焼畑
焼く前には火が燃え広がらないように火道をつくる。
そのことを、「火道を切る」という
木をきって、木葉(こくば)を掃除しておいていて、火の粉が燃え移らないようにする。
風のない日に焼く。
焼いている間は焼く人とは別に番を置かないといけないことになっている。
番を置かずに山を焼いて、焼かない山に燃え移って、消すのが大変だった。
火は上から順番に点ける。いっぺんに焼いたら怖いから、「じわじわ」焼く。
木を切る作業は男女問わず、手鎌で切ったり、鋸をもってやった。
面積にもよるだろうが、家族単位(4〜5人)ですることもあったよう。
山を焼いた後には麦を植える。麦の後には蕎麦を植える。 ワシらは麦が主食だった。蕎麦は副食だった。
また、ミツマタを植える例もある。その場合は2回に渡って栽培した後、植林に供した。 「一回ミツマタをつくって、切って、そうするとメゴ(芽子?)が出ます。ミツマタの子がえきます。切った株から。それをまた、3,4年したら同じように切って、また蒸すんです。それが終わったら、植林にしました。ミツマタが2回終わったら植林するんです。ヒノキからスギから(植えたりしました)。」
高知県の焼畑農業に関しては、以下のような研究もある。
【参考ー『高知縣の燒畑耕作』横山末吉】