戦時中の食糧事情
うちは田んぼも畑もあって、困ることはなかったけんど、ご飯は麦を食べた。米を食べよったら、政府にやられる、贅沢な言うて。 食べるものがない時代だった。芋を作って食べて耐えた。お麦を製粉所で粉にしてもらって、何かのときには、その粉で団子を作ってもらった。それをみんなで食べた。粉に塩を入れて小さい団子にして汁に入れて煮て、そんなのもみんなで食べた。大人も子供もない。子供でも炊事せないかんかった。 乞食、ものもらいが多かった。百姓の家へ行かんと、食べ物はない。死んだ人もようけおる。今の者に言うても、わからん。言いようがない。町の者は何も作ってないろう。 金毘羅さんの階段の下から上までずらっと並んで座って、ものもらいしよった。どこへ行ってもそんな人がおった。
うちは百姓やったが、ものもらいは後へ後へとようけ来るきね。たくさんはあげれんかった。
自分らぁも麦ごはんばっかり食べた。今は誰の家も米のごはん食べるけど、昔は芋で麦で我慢せないかん。米は食べれん。作りよっても供出せないかんかったきね。ない。芋も何もかも国に取られた。
お父さんが役場の収入役しゆうき、うちが出さざったらいかん。他のくが出さんなる。
お父さんは金を出さん言うて叩かれて怪我してねぇ、入院したこともある。可哀そうやった。
今でも思いよったら涙が出る。とにかく、「兵隊さんに兵隊さんに」言うて全部取られた。
作物を作りながら、食べれざったと言うこと。そういう時代やった。