📚哲孊ず科孊
第䞀章 愛知の心
哲孊ずは「知るこず」であり「思玢するこず」である、぀たり「実践」ではなく「理論」。
p26.哲孊するずは、身䜓を動かすこずではなく頭を働かせるこずなのです。
哲孊ずはものを、ほんずうのものを知ろうずする態床。察象がいかなるものでも、正確、確実に知ろうずする態床。
察象をよく芋るこずは必須で、五感で感じるこずも求められる。そしお考える。珟圚の知識を疑う。
哲孊ずいうのは人に芋おもらうためではなく、ただ自分䞀人でするもの。
芋るこずが必芁で、ただ芋るだけではなく、芋お、そしお考える。芋るだけでは䞍十分。であるず同時に、考えるだけでも䞍十分。
芋るずは、倖にあるものをそのたた受け入れるこず。
そのたた受け入れるのは難しい。どうしおもそこに決め぀けが混じっおしたう。それは過去の蚘憶やすでに出来䞊がっおいる抂念で察象を割り切っおしたっおいる。
ただ芋るずは、驚きずいう感情が䌎うはず。
驚くこずが若人の特暩であるずするならば、哲孊こそ若者の孊問。
哲孊するずはただ考えるこずではなく、単に芋るこずでもない。考えながら芋、芋ながら考えるのが哲孊。
哲孊は、ありずあらゆるものを察象にする。䞀切の存圚を知ろうずするのが哲孊。
理論ず実践ずでは実戊の方が尊い。が、䜕を実践するのかに答えあるものが哲孊。
第二章 哲孊ず科孊の盞違点
哲孊的態床ずは、存圚に察する知性の培底的な闘い。
科孊の察象は、存圚の䞀郚。分けお考えお、分けたものを察象ずする。哲孊は存圚党䜓を察象ずする。
科孊は䞀぀䞀぀の事実から、共通の䞀般法則を芋出す。哲孊はそれら事実の底にある原則をあばきだす。
「法則」は珟象の間にあり、「原則」は珟象の奥にある。
内から知られるものは、意識。
物䜓ずいうものは倖からでないず知るこずができない。
すべおのものが物質であるわけではなく、ゆえに科孊で扱う範疇にないものがある。それが粟神であり意識である、ず蚀いうる。
意識の特色は、刻々ず倉化し、新たなものずなる。これこそ時間ずいうもの。
時間ずは䜕か、を研究するのが哲孊。
哲孊の察象は存圚の党䜓ず本質であり、粟神ず時間である。
存圚の党䜓を察象ずするならば、客䜓だけでなく、それを眺めおいる䞻䜓をも含む必芁がある。
それは、倖から眺めるこずはできない。その眺める䞻䜓も存圚の䞭に含たれおいるから。
客䜓ず䞻䜓を含む存圚の党䜓を知るずいうのは、「自芚」によっおなされる。自分の底にあるものを求めるこずによっお。すなあち反省によっお。
ただそれにより出おくるものが、理論があっおも、それが存圚に結び぀いおいないならだめで、理論を存圚に結び぀けるのが盎感。盎感ずいう認識方法が必芁になる。
choiyaki.iconこの蟺がよくわからないよね。
䞀人の人によっおなされる。
科孊は事実を芳察し、そこから理論を立おる。たず事実から。
芳察のために感芚を鋭くする必芁があり、道具を甚いる。
察象を粟密に正確に知るために、「分析」する。郚分に分けお芋る。
科孊ずは察象を分けお理解しようずするもの。
耇数の人によっお分業的になされる。
第䞉章 哲孊の方法
哲孊においおも、科孊同様他者ず察話しお、協力しお研究する必芁があるのではないか、ずなるかもしれないが、哲孊はあくたでも自己ずの察話。他者ず意芋を亀換し、批刀的な議論がなされたずしおもそれは、他者を媒介しお自己ずの察話を深めおいるに過ぎない。
反省ずいうのは、たず自己を自芚し、自己に぀いお批刀するこず。そしお批刀ずは、事実の可胜の根拠を求めるこず。であるならば、哲孊は、その事実の可胜の根拠を明らかにする孊問。
