αρμονία
なんかもうどうでもよくなってきちゃったね、なんて言いながら、彼氏でもない人の部屋のベランダで、夜風に当たっている。それなりに空に近くて、ここから飛んだらぎりぎり死んでしまうんじゃないかな、というくらいの高さ。ずっと向こうのほうでは、開発された駅前がきらきらと港みたいに光っている。
「なんかもうどうでもよくなってきちゃったし、なんかもう何にでもなれるかも」
「あー、逆にね?」
わたしの右隣で彼は、空っぽになった缶をゆらゆら揺らしている。さくちゃんなれるならなんになりたいの。うーん、ギリシャ神話の神とか。なに、ゼウス? えー、太陽神ラー。いやそれギリシャ神話じゃないですお姉さん。えー、そうなの? しょみみなんだけど。しょみみて。
風はぬるくて、星はほとんど見えない。細い月がひとつ、真っ暗のなかにぽつんと船のように浮かんでいるだけ。口のなかにはさっきまで飲んでいたレモンの味のチューハイの、変に甘ったるい香料の後味がべっとりと残っている。
ねえあのねー神谷。酔っていることをいいことにすこしだけ、ほんのすこしだけ発音を甘くする。んー? ほろほろと酔った声色のゆるい相槌が会話にリズムよく挟まる。この声を聞けるのは二人でいるときだけだから、いつもすこしだけ嬉しくなる。
「あのねーわたしね、じつは冥王星から来たんだよね」
「おーおーこれまた急な」
彼はくすくすと笑う。
「じゃあ、さくちゃん宇宙人なんだ」
「んー」
「これまたどうしてそんな遠いところからはるばる地球までいらしたの」
「えっとねー、わすれた!」
「適当だなあ、一大決心でしょそんなの、惑星間のお引っ越しなんて」
「えーうーんじゃああれかも、神谷に会いたくて来たのかも」
わたしのその言葉に彼はふくふくと笑って、わたしたちを取り巻いているゆるい空気をすこし揺らす。俺に会うためだけに冥王星から? そーだよ神谷に会うために来たの。ははは、すごいロマンチック。
彼がいまどんな顔をしているのか、どうしても見てみたいけれど、どうしても見たくなかった。すこし顔を横に向ければ見られるはずなのに、わたしはずっと、手すりにもたれかかって、ぼんやりと遠くの街灯りを見つめている。この距離感が好きだった。彼との距離感。彼との間に流れる時間の流れ方。しあわせでしあわせでしあわせで、ときどき無性に泣きたい気持ちになって、けれど泣いたってどうにもならないから、そういうときは黙ってこうして、涙が目の奥のほうに引っ込んでいくのを待つような。彼はそんなわたしに気がついているのかいないのか、いつもなにも言わないで、もしくは何も言ってくれないまま、そっとわたしのそばにいた。
「ねえ神谷、わたしね」
神谷のことがすきなんだよ、と続けようとする、そうして、やめる。んー、と隣の彼は、相槌を打っているのか打っていないのかわからないくらいの温度の音で返事をする。彼の左手が、彼のぼさぼさに伸びた髪をゆるりと耳にかける。その拍子に、たばこなのか香水なのかよくわからない、なにかのお花の香りが、ふんわりと漂う。
ねえ神谷、わたしのこと好きになってくれる? 訊ねる代わりに、手すりに乗った彼の手に触れる。冷たい手の甲に触れて、彼が逃げないことを確認して、そのまま手のひらまでまわり込む。神谷はそれを拒まずに、指を絡め返してくれる。ただそれだけでよかった。
口の中にべったりと残っていたチューハイの味は、まだその重みを残したまま、消えない。
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