孤独で自我を壊しては交流で自己を取り戻している
前提
そもそもcman.iconは対人演技をめちゃめちゃするタイプである ペルソナが強いともいえる。
ひとりでいるときの自分よりも他者といるときの自分のほうがテンションが高かったり好印象であったりすると思う
インターネット上ではそれをちょっと崩している……と思う
これは他者の目を気にすると何も言えなくなるからである。
しかしそれでもある程度は他者が読む/聞く想定、みたいなのをしている
ぼくは演じるものであり伝えるものなので、誰かに伝えるために書いたり喋ったりして、そのために順序を考えたり話すことを制御したりしている
本題
ふとしたときに、「何も気にせずに喋っていたこと」がとてつもなく恐ろしくなり、「他者から見た自分の印象」がどうしようもなく怖くなる時期が来る
「いい印象を与えよう」という対人演技を忘れ、素の自分に近いものを出し続けて交流していたことがどうしようもなく怖くなって、すべての連絡や対人関係をやめてなげだしたくなる。
これに抗って能動的に交流するには対人演技をやる他なく、ぼくは実のところそういった対人演技が疲れるので嫌いである
しかしながら演技をしないで交流するには勇気も自己肯定感も足りないので、結果として何も交流をしない、というのを選び取ってしまう
交流をすべて断つと、孤独によって自我が崩壊してゆく
そもそも孤独なときでも「伝えるための文章」とか、「伝えるためにどうするか」みたいなことを考えているため、対象がいなくなると『無』になってしまう。
演じるものであり伝えるものである……みたいな自己定義をしているので、自己定義がゆらぎアイデンティティクライシスに陥る
「そもそもぼくってどういう人間だっけ?」となる
自我崩壊が落ち着いたり行き切ったり体調が良くなったりしたときに、交流をまた始める
交流し始めると対象が復活するので、アイデンティティを取り戻し、「そういやぼくってこうだった!」と思い直す
また、だいたいが被害妄想なので、「それほど嫌われてないじゃん!!」みたいなことを確認したりもする。
普通に話せる、ということの偉大さがある
しかし、またどこかのタイミングで嫌になり、すべてを投げ出して孤独に陥る
……みたいなことをずっと続けている。
これを防ぐためには、孤独期に無理やりにでも交流をしたり、交流せずとも反応をもらったり、あるいはなんとかその状態でも無理せず交流できる相手と話したりすることが重要である。
……が、この方法たちはわりと難しい
無理やりに交流することはとてつもない精神への負担が生じる
反応をもらうのは、「反応をねだることへの葛藤」みたいなのがありロックがかかる
無理せず交流できる相手と話すのは、受け身な上、DMで話しかけるのが苦手すぎるのでできないことが多い
そもそもこの時期は『あらゆる人間に嫌われている』とか『誰にも迷惑をかけたくない、嫌われたくない』というのがめちゃめちゃあるので話しかけにいけない……
いや、この時期じゃなくても話しかけにいく、というのは無理だが。普通に。
なのでもうどうしようもねーなーと思いながら大の字になっています。
ちょっとずついろいろなもののハードルを下げてどうにかしていこうというのは思います
が、ちょっと……すぐには無理。
全人類が勝手にぼくに話しかけるようにならねーかな。
無理すぎる
結構これを目指してるところはある