そうした堎合に問題になるのが、事実の埌を远いかけるだけで、事実の根拠を明らかにするだけで、新しいものを生み出す力がないずされる郚分。消極的であり吊定的。
反省は、行き詰たりや困難、悩みが生じたずき、壁に突き圓たったずきに起こる。が、知的になるほど、自分自身を知ろうずするようになり、自己反省が起こる。
なぜ自己反省するのかずいうず、自己をよりよくするため。倖偎を取り繕うのではなく、ありのたたの自分を眺め、欠点を改めるため。
反省ずは、自己を芋るこずによりより深く自分を掘り䞋げるこず。
choiyaki.icon自分を掘り䞋げるこずが孊問たりうるのはなんでか
反省は、自己批刀であり自己肯定である。が、この二぀は同じではない。
欠点を自芚するため、なので自己批刀。
自分で自分を芋出すこず、なので自己肯定。
珟圚の自己を吊定するこずにより、新たな自分を芋出すのが反省。
芋出すこずにより、自己を意識にのがす。存圚を自芚する。
存圚の自芚。
䞖界における自分の䜍眮を知るこず。
環境や経隓やさたざたな芁因から珟圚を決定しおいる。意識や粟神も。反省はそれらを攟棄し、真の自己を発芋するこず。
choiyaki.icon攟棄しお、䜕か残るのかな
逆に、䞖界すなわち存圚が自己を自芚するこず。で、䞖界の自芚のは䞖界の自己批刀。䞖界が自己を反省するこずが哲孊。
時代批刀の孊。
choiyaki.iconむずい。
「自分の問題は䞖界の問題であり、䞖界の問題は自分の問題である」ずいうのが哲孊の立堎。
なぜなら、反省ずいう方法を甚いお、反省ずいう方法によっおのみ、存圚党䜓を察象にしうる。
科孊のように䜕かしら察象があっお始めるのではなく、最終的には存圚党䜓を扱うが故に、䜕から始めおもいい。
反省によっお自己を芋出し、存圚を自芚する。
ものを知るには、内から知る方法ず倖から知る方法があるが、内から知る知り方を盎感ず呌ぶこずにする。
内から知る、぀たり盎感の察象は、動きのもず、生呜力ずいうか意識ずいうか、぀たりは原動力。
盎感は、感芚や知性を働かせお埗られるものではない。
察象ず䞀぀になり、内から実感するこず。sympathy。
普段ものをほんずうに認識しおいるのではなく、自分が持っおいる抂念のいずれかにあおはめおいるだけ。
これでは察象のほんずうの姿を぀かんだこずにはならない。
抂念関係なく、抂念をぶちこわしお察象ず䞀぀になるこずで、そこに盎感は成立する。
䞀方で、物質の孊である科孊には盎感ずいう方法は適甚できない。
思玢があっお哲孊䜓系が考え出されるのではなく、存圚があっおそれに応ずる論理が芋出される。哲孊は、「盎感」の論理化、䜓系化。
こう考えるず、哲孊は個性的なものずなっおしたいはしないか。
choiyaki.iconたさに、そう思っおお、哲孊を受け付けれおないのはたぶんここに起因する。
個性的なものでいい。個人的ではダメだが、個性的、぀たり違いながら盞通じる郚分があるこずが必芁。
よっお、人間のあるだけ哲孊もある。そうあるべき。
choiyaki.iconやはり明確な答えを぀かめない。じゃあ各々がもっおたらいいではないか。䜓系的に他に提瀺する必芁はないのではず考えおしたう。ただ、そういう個々の個性的なもの、個性的な盎感の䜓系化を知るこずで、それを自分の個性ず混ざり合わせお盎感を倉化させおいけるずころに哲孊の倧事さはあるずいうのは確かに。
第四章 科孊の方法
科孊の方法である分析ず実隓のうちの分析は、本来䞀぀ものを分けお認識するこず。
具䜓的、物質的分割
ただ现かく切断
察象を研究するために郚分に分ける
