右兵衛権佐
まず、兵衛とは
兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)、威衛(いえい)、鷹揚(おうよう)。
「鎌倉殿の13人」のときに話題になった「武衛」ですね
頼朝が「佐殿」と呼ばれていたのは、まさにこの「右兵衛権佐」であったことによる
(前略)またこの官職でもっとも著名なのは右兵衛権佐に任じられた源頼朝である。平治の乱の際にこの職に任じられた頼朝は僅か十五日で解官され、20年に及ぶ流人生活を経て平家を倒し、建久元年(1190年)に権大納言に任じられるまでの30年間「前右兵衛権佐」であった。このため、頼朝に仕えた御家人達は頼朝に敬意を払って「佐殿(すけどの)」と呼んだのである。…
兵衛府の所管範囲
大内裏のうち、宣陽門・承明門・陰明門・玄輝門より外側で建春門・建礼門・宜秋門・朔平門の内側を担当。天皇の護衛や内裏内における夜間の宿直も担当するなど六衛府の中でも最も宮廷の中枢部を担当した言わば「親衛隊」的な役割を果たした。また、民衆から選ばれた衛士が反抗して天皇及び内裏を攻撃しないように監視する役目も担っていたともいわれている。行幸などの際には行幸の行列。また、夜間の京内の巡検も担当。
兵衛や近衛には貴族がなって、衛士には民衆がなるわけか
右兵衛督=長官1人、右兵衛佐=次官1人が定員だが、右兵衛佐は定員以上にも増やせる
上級貴族の息子をいいポストに就けたいが、いいポストは全部埋まっている、という状況で、「定員以上に増やしてもいい」という荒業が編み出された
「権」は「仮」という意味
「この人は定員外です」ということは明確になっている
権官を置いてもいいポストは決まっている
兵衛佐には置けるが、兵衛督には置けない
兵衛督にせよ兵衛佐にせよ、いいとこの坊ちゃんが貰えるポストっぽい
なお、佐につづくのは右兵衛大尉/少尉=判官1人ずつ→1人/2人→20人ずつ→25人ずつ、と変遷
20人ずつに増えたときって一体何があったの……?