来世でもよろしく
大きめの鶏肉に塩麹と玉ねぎを揉みこんでしばらく置いたものを、ひとり暮らしにしては余るくらいのすこし大きいフライパンにふたつ並べた。ちちち、の小さな音とともに均等な火がぐるりとつく。つまみをそっとひねり、弱火に合わせる。弱火。とろ火でもいい。小さな火をつけて蓋をぴったりと閉めて、ことこととじんわり火を入れていくのが、いちばんきれいに火が通るし、いちばんおいしい。なんだってそうだ。強火なんてやたらめったら使うものではない。焦げつくし、ガス代も高くつく。
達哉はソファにごろりと寝転がって漫画を読んでいる。きっと中身についてはよく理解していない。最近の彼はいつもそうらしい。目が紙の上を滑っていって、頭に入ってこないのだそうだ。きっと疲れていて、娯楽を楽しむだけの余裕が取れないのだと思う。疲れを全身から滲ませている彼を見ていると、なぜだか父を思い出してしまった。
「なあお前さ、いつになったら結婚すんの」
思わず口にすると、紙に目を滑らせていただけの彼がこちらを向いた。目が合って、空気を漏らすようにすこしだけ笑う。
「結婚て」
「いいパパになりそうやん」
「急にどうしてん、そもそも子ども作る前提なんおかしいやろ」
彼はソファに座りなおして、真ん中よりすこし手前のあたりで漫画を開いたまま、机の上に置いた。本に開き癖がついてしまうからやめてほしいが、もうその程度のことを気にするような仲ではなくなってしまった。
「そんなこと言ってお前ぜったい子ども産まれたらめちゃめちゃ溺愛してんで」
「想像つかんわ」
「俺も言っててないんちゃうか思ってきたわ」
「なんやねん」
鶏肉と玉ねぎが熱される甘い匂いにそそられて、安いハイボールの缶を開けた。かしゅ、という軽い音を聞いてか、彼はまっすぐこちらを見て笑った。
「お前そろそろアル中なるで」
「もうなってんねん」
ほとんどソーダ水のように感じられるそれがするすると喉を伝っていく。ノンアルコールの飲み物のようにそれを飲んでいるあいだに、彼はソファから立ち上がり、ベランダに繋がる掃き出し窓を全開にしていた。しゅぼ、と火がつく音がして、すぐに重たい煙のにおいが漂ってきた。彼の口から吐き出されたであろう濁った煙が、ゆっくり時間をかけて外の空気と馴染んでいった。彼はベランダと部屋のあいだあたりに腰を下ろして、煙を体に巻き付けながら笑った。
「この年でアル中とかお前ぜったい早死にするやろなあ」
「チェーンスモーカーに言われたないわ」
フライパンの蓋を開けると、視界が蒸気で白く霞んだ。やわらかい鶏肉をひっくり返す。温かい肉のにおいが、彼の煙草のにおいと混ざる。
「まあ」
彼がゆるりと口を開く。もう一度蓋をして、彼のほうを見る。彼はどこか別のところを見ている。
「俺も早死にするやろうから、結婚とかできひんな」
「ああ、たしかに」
「一生このままなんやろなって気ぃするわ」
そのまま彼はまた煙草をくわえ、大きく吸って、はいた。煙をはきだすときだけ、申し訳程度に体を前のめりにさせていて、おかしい。そんなことをしたとて、もうすでに室内は煙くさいのだから意味はない。
「そしたら来世に期待やな」
そう答えて、飲酒をしない彼の分だけ白米をよそう。スーパーで適当に買ってきた枝豆とチーズの盛り合わせをテーブルに並べる。
「いや、来世もやな、来世もこんな感じや」
「来世もこのままとかほんま世の中終わってんな」
「まあなあ」
返事のしかたがわからなくなって、勢いで二缶目を開ける。レモン味のそれをひと口だけ口に含んで、鶏肉を白い皿にひとつずつ乗せた。付け合わせの野菜などないそれはひどく貧相に見えたが、たちのぼる香りはただただ幸せのしるしのようだった。
「ほら、できたで」
「うわめっちゃうまそうやん」
煙草を灰皿にぐりぐりと押し付けて彼がテーブルにつく。
「なんか、来世もこんなんでもいい気がしてきたわ」
「ちょろすぎるやろ」
残っていたお酒を一気にあおった。来世どころかほんの少し先の未来ですらも信じていないくせに、こういうことをさらりと言う彼のことが、俺はやはり、どうにも好きだった。
「来世もよろしくやで」
鶏肉にフォークをぶすりと刺してかじりつく。
「どうやろな」
その答えを聞いて、彼はまたけらけらと笑った。
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