抜象的芳念的分析
論理的分析
数孊的分析
ずいうように、耇雑な内容を持った察象の内容を玔粋に取り出すこずが分析。
分けるだけでなく、同時に党䜓も芋る。郚分に分けるこずによっお党䜓を芋る。
分析では、察象をいろいろな偎面から眺める。
どこから眺めるか、ずいう立堎が必芁。
ある立堎からたた射圱。
ある立堎から察象を知るためには、蚘号が必芁になる。぀たりは、分析的理解ずは、蚘号による認識である。
分析するこずで察象を芁玠に分ける。その芁玠は他の倚くのものになる芁玠。
特殊なものを䞀般的な芁玠で理解するのが分析。
よっお、絶察に他のものによっお眮き換えられない唯䞀独自なものず、刻々ず新たになるものには分析を甚いるこずができない。
盎感の察象は、生呜の内芳ずしおのみ成立する。分析の察象は反察に、生呜ず時間の理解地は甚いるこずができない。
しかし実は、特殊なものず倉化するものをも䞀般性ず空間性の立堎から理解しようずする。
盎感の察象であるものを。
内的自芚的にしかずらえられないものを、次から次ぞず立堎を倉え、尺床を倉曎しながら察象を様々な角床から芋る。が、それでは栞心に迫りきるこずができない。
が、哲孊ずは別の䜿呜がある。
もう䞀぀の科孊的方法、実隓ずは䜕か。
ベルナヌルの䞀酞化炭玠䞭毒に関する実隓から蚀えるこずは、
事実を正確に芳察する
その事実を説明する理論を構想する
実隓によっお確かめる
もし違えば、別の理論を構想し、実隓する
孊説が生たれる
ずいう四぀の段階を経お、この実隓は完成しおいる。
実隓ずは、事実を調べるこずでなく、科孊者の考えた構想を事実によっお確かめるこず。
自然を特殊な状態においたり、条件を䞀定にしお事実を玔粋に取り出す、ずかは、実隓の本質ではなく実隓の手段にすぎない。
「芳察は事実を確かめるものであるのに察しお、実隓は思想を調べるものである」
自分の孊説を捚おお、実隓を行う。
哲孊に察する科孊の特色は、理論が事実によっお保蚌されおいるこず。
ずはいえ事実は積み重ねおも、実際は間違っおいるずいう可胜性は垞にある。
科孊者は、頭で考え手で実隓する。その䞡方が求められる。どちらか䞀方ではいけない。
芳察、構想、実隓、孊説の四段階
準備段階が芳察、構想。理論の圢成段階が実隓、孊説。
あるいは別の段階も。
芳察、実隓が感芚による認識が求められる。身䜓的。自然に関するもの。自己を消しお受動的に自然を受け入れるもの。経隓䞻矩の立堎。
構想、孊説は理論の統䞀段階。粟神的。人間に関するもの。人間が胜動的に自然を自分の知性の支配䞋に眮くもの。合理䞻矩の立堎。
実蚌性は、敬虔䞻矩ず合理䞻矩の䞡方をうちに含む。
芳察ずは、自然の珟象をそのたた受け入れるこず。
知識が邪魔になりがち。新鮮な心が必芁。
受動的に自然を受け入れる必芁はあるものの、胜動的に倖界に迫っおゆくこずが必芁。それがないず新しいものが芋出されない。
構想は、人間が胜動的に自然を自分の知性の支配䞋に眮く。
事実の䞊に築かれないずいけないが、事実の䞊に築かれおさえいればどんなものを構想しおもいい。
科孊者には芞術家のような感受性ず豊な想像力ず、哲孊者のような匷靭な思考力を持たないずいけない。
構想を倢想しおもいい。それを理論によっお、理性によっお耐えうるものにするこず。
単なる芳察者ず真の科孊者ずを区別するものは、「なぜか」ずいう問い。
偶然を掎めるか吊か、もここにかかっおいる。
孊説は科孊者の思想であるが、事実の䞊に築き䞊げられ、実隓によっお事実による保蚌を埗たものなので独断的な思想ずいうわけではない。
反蚌可胜性に開かれおもいる。
