『かたちは思考する』
p.23
そのうえで私は次のように言う。形象を深々と見ることなく読む者、形象を見ずに済ませる者、見ることの根源的不安に沈まぬ者、形象の論理を注意深く辿ることなく出来合いの言葉に流し込み、既存の言葉のネットワークの中で理解してしまう者たちに対しては、激烈に抵抗しなくてはならない。形象の意味不明瞭なパターンを見ずに飛ばし、既存の言葉との一致点を選択して「解読」することは、社会的に共有された理解の鏡像を形象に映し出すことでしかないからだ。形象の学は、形象をとりまく言葉を、形象自身を通してたえず問い直さなければならない。
マジでnozakimugai.icon
同時に、形象的な思考自体に沈んではいるが、そこから「再び語り出す」時に適切な言語を作れずに既存の言語を安直に使ってしまうみたいなことも結構ありがちな気がする。僕も含め、ここの人たちみなそういう傾向がある気がする。
耳がいてえなkbyshwtn.icon
まあムズいのは確か。
今日英語を喋り続けてて思ったけど、意味がとらえきれなかった会話においては、わかる意味にすがりつきたくなる。
耐え難いんよな、形なき形についての思考は。接地点を「強烈に信じる」ことが一時的にでも求められてしまうから。信仰を持てるのか、という問題に帰着するというか。