声の文化と文字の文化
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どんなもの?
オラリティー(声の文化)とリテラシー(文字の文化)の違いについて探究した本。
『「書く」ことが発明されて、人々の意識が一つの段階から別の段階へとうつりかわったこと、言い換えれば、第一次的な声の文化から文字の文化へと変貌したことは、思考過程、人間の性格、そして社会構造の上に深い変化をもたらした。』
声の文化の9つの特徴
①累加的であり、従属的ではない
「創世記」の原文にはそして(and)が4行の文章の中に9カ所有る。改訂版でwhen,thenなどに改められた。
②累積的であり、分析的ではない
この特徴は、決まり文句によって記憶するということと緊密に結びついている
声の文化の世界で生きる人々は、とりわけ格式張った場での話の中では、兵士と言わず「勇敢な兵士」と言い、「王女」と言わず「美しい王女」と言い、樫の木といわず「頑丈な樫の木」という方を好む。
いったんきまり文句的な表現が結実したら、それをいじらないでおくことが一番である。書くというシステムなしに、思考を分解する、つまり分析するということは極めて危険の大きい作業である。レヴィストロースが一言でうまく表現したように「野生の(すなわち、声の文化に根ざした)精神は全体化する」
③冗長ないし「多弁的」
聞いている方は「not only」を聞き逃しても、「but also」ということばから推して理解を補える。
④保守的ないし伝統主義的
声の文化は繰り返すことでしか記憶できないので、何度も何度も同じことを繰り返し言う。それゆえに精神は極めて伝統主義的で保守的な構えをとる。
⑤人間的な生活世界への密着
書くことは、知識を、生活経験から離れたところで構造化する。そして、洗練された分析的カテゴリーというモノは,そうした書くこと依存している。一方洗練されたカテゴリーを持たない声の文化は、その全ての知識を、人間的な生活世界に多少とも密接に関係づけるようなしかたで概念化し、ことばにしなければならない
⑥闘技的なトーン
ダズンズ(声の文化がまだ支配的なところで育っているアメリカ合衆国やカリブ海諸国などの黒人の男子がしていた遊びで参加者の一方は他方の母親の悪口を言いそれによって相手を打ち負かそうとする)は、他の文化における他の様式をもったことばによる罵り合いと同様本当の喧嘩ではなく、ある芸術形態なのである。
これはつまるところ、MCバトル
⑦感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない
対話の参加的思考に通ずる
⑧恒常性維持的
その語がいまここで用いられている実生活の状況によって統御される。文字の文化の社会はほとんど現在の中で生きており、その現在は、もはや現在との関連がなくなった記憶をすてさることによって、均衡状態あるいは恒常性の内にみずからを保っている。
⑨状況依存的であって、抽象的ではない→若干5個目と被ってる気がする
研究者による三段論法の質問に対して、声の文化で生きる人々は演繹的に思考した回答ではなく、具体的経験に基づいた、質問の想定からはみ出た回答をした。
文字の文化について
書くことは技術である
これまで音の中で発展してきた精緻な構造や指示体系は、その特殊な複雑さそのままに視覚的に記録されうるようになり、さらに、視覚的に記録されることによって、それよりはるかに精緻な構造や指示体系を産出できるようになる
近代科学はラテン語の土壌のうえに成長した。近代科学は書くことと印刷の世界の産物
聴覚優位の世界から視覚優位の世界になった
リストやチャートの広汎な使用は、われわれの高度技術文化では極めてありふれたことだが、このことは単に書くことから生じた結果というより、印刷することが深く内面化されたされたことの結果である。
印刷文化
印刷によってテクストは閉じられたものになった
書くことにより発話と思考は、自分自身以外のなにものにも関わりを持たず、いわば自足したもの、完全なものとして提示される。→これはSNSが普及した現代において、書かれたものが完全なものじゃなくてすぐにフィードバックうけるものになってると思った。炎上とか。
言語とは本質的にテクストであるというこうした言語感覚を印刷は強化する。
