Can Computers Create Art?
2018
2022年のcovelto.iconがこれ読んで書いたなんかテキスト(めっちゃ改訂してる)
私はこのエッセイの内容を「AIの道具化」と「コンピューターによる芸術の強いフィクション性」の二つについての言及と解釈した。
前者について、文中で言及されているように人格を持ち独立して動くようなAIのイメージが蔓延っているが、機械学習の基本的な仕組みと哲学について初歩的な了解があれば、そういった印象は誤謬であるとわかる。
筆者は、過去の芸術分野の技術革新や実際のAIの仕組みに詳細に触れることで具体的かつ丁寧にこのイメージを否定している。この説明に付け加えるのであれば、AIを入力と受け出力を行う関数のモデルであることを強調するのが良いだろう。コンピューターである以上それは関数としての形を逸脱することはないために、今の生活の中で使っている様々なツールと根本的に全く同じであり、とりわけ使用者がその仕組を理解するか否か、あるいはその程度は問題でないということは素朴には理解しにくい。
近代的な機械以前の身近な物理的な道具などほぼすべての事象に関数的な性質が備わっており、それらの出力は時にコンピューターよりも複雑なプロセスを伴う事がある。例えば力学において、因子が過度に複雑で数値的な予測には際限のない精度が必要となる挙動が存在し、それらを扱う学問はカオス力学と呼ばれる。しかしながらそういった途方も無い挙動が宿りうる物理的な道具を、詳細な理解や分析もなく私たちは常用しており、大まかな出力の予測とともに大きな危険なく制御していることから、AIによる対しても同様に、そのメカニズムや学習過程の理解がなくとも扱うことが当然可能であると考えられる。
本文に依るならば、4.5における、非常に複雑になりうるマンデルブロ集合の描画が時間とともに人間にとって斬新でなくなっていくという記述や、ブラシのストロークに対して比較的複雑な出力を持つ水彩画これを具体的に表していると言える。
また、AIのべりすとの開発者も道具としてのAIについてインタビューで語っている。
後者について、筆者が掲げる「芸術とは社会的主体間の相互作用である」という定義(以下、社会的主体説)には若干明確さが欠けているか、あるいは明確すぎることについて指摘したい。
本文中でこの定義が依っているもののうち唯一中立的なのは4.2の「サルの自撮り」をめぐる米国の機関の判断である。この出来事が示すのは「著作権」の発生の否定のみであり、芸術であるか否かについては本来一切関係がない。著作権が保護する対象は芸術と近しいかもしれないが、同一ではないことは自明である。(本文でのこの件に対する言及は余談的であり、中立的な根拠よりも一般的な感覚、そして非人間の作者の前例がないことを強調していることは留意すべきである。) わかるわー
一方で、4.6と4.7においては定義を設けることに対して否定的である。これは著作権に関する判断の引用はもちろん、社会的主体説とも衝突しうる主張である。(先と同様に、社会的主体説は他の定義と異なる上位の性質を持つと読むこともできる。)
以上のように、本文条の内容のみからそれぞれ社会的主体説の定義としての不十分性と過剰性を指摘することが可能である。
現代芸術家の村上隆氏の著書『芸術起業論/芸術闘争論』において、作品自体だけではなくそれに伴う社会的な関係を考慮すべきであるとする主張がある。本書では、作品の取引に使われる金銭を「共通言語的なコミュニケーションツール」と表現している。上の社会的主体説の不安定さを考慮し「相互作用」については金銭の取引が行われるのみで十分であると読み替えるならば、コンピューターにとって芸術活動は、既に行われていると考えられる可能性がある。金銭の手続きの電子化は非常に速いスピードをもって「普及」し、仮想通貨や非代替性トークンの生成と売買を行うbotが無視できない数動作していることは疑いの余地がない。特にNFTの分野では、画像・動画など、十分に表現の媒体となるファイルフォーマットが既に選ばれている。これらの技術が普及し実行され続けて長い時間が経った今、これは明らかに「広く受け入れられた」状態であり、絵画の前でクレジットカードを掲げるロボットのような存在よりも圧倒的に自然な取引がある。同時に、取引を行った以上はエッセイの4.7のように、作品のクオリティは考慮の対象外となることができる。 画像の色相を回転させるだけのフォトショップのアクションでも、子供の落書きとさして変わらない複雑さを持っているように見える。アドビの主任科学者、そして現代美術の歴史に名を残した日本の芸術家の言説に従うならば、コンピューターは今まさに芸術家として活動している。
この締め方と言い回しの散らし方めっちゃ受験英語のパラグラフライティングすぎてダルい
Hertzmann氏の主張はやはり変わっていないそうだ
Software offers technologies for people to make art.
Computers should not be considered artists.
Making and understanding art will change.
Historical technologies provide many useful lessons.
実際変わりようがない
現行のロボットが自己複製を行っていないから生物ではないという論と同じように、あらゆるモデルは未だある程度静的で発展があまりないからアーティストではないという角度での納得も生まれてきています 根幹の部分で言ってることは同じではあるんだが
このあたりの議論は、SaaSであるところに本来の問題があると思っています @_baku89: 創作AI、技術そのものへの反発、適法性への反発、その専有のあり方への反発とがひと括りに語られるの少し解せない(自分がムカつくのは最後の一つだけ) @_baku89: ネット上の創作物がAIエンジニアにとっての公共知であるのと同様に、その公共知を用いて生み出されたweightsそれ自体もまた創作者にとっての公共知という立場 このあり方はかなり筋が通っていますよね
報酬を還元するのではなくweightsを還元するのがいい
そしてサービス側と同様に、アーティストタグでweightから取り出せるレベルの"作風"を謎のモラルの元に占有していたアーティストにも同様の問題があった