2023/12/23
表に思考を吐き出すことに抵抗を覚えてきている。一つには音声を摂取しすぎていて、文字で考えるということをしていないからだろうとは思う。
むしろ、僕は思考などしていないのではないか。こうして文字を打っているときも、自動記述的執筆が働いているだけで、「日本語として成り立つ文章」を補完しているだけで、流れに身を任せているだけで、本当は何も考えてなどないのかもしれない 孤独であることはプラスになるのかどうか。
普通に、寒さとかうまく行かなさとかで病み続けている可能性はとても高い。何もやる気は起きないし、人と交流しよう、と考えたときに良いイメージが沸かない。冬の寒さに溶け込めてると思わない。世界との接触ができない。
孤独であるからといって、何かが生みだされることはない。なぜだろう。一人であることは独りであることとは違うからかもしれない。
「一人で生きる」と「独りで生きる」は意味が違う。このページとは文脈が違うが、よく思うことだ。人の中で孤独であることが“独り”で、周りに誰もいないのが“一人”。一人であることは何も辛くはない、なんていうと少し違うけど、少なくとも一人で居ることで何かをしようという意識はほとんど生まれない。なぜなら僕は一人を満たせるものに溺れることが出来て、溺れている限り人のことを必要としないからだ。それらは習慣化されて僕の生活に組み込まれ、「ただ日々を過ごすこと」に特化したルーティンがいくつかのパターンを持って繰り返される。 偽のやりたいことと、ほんとうにやりたいこと。それらでいえば偽のやりたいこととして区分けされるべきもので僕の生活は満たされていて、それを楽しんでいないといえば嘘になるが、「はたして、おまえはほんとうに生きているのか」と聞かれれば、“NO”、生きていない、と答えるほかないだろう。 もっと厳密に言えば――あるいは、浮かんだ言葉をそのまま書くなら――僕は“生きてばかりいる”。死のうとしていない。どう生きるかよりどう死ぬか、ということだ。必死に生きる必要は今のところなく、他人に迷惑をかけつつも生きることは容易く行える。こんな簡単なことを続けていても意味はなく、僕の幸福は訪れない。 幸福とは一体僕にとってなんだろう。すべての一時的快楽を取り払って考えたときに、何が残るのだろう。
このようなことを考えているとだんだんと死にたくなってくる。すべてを投げ出して、「はいはい、もうわかったよ、死ねばいいんだろう、死ねば。」と、拗ねた子どものような感情が顔を出す。いつまで同じことを繰り返せばいいのだろう。記録することもせずにずっと繰り返しているから、どうしようもないままで生きていくことになる。
僕は、過去のことを覚えていない。だから、記録だけが僕の生きてきた証であり、作品ばかりが僕に残るものだろうと思う。言い表し、伝えることは、そのために必要なものだ。僕の現在がどのようになっているか、僕がイメージしているものがどのようなものか。それを、少なくとも僕にだけは伝わる形で言い表さなくてはならない。この至上命題として掲げたものの一側面は、そのようにして語れると思う。「あらゆることを覚えていない未来の僕=他人に対して、すべてが分かるように書かなければならない」。 なぜ書かねばならないのだろう? 別に過去がなくたっていいはずだけど。そうせねば心の安寧が保たれないのだろうか。現在を満たし続けていればそれでいい、という刹那的快楽主義が僕には存在していると思うのだが。……まぁおそらく、こうして“ふとした時に死にたくなる”のを辞めたいのだろうな。……書いてて、本当にそうかはわからない。これもまた、実験的に当てはめてみているだけだ。本質にはずっと辿り着かないし、このような方法でたどりつけるわけがない。 すなわち、僕には自己効力感が足りない。結果の予期がすべて、「失敗」に寄っている。成功できると思ったことはほとんどないんじゃないかな、これまでの人生。気持ちよく負けるために頑張るというのが、一番頑張った思い出だもの。それも仕方がない。そうしてズルズルと時間はなくなってゆく。 22:50
クリスマスが近かったので、豚足を買ってきて食べた。
軟骨の美味しいところだけを食べている感じ。やはり酢味噌は美味しい。ベタベタするのだけが玉に瑕。あと、食べづらいのも。
一個半食べたら、なにかの過剰摂取みたいな症状が出てきた。コラーゲンの過剰摂取??そんなのある?
ほろ酔いクリームソーダ味が美味しかった。