ずするならば、科孊理論は仮説でしかないずなっおしたうが、事実を重んじる実蚌科孊の理論は果たしおどれだけ積み重ねおも仮説でしかないのか。
choiyaki.iconこの蟺りの話は、📚「科孊的思考」のレッスン 孊校お゙教えおくれないサむ゚ンスでも述べられおお、それをさらに詳しく説明しおくれおる。
実蚌䞻矩ずは䜕か。
コント。䞉段階のうちの䞉段階目が「実蚌的科孊的」な段階。
「秩序」ず「進歩」をもち、欠点である「非合理性」ず「非珟実生」を陀こうずするもの。
瀟䌚孊を創蚭。倚くの実蚌科孊のうち、最も具䜓的・珟実的な実蚌科孊は瀟䌚孊であるずした。
実蚌䞻矩は、䞀぀の哲孊の立堎。
実蚌䞻矩ず実蚌科孊ずは違う。
実蚌的ずはどういうこずか。
実蚌的ずは、珟実的。思匁的なものではなく、事実によっお蚌明され、珟実の䞖界に関係する。
実蚌的ずは、圹に立぀。そしお明確である。
さらに、盞察的である。絶察的なものはない、ずする。
絶察的なこずがあるずすれば「すべおのものは盞察的である。これが唯䞀の絶察的なこずである。」
実蚌的ずは、人間を神化する思想。人間䞭心の科孊が、実蚌科孊。
実蚌䞻矩は、「愛を原理に」「秩序を基瀎に」「進歩を目的に」の䜓珟。
実蚌的ずは、盞察的であるならば、科孊的真理も盞察的なっおしたう。それでいいのか。
珟圚を知るのは将来に察しお知識を䞀぀埗るためで、ものを知る目的は未来にある。
予芋するのは、準備をするため。よっお実蚌科孊は、知のためずいうよりかは行動のため。
研究は䜕かのためではない。人類の幞犏のためずか、゚ネルギヌ源を埗るためずかではない。幞犏ずは䜕か、゚ネルギヌ源ずは䜕かが研究察象。でもそうしお圢成されおいく科孊的知識の存圚理由は、玔粋な理論にあるのではなく、実践にある。
盞察的なものを真理ず蚀えるかずいうず、真理ずしお絶察的なものを想定しおいるからそういう質問が出るのであっお、科孊は絶察的認識のためにあるのではなく、生掻のためにあるので絶察的真理に恐れ慄くこずもない。
新しい䞖界ず歎史を䜜ろうずするのが、実蚌科孊。
そこに利己心などは犁物。人類がガッチリず手を組み、暗闇の䞭を䞀歩䞀歩ず前進するのみ。実隓ず分析ずいう明かりをもずに。
分析ずは、察象を他のものずの関係においお理解する知識。
実蚌科孊は、それによっお察象の本質を知るためではなく、䞀定の蚘号の䞋に䞀般的関係におくこずによっお、行動の支配䞋に入れるもの。
䞀぀の仮説にずどたるずいうこずは、科孊を行動のための知識ずする実蚌科孊である限り、それでいい。
哲孊は、察象ず同䞀化するが、科孊は察象を支配䞋に入れる。察象を倉曎しようずする。
哲孊は知るための孊であり、科孊は生掻のための科孊。存圚理由からしお違う。
第五章 哲孊ず科孊の盞補
哲孊ず科孊はどう違うのかをおさらい。
察象ず方法、存圚理由が違う。
察象
哲孊は、存圚の党䜓。本質。時間・動き・その原動力。粟神。
科孊は、存圚の䞀郚分。珟象。静止においおずらえる。物質。
方法
哲孊は、存圚を内から芋る。反省ず盎感を甚いる。
科孊は、倖から芋る。芳察及び実隓ず、分析。
存圚理由
哲孊は、玔粋にものを知るための孊問。
科孊は、生掻を豊かにするための孊問。
哲孊ず科孊はいずれも必芁で、盞補っお完党な孊問になる。たず第䞀には、互いに足りない郚分を補うこずによっお。
科孊の必芁性
行動のためにある。豊かさをうむ。
哲孊はただものを知るため。豊かにするこずが本質ではない。科孊は豊かにするこずが本質。
科孊の䞍完党さ
知り埗ないものがある。分析するために、党䜓をそのたた知り埗るこずはできない。
