五月病と漠然とした不安
ちょっとネガティブなので閲覧注意。
五月病が襲い来る季節で、メンタルがズタボロになっている。
原因はすでにわかっていて、とある簡単な手続きをすればバッドは終わるだろう
まぁせっかくバッド入ってるのだから普段は真面目に考えられないことを考えてみようか?
ぼくは幸せになりたい
幸せってなんだろうか?
ぼくにとっての幸せは多面的なきがする
楽しく笑っていることはぼくにとって幸せで、あらゆるものごとは笑い飛ばせる限りにおいて素晴らしいものだ。
笑えなくなったらたぶんぼくは死ぬ。
笑うこと、について
“なにもない”“何もできない”というコンプレックスがある。
実際にはぼくは様々なものに手を出している。
それが手元に残っている感覚が一つもない
自己評価が死ぬほど低いから、自分が知っているすべてのことをあらゆる人の常識だと思っている
故にぼくは他者の“持っているもの”“できること”について嫉妬と羨望がある。
自分を肯定的に見ることができない
コイツいつもこれ言ってるな
もはや肯定的に見れないのは習性で性質だから変えようと思わん
せめて肯定的に見れないことを肯定したいと思う
学生時代、部活の目標が“納得して負けること”だった。
ぼくは変わってなくて、全力で努力した上で負けたいと思っている
そうすることで、ぼくはぼくを否定するぼく――アカツキで言えばロン――に、少しだけ認められることができる ぼくは努力がめちゃくちゃに苦手
努力とか、頑張るとか、そういう意識を持った時点で嫌になる
友人と席につくときも、斜め向かいの位置を取りたくなる
この逃避癖はあらゆることにおいて致命的で、全く何も出来なくなる。
とくに、“何もしないこと”が逃避先なのがダメだなぁと思う。
あるが……創作を書くには、一度経験してれば十分なんだよなぁ。
創作がしたい。創作においてぼくはぼくを認めることができる。
創作をする自分――シノ――は、どのような自分からも重要視されている。 彼が泣き出してしまったら、ぼくらは全員焦り、慰めたくなる。
創作がしたい。ぼくはぼくを慰めなくてはならない。
誰かのために書いたものが、自分のことを慰めること。自分のためのものが、誰かを慰めること。そのためには一般化が必要だ。
そして、納得しなければならない。その創作の何かに対して。
泣きそうだけど泣けない。泣けたらどれほど楽だろう。
いつも何かを伝えられない。この悲しみや感覚を伝えるために、この言葉たちは適していない。
ぼくがぼくの感情を認めてもらうのは、死にそうになりながら言語を磨き組み立てなくてはならない。
この悲観はどういう言葉に乗るのだろう。
小説ではないかもしれない。短歌だろうか?詩だろうか。ぼくができる表現の中にあるのだろうか。
小説よりは、自分に近い表現をしたほうがいいのかもしれない。
遠回りしてひねくれた“言いたいこと”のほうが、ぼくは好きだけど。
泣きそうなとき、ぼくは慰められたくない
ぼく以外の誰にもこの感情はわからない
だって、ぼくはこれを伝えていない。伝えきっていない。
伝えきっていないしわかりもしないのに、適当な慰めを吐くな。お前は何もわかっちゃいない。
↑このひとだれに怒ってるんだ
適していない慰めなんかで、この感情が消えてしまうのが、慰められてしまうのが、ぼくには耐えられず、納得がいかない。
もしぼくが慰められるのなら、例えば、「百万人のために歌われたラブソング」のようなものに。
あるいは、「君が歌う君のためのラララ」とか。そういうたぐいのもの。
才悩人応援歌聞くか……