かえりみちのこと
パンケーキの香りのする部屋で、泥のように眠りたい。その香りがたとえ実験室で科学的に生み出された幸せだとしても、それでもいいと思えるほど幸せの香りに飢えている。つまらないグレーをしたビルがつまらなそうに立ち並ぶつまらない街を、心底つまらないなと思いながら歩くのはもうこりごりなのだ。
満足のいかないファッションに身を包みながら電車に揺られる。服が自分にうまく馴染まなかった日は、自分の見た目の何から何まで気に入らない。聴いている音楽ですらなんだか俗なものに思えてきてしまって、耳からイヤホンを引き抜いた。ゴムの部分がぼろぼろになった有線のイヤホン。雨に濡れた街はゆらりと輪郭を失って、電灯の光を橙に反射させている。今日はひどく疲れてしまった。重たくなった頭にガラス窓の冷たさが心地よくて、もたれかかって目を閉じる。体の隅から隅までが電車と一体化してしまったようで、がたんがたんと響く揺れにぼんやり身を任せた。
あなたにとって幸せの定義ってなんなの、と聞かれても答えられる気はしないけれど、少なくとも私は、生きているだけで幸せだなんて思ったことはない。 ぬくぬくとあたたかい場所で育ってきた分際で何を、とは自分でも思うけれど、そう思っていることについて、嘘はつけない。希望というものを形作られて、可視化させて、押し付けてくるような世の中だから、生きているだけで幸せなんてことがあるはずがない。そんなことを思った。
いつもならのらりくらりとかわせたはずの不幸を、今日はなぜだか真っ向から受け止めてしまった。水を吸った綿を肺にいっぱいいっぱいに詰めこまれているのかと思うほど息が吸いづらい。ただ私の外側が好きなだけだったんだね。好きなのは私のまんなかじゃなかったんだね。口から零れそうになったその言葉は、すんでのところで押しとどまった。
いい経験にはなったのかな、とは思う。よかったこともたくさんある。好きだと思える人も、好きだと思える場所も増えた。けれどどことなく、そんな空回りのポジティブで自分を励まそうとする行為を薄ら笑う、誰かの存在を感じてしまう。
足元にご注意ください。機械的な音を立ててドアが開く。はっとドアから頭を離す。人の淀んだ熱気で暖められていた車内は思考回路を鈍化させるのかもしれない。冴えた空気をゆっくりと吸う。ドアが閉まります、ご注意ください。
いつもにんにくの香りがするごはん屋さんの前を通って、今日の夜ごはんのことを考える。どれだけ嫌なことがあってもどれだけいらいらが募っても、私のお腹はすくのだ。月にぼんやり照らされた雲が、その周りで輪っかになって白く光っている。きれいだな、ただただ、きれい。もしかしたら、明日は満月かもしれない。それまでは生きていようかな、と思った。
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