外縁をなぞる
感覚的に明らかな知識や観念を、言葉というラベルで説明しようとするとき、ぼくはよく「外縁をなぞっている」と思う。
“美しさ”が何から出来ているかを限界まで細かく分けて語るとき、ぼくらは「“美”そのもの」については何一つ語ることが出来ないん。しかし、「“美”が存在する空間の外縁」を緻密になぞることは出来る。
外縁を全て正確になぞって言い表して初めて、「“美”が存在するであろう空白」を伝えることが出来る。
これは正確には“美”そのものは伝えられていない。けど、空白を埋める想像によって美が伝わっている。 これは、カニッツァの三角形が示す、“空白の三角形”を思い起こさせる。
これを促進するためには、意識的に「言葉に付随するニュアンス」とか、そういう「言葉に含まれる、言い表されてない部分」を拾ったり用いたりするのが良いだろうと思っている。
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ところで、これが初めて出てきた文脈では、「外縁をなぞる」はある種否定的な意味をまとっていた。
これを友人に説明しようとしたこともある。その時も外縁をなぞるだけで、ピンときてはくれなかった
「外縁をなぞる」ことで説明するには、いくつかの必要要素がある
緻密であること
近接すること
想像させること
「外縁をなぞるだけ」という表現は、この内のどれか、特に「想像させること」が上手くいっていないということだ。
錯視が起こらず、三角形は見えず、空白に当てはめることが出来ていない。外縁を描けていない。
より精確には、ぼくの言葉がそれらの補助をするに満たないということだ。
こういったとき、僕は外縁をなぞることを失敗している。
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外側を撫でるという表現もした。似た単語だが、ニュアンスが違うように思う。 “撫でる”とは、僕の主体的な行動で、身体が伴っている。かわりに、何かを描くことはしていない感じがする。
どちらかというとネガティブなイメージか?
愛でるような文脈だと、慈しむようなニュアンスがある。