ひとり空間の都市論 を読んだメモ
全体の感想、どんな本か
都市に住まう若者・単身者主義の住まいの変化を切り口に、ひとり空間を論じる
生活に必要な機能を、自身の部屋に具備するのではなく、都市機能から拝借するという拡張とも呼べる生活様式
“ひとり”という状態を確保する“仕切り”
常時接続社会の実現によって、他者との“仕切り”は、物理的な制約から解き放たれ、いつでもどこでも「見えない仕切り」による「ひとり空間」を立ち上げが可能になった
これによって、商業空間の間仕切りがなくなる逆輸入的な現象まで論じられていてよかった
印象に残ったところ
個室であるか否にかかわらず、何らかの仕切りによって、「ひとり」である状態が確保された空間を、総じて「ひとり空間」と呼ぶことにする。
(位置294 「ひとり空間」が偏在する都市より)
序盤で定義される「ひとり空間」の定義。詳細はこのあと論じられていくわけだが、必ずしも障子や襖、壁といった物理的な仕切り“仕切り”である必要はない。電車内でスマホを介したSNS利用もまた、一つの“仕切り”と捉えている(本書では)。
ジンメルは、たえまなく神経的刺激を受けることによって、都会人は、その刺激に対する対処法とでもいうべき一定の作法を身につけるようになると考えた。一定の作法とは、都市の刺激や変化から距離をとり、没個性的で非人格的な存在として他者と接する態度である。(中略)それは、都市の刺激や変化から自己を守ろうとする自己保存の態度であり、他社に対する無関心や潜在的な敵意などとも結びついた態度でもある。都市において、基本的に人びとは互いに「見知らぬ他者」であり、匿名性を帯びている。では、匿名性をもち、控えめな態度を示し合う人びとは、いかにして互いを信頼足るものとして、都市生活を営んでいるだろうか。ジンメルによれば、それは、「貨幣経済」や「時間的正確さの遵守」という計算可能性によってである。
(位置493 匿名性・精神的な距離・孤独と自由より)
都市における「ひとり」は、自己防衛としての結果。それぞれが「ひとり」ありながらも、都市全体として動く元が何なのか。
子どもは村落では財産と考えられているが、都市では負債となる
(位置536 規模・密度・異質性より)
おひとりさまを実現するための負債をストレートに表現。
多田道太郎は、(中略)皮膚で覆われた身体を、「第一の自分」だとすれば、空間を自分にふさわしいモノで埋めた個室は、自分の拡張・表現で、「第二の自分」であるという。
(位置987 外部からの切断と外部への接続より)
ここでは個室に限定されているが、本書では、「自分の拡張」という概念が「ひとり空間」を理解するために重要だ。
都市における自分の居場所を街全体として見立てれば、物理的な部屋の広さよりも、都市で活動するうえでの移動のしやすさ、すなわち「移動可能性」の方が優先順位が高くなるからだ。
(位置1017 生きらえた矮小の住まいと移動可能性より)
ワンルームの部屋という狭さよりも“移動可能性”のほうが優先順位が高い。具体的な例としては、スーパーを自身の部屋の冷蔵庫の拡張として捉えるのがわかりやすい。生活に必要な機能が、都市の機能として提供され、それでこと足りる。
シェアハウスには、つながりたい時だけ同居人とつながり、ひとりになりたい時は個室にこもるという選択可能性がある。(中略)「ひとりでいる状態」と「他者とともにいる状態」のスイッチング(切り替え)が反映された住宅のあり方といえる。
(位置1128 シェアハウスにおけるスイッチングより)
黒川が構想していた都市的生活様式とは、ひとつの家のなかで完結するものでもなければ、地域のなかで完結するものでもなかった。それは、都市を移動しながら、銭湯、レストラン、娯楽施設など、都市に散在するさまざまな場をネットワーク化して使いこなし、そのネットワークの総体を家として見立てるような生活様式だった。
(位置1254 中銀カプセルタワービルーー移動する生活様式より)
第二章の結論。個人的には本書の結論でもいい考え方だと思った。
日本は、個人が同時に二つ以上の集団・組織に属することが否定的な意味を帯びる「単一社会」である
(位置1433 ウチとソトより)
この感覚は理解できる。一方で、SNSの複垢など二つ以上の集団に属することは自然になってきていると思う。
ただし、古来、家族と会社という二つの組織であったり、親戚や旧友といった複数の集団に属することは自然と行われてきたことだ。“同時に”というのはひとつポイントで、時間的、役割的に同時に属することが否定的な意味合いだろうか。具体例としては副業NGといったところ。
仕切りは、「ある社会において、またある時代において、人々が何を自らの内とし、何を外としたのかを反映している」
(位置1541 仕切りの多層性より)
柏木博の定義だが、端的かつわかりやすい。
ゴッフマンは、このような満員電車への乗車の例のように、集団を取りまく状況に外見上は参加しているように見えながら、自分だけの世界に遊離する行為を「離脱」と呼んだ
(位置1782 モバイル・メディアと離脱より)
現代における“仕切り”は、物理的な制約に縛られない。
SNSでは、「いかに他者とつながるか」から「いかに他者に見られたいか」へと関心が移行し、「見て欲しいようにみてもらっているかどうか不安」な心理状態が先行するようになった。
(位置1833 常時接続社会の接続指向と切断指向より)
“離脱”という切断寄りの話をしていたが、切断には、別の場所(SNSなど)への接続が伴う。SNSにおいては、さらに「つながる」から「どう見られたいか」に話が移る。
深堀りしていないけど、さらざんまいの「つながりたいけどつながれない」を彷彿とさせる。
スマートフォンでは、移動する先々で、いつでもどこでも「見えない仕切り」による「ひとり空間」を立ち上げることができる。そのため、二0一0年代には、「有料・商業空間✕間仕切りあり」から「有料・商業空間✕間仕切りなし」への移行が見られ、間仕切りが消失するようになったのである。
(位置2310 二000年代と二0一0年代の比較より)
これまでの議論のように非物理的な「仕切り」があればよい世界が、現実・物理の世界へ逆流していく。
References