このアカウントは存在しません 桃は剥くとしばらく手から香るから好き
このアカウントは存在しません 桃は剥くとしばらく手から香るから好き
空白で区切られていることから、この二つの文が隣り合うところに意味があり、どのように響き合うのかというところに短歌としての詩情があるとわかる
一見二つの文は無関係だが、並べられている以上は関連するもののはずだから、どこかに通底するような詩情がある
関連性の公理的な
この「え?なんでこの二つが並ぶんだ?」という予想のされなさが、完成された短歌の一つの条件だよなぁというところはある
それぞれについて考えてみる
「このアカウントは存在しません」
これで現代に生きる人が想像するのはSNSアカウントが削除されているという場面
どこか無機質で冷たい感覚がする
デジタルな画面のイメージ。実感というよりも画面上にある視覚のイメージがある
自分はアカウント名もそのアカウントも覚えているけれど、アクセスしてみるとそこには無機質な文が返ってくる
5/7なところが8/8になっていることで、奇妙な違和感のようなものがあり、それが無機質さや冷たさ、そこにあるショックみたいなものを増幅している気がする
「桃は剥くとしばらく手から香るから好き」
作中主体の視点が感じられる
作中主体の視点が感じられるのはここの「好き」という部分だけだが、これがあることによって、歌全体に感慨がかかるような気がする
「剥く」という触覚と、「手から香る」という嗅覚がイメージとして体験される。
嗅覚は特に記憶と関連が深く、場面をありありと想像するような感覚がする
桃というそれそのものの存在を香りによって再現しているような感じがある
そのような感覚のことを「好き」だと言っているのだろうな、と想像できる
音数が6/7/7になっていて、「しばらく手から香るから好き」は非常にスムーズに短歌の韻律に戻ってくる
この収まり方に安心や実感、地に足がついている感覚の増幅がある気がする。
どのように関連しあうか
基本的に、下の句(桃は~)が上の句(このアカウント~)に意味や解像度の高さを付与するような働きをしていると思う
「剥く」という触覚のイメージで、実際に手を動かした感覚が他の部分にも付与される
アカウントを調べたときの手触りみたいなものが付与され、解像度が上がる
桃を剥いて果肉が出るのと同じように、アカウントを調べて、「存在しません」という文章が目の前に現れる
「香る」という嗅覚のイメージが記憶を呼び起こすような作用をしている
桃の香りで桃の形を想像するように、“アカウントが存在しない”という事実によって、SNS上で行ったやりとりや、その人自身のことをより明確に回想しているのかもしれない
下の句全体が持つ感慨の視点は、「このアカウントは存在しません」という文章に対して、“このひとはどう思うのだろうか”と考える導線になっている。
何もなければ、それはただの事実ではあるが、この作中主体は桃がないときにでも「手から香る」ということ≒残り香によって感慨を感じるような人間であることが下の句でわかる
しかも、その「手から香る」ということ自体を、「桃」が好きな理由として上げるような、ある種独特な感慨、価値観、観方をするような人である
“残るもの”に対して感慨を抱く人は、「このアカウントは存在しません」という冷たささえ感じる文章に、どのような思いを抱くのか。
そもそも、どうして、「このアカウントは存在しません」という文を見るような行動(=昔知っていたアカウントの捜索)を始めたのだろうか
これらをどう考えるかというところに各々が一人称で感じる詩情がある
導線として「好き」があるから、対比があってもマイナスに振り切れることはない、というのが良いなぁと思う。
無機質さ、手触りのなさと、生活への密着感、実感が対比として働いているところもありそう。