する形式であり、他者と関わり合う方法だ。遊びは、人間であることのひとつのモードなのだ。[⋯]わたしは、遊びを、現実や仕事、儀式やスポーツと対置するつもりはない。というのも、遊びはそうしたものすべてに見いだせるものだからだ。遊びは、言語、思想、信仰、理性、神話などと同じように、世界のうちに存在するモードの一種である。(シカール『プレイ・マターズ』14-16)
遊び心は現代のコンピューター時代において、機械の命令に対するある種の抵抗となる。
コンピューターの形式的な構造の命令と仕組みを最大限に重視するようなシステム主導の考え方に対する、カーニバル的な攻撃になる。
個体の後天的ランドスケープは直接的に個体間で共有されることはないが、〈作品〉として表現されることによって、社会的、個人的ランドスケープからの逸脱が間接的に共有される。 -
第五章 実践編:「Art for Well-being」の取り組みから
第一節 Art for Well-beingのはじまり
第二節 初年度の取り組み
第三節 音との新たな出会いを生み出すAI
第四節 とけていくテクノロジーの縁結び
第五節 新井英夫さんインタビュー:とけていくテクノロジーの設計論
おわりに