はちみつ
鈍重な匂いの立ち込める部屋で、ねとりねとりと色を乗せる。筆を置くたびうねうねと表情を変えなかなかに完成しないキャンバスの中のそれに無性に腹が立って、真ん中に大きく黒い丸を描いた。自分の軟弱な精神が絵を完成させたい意志に負けたのだ。敗北の印の黒丸は負けたというのにてらてらと光り、空を描いていた背景と相まって異様な毒々しさを演出していた。
昔からずっとこうだった。なかなか完成品が見られないことが面映ゆくて耐えられず、完成する前に自分から破壊してしまう。完成してから壊しているのであれば今頃悟りでも開けたかもしれないが、未完成のものを壊したところで得るものなど何も無い。誰も完成品など知らないのだから。マグリットの下位互換のような絵が描かれたキャンバスを、どこか目のつかない場所へととりあえずほうった。木と木がかち合う音がして、それはごとりと床に落ちた。
そうしてまたいつものようにぼんやり始まった頭痛に、薬を飲むでもなくただ身を任せた。視界は朦朧に半透明で、目の上にごく薄く漉いた和紙を乗せられているようだ。雲の上を連想したのは、全ての物事の境界がほとんど無いも同然だったからだろう。
無価値だなあと思った。この未完の絵も、それに使われたキャンバスも絵の具も、完成させようと費やすだけ費やした時間も、結局完成させられずにそれを投げ捨てた自分自身も、ただただ無価値だった。
真っ白のはずの部屋はカーテン越しの夕日の色でグレージュに濁り、暖房と絵の具の匂いで淀んだ空気と相まって水底のようだ。プレーヤーから流れてくる女性ボーカルの音楽はもう擦り切れるくらいに部屋を駆け巡り、最早耳の奥にすら届くことなく散っている。シックハウス症候群になりそうな部屋の空気を換気もせず吸い続け、薄汚れた二酸化炭素が濃くなってきた部屋では、どれだけ深い呼吸も吐き気を増長させるだけで意味が無かった。ずるずるとへたりこんだ床の冷たさに縋るように右頬をつけた。寝転がったそこから姿見の下の方に映った自分と目が合う。ありきたりな形のうつろな目が、何かに助けを求めるかのように赤く潤んでいた。
ごろりと向きを変える。あまりに特徴のない照明が天井の真ん中を丸く陣取っている。全てを包み込む水底の感触は天井まで埋め尽くされているようで、空気の澱のようなものに押し潰される感覚を覚えた。喉の奥の方にある酸っぱい異物は唾液で押し込んだ。
もう一度右側に寝転がると、視界の端に投げ捨てたキャンバスが映った。痛みは今もなお波のように寄せては返している。痛みは孤独だ。孤独は音だ。頭の中を細く尖った鉄の棒で力強く引っ掻かきまわされているかの如く鳴る耳鳴りは、一人であればあるほど大きく響く。耳を塞いでみても目を瞑ってみても、声を出してみても変わらない。頭を揺らさないようにただただゆるり深い息を繰り返すほかない。
壁にもたれかかって重い頭を上にあげた。ついさっき淹れたはずのミルクティーに手をやると、その温かさはもうぼんやりとぼやけてしまっていた。持ち上げると、ほわあと蜂蜜の香りが鼻を掠める。
砂糖の甘さが希望だとすれば、蜂蜜の甘さは、どことなくだるい。私たちの倦怠感を受け入れるだけ受け入れてとろりとしている。その分、蜂蜜は砂糖よりもずっとずっと優しい。吐き気に目を瞑ってミルクティーを一口啜ったら、幾分か気分が良くなった気がした。
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