言語化
@HasumiSuis: 「好きを言語化する技術」という本が出たときにも思ったけれど、好きは個人の好きに留まらず、社会において好きを発信しなくてはいけないという切迫感がこの社会にあるのだなあと感じた。
好きという個人的な感情が、否応なく社会に引きずり下ろされ、言葉にすることが求められる。
三宅香帆
@Advance_Hacker: 言語化した時点で、実際の脳内の思考を自然言語に投影して、言語化できていない大部分を捨象してしまっているので、「言語化すると情報が減る」というのは厳密に考えても確かに納得がいきますね。
@Shogun_GSP: 自分も同じ考えを持っているので、よく自分が評価されがちな”言語化能力”というものをそもそも自分があまり評価していない
物事を大まかに理解する手段として言語化は役に立つけど、世界は複雑すぎるので言語で捉えきれない領域が存在する 言語化の利便性と限界は意識するようにしてる
いや、シンプルに発話可能性は無限であり、説明されない領域とは存在不可能な領域と同一ではないかcovelto.icon
@ho_anthropos: 『文学国語』の教科書に載っている随筆を今読んでいるのだが、「他人とは共有できない個人的経験を言語化するのが詩人!」という趣旨のもので、私の心の中のWittgensteinが荒ぶっている。「そんな私的言語は、言語ゲームにおいて何の役割も果たし得ない!」と言いたくなる。
自分の言葉
@sitasimiyasui: Xでたまに目にする「言語化すると(言語によって文節される前の)生の感情が殺されてしまう」という思想は言語が既に自己疎外の始まりであるという直観に支えられていると思うが、「感情」はもともと言語によって感じられるものだから、感情から解き放たれないと自己疎外から逃れられないことになる。
@sitasimiyasui: 感情は原理的に反復・共有可能なもので、どういう感情を覚えているのかということはどこまでも他人に理解され得てしまう(第一の悲しみ)。が、にも関わらず肝腎かなめのそれを「私が感じていること」それ自体は語り得ない(第二の悲しみ)。
〈私〉キタコレ
〈無〉の欺瞞だ
こういった言説の底はたいてい以下に由来すると想定している
記号接地を試みていない
謎に例示を避けるなどしている
言及し切ろうとしている
当然誤謬でいい より正確に誤り訂正をしていけばいい
謎に訂正、更新、反証に閉じる
そういった意味で捨象に留まる可能性を考慮すべきだが、必ず捨象が起こるとすることはできない
捨象が起こっていると気付いた時点で表現を試みれば良い
これから言語の機能の欠落だけを導くのが欺瞞的である
暗黙知/個別知主義である
この世界に有る以上すべては秘めることができない