教科書というパラダイム
印刷は個人主義を推し進めた
印刷は近代社会を特徴付けるプライバシーの感覚の発達のうえでも重要な因子
静かに書かれたものを読むという感覚が所有権を生み、剽窃への憤りが著作権を生んだ。
印刷文化は「独自性」や「創造性」というロマン主義的な概念を生み出した。
活字以後のエレクトロニクス
書くことから始まり印刷によって強化されたことばと空間の関わりをさらに深めるもの But
エレクトロニクスの技術は、電話、ラジオ、テレビ、さまざまな録音テープによって、われわれを「二次的な声の文化」の時代に引きずりこんだ。
二次的な声の文化は一次的な声文化と似ているようで似ていない。
二次的な声の文化は、根底には文字の文化があり、それによって支えられいる。
集団意識を作り出すという点で共通だがその集団の規模はくらべものにならないほど大きい
また、かつての演説による政治的討論は多分に累加的であり、冗長であり、高度に闘技的なスタイルを保っていたが、今のテレビ討論は聴取は不在で、どんな闘技的な鋭い切っ先も鈍らされている。→この鈍らされた切っ先の鋭さを取り戻すところにカタルシスを感じる点もMCバトルの魅力なのかもしれない笑
そうしたメディアはあのテキストの閉じられているという感覚に支配されている→これがSNSにおいてオープンになったという点でTwitterとかのオープンコミュニケーションは革命な訳か。やっとその文脈が分かった気がする
面白いと思った文章抜粋
「口承文学というおかしな言い方」の章
口承芸術をそっくりそのままの形で、優雅にとまで行かなくても,効果的に思い描くことを可能にする概念が、今日まで一つとして形成されてこなかった
もし口頭伝承や口頭で演じ語られるものにまで文学という述語を適用しようとすれば、かならずや、ひそかに、しかし取り返しのつかないかたちで、これらのものをいわば書かれたものの一変種に還元してしまう。
ことばは、書かれたもののかたちで脳裏に浮かび続ける。そのうえ、書かれたものからことばを切り離すのは、心理的に恐ろしいことである。というのも、文字に慣れた人が言語を操作するときの感覚は、言語を視覚的に変形することと密接に結びついているからである。
語彙集のような道具が言語としての言語に付け加わったのは極めて最近のことだということ、すべての言語は洗練された文法をもっていて、その洗練の度合いをたかめてきたが、そのさい、書かれたものの助けを全く借りずにそれを行ってきたということ、さらに高度技術文化から多少とも離れている言語使用者のほとんどは、常に何らの支障も無く暮らしているが、かれらは、音声を視覚的に変形したものなどなんであれ使ってはいないということ。p39
「声の文化の心理的力学」の章
ことばには魔術的な力があると見なしている事実
ことばは必ず話されるものであり、音として響くものであり、それゆえ力によって発せられるモノだ、という感覚
声の文化は、人間の活動やそれに準じたものから切り離された統計とか、事実とかをほとんど知らないのである。
我々が普通に使っている知能検査の質問は、特別の種類の意識に合わせて仕立てられたものだということ、すなわち、根底のところで文字文化と印刷に条件付けられている「近代的な意識」に合わせて仕立てられたものだということを知能検査の支持者は、認識しなければならない。~こういう質問(3段論法とか概念を問うもの)をする人々は、子どものころからそんな質問をさんざん浴びて生きてきたのである。かれらは、自分達が特殊なルールにしたがっていることに気づいていないのだ。
感想
声の文化も大切にしていきたい。
話すように書く、書くように話す、声から文字へ、文字から声へ、speech as text, text as speech, speech to text, text to speech この辺をもっと言語化して、文字の文化の結晶である卒論で語りたい
Clubhouseとかの音声SNSの大流行は、(巧妙なマーケティングを抜きにして考えると)視覚優位の世界から聴覚優位への回帰とも言えそう
ぼくが、MCバトルが好きな理由は、口頭による当為即妙の知の競い合いに「高度に芸術的で人間的な価値」(p39)を感じ取っていたからだと思った。MCバトルの魅力をあと1時間くらい語りたい。