分析は、静止したものが察象。動きを察象ずしえない。
䞀床もなかったような、真に創造的なものを知り埗ない。
哲孊の必芁性
科孊では知り埗ないものを知るこずができる。か぀、知るこずそのものが存圚意矩である。
哲孊の䞍完党さ
身䜓ず物質ず経枈を察象にするこずは哲孊の本質ではない。ゆえにそれらは察象倖ずなっおしたう。
第二には、哲孊そのもののうちに科孊が、科孊自身のうちに哲孊が含たれるこずによっお。
哲孊が具䜓的になるには科孊が必芁。事実を芳察するこずが必芁。
哲孊の「反省」においおも、科孊の揎助が必芁。
反省では、自分の存圚を深める。がゆえに、その存圚をずらえるには内省的に自分を芋るだけでは䞍十分で、倖から眺めるこずによっお姿を明らかにする。
哲孊者にずっお自然科孊的知識・瀟䌚科孊的知識は必芁ずいうこず。
科孊は事実を基瀎にしおいるが、事実を理論的に説明するこずによっお孊問になる。
哲孊同様の深い思玢が必芁。
たた加えお科孊では察象を支配䞋に眮くこずを目的ずするが、そのためには察象そのものを知る必芁があり、そのずきには盎感がより深く知るために必芁に。
存圚そのものに觊れるために。
科孊理論を考える堎合には、反省が必芁。理論が圓おはたらない事象が出おきたずきなどに、理論そのものが正しいか反省しなければならないから。
存圚ずは䜕かではなく、化孊ずは䜕か、など特殊な存圚や珟象に぀いおの哲孊を特殊哲孊ずいう。
特殊な存圚や珟象そのものの本質を問うのは明らかに必芁。医孊を進歩させるには、医孊の本質や䜿呜が必芁。
孊問ずは哲孊ず科孊を含むものでなければならない。
同じもの、ではない。お互いがお互いを含み、䞀぀になったもので、その点においお哲孊ず科孊の区別は具䜓的には぀かない。
第六章 真理ぞの意志
哲孊者も専門的に科孊者ずしお身に぀けるよう努力すべき。
科孊者も同様、哲孊的詊䜜が必芁であるからしお、専門分野に閉じるこずなく、存圚䞀般に関する知識、぀たり哲孊を勉匷すべき。
が、個人では限界がある。科孊者ず哲孊者が手を取り合うこずが求められる。
「孊問」は人生にずっおいかなる意矩を持぀のか
人間は本来、知るこずを欲する。「真理ぞの意志」こそ人間における最も人間的なこず。存圚の根源をあばき出すこずが目的で、孊問はその目的のためにある。
それだけではなく、この人生を堂々ず歩むためにも、正しいず思われる真理に埓っお実践するこず。
孊問は、存圚の内郚っお理論を芋出し、道埳によっお倖のものを知るために実践が必芁。
道埳においお尊いのは、実践。善の理論ではなく、その実践。
第䞃章 哲孊ず個性
哲孊説が個人の思い぀きではないためには、唯䞀者でありながら盞互に盞応ずるずい぀こずがないずいけない。
科孊的な䞀般性はもたないながら、䞇人に通じる普遍性をもっおいる。
䞉぀の問い、「䜕かWhat」「䜕故にWhy」「劂䜕にHow」。
䜕かは存圚の本質に察する問いかけ、存圚の理由づけに察する問いかけが䜕故に。
䜕故にの答えに完党に答えるこずができず、劂䜕にを問い、察象の本質や根拠を求めるこずをやめ、珟象がどのように珟象しおいくかを明らかにしおいく。これが、科孊の立堎。
劂䜕にを明らかにするためには、䜕かを問う必芁があり、䜕かを明らかにするためには、䜕故にを問う必芁がある。
哲孊は垞に、䞻䜓的でなければならない。自我から出発。これは哲孊は個性的である䞀぀の理由。
哲孊は自己の問題であっお、他人事であっおはならない。他人の問題をも自己の問題ずしお取り䞊げるのが哲孊。自己を砎棄しお、自己ならぬものを問う。
自己は、非我を通しお自己を自芚する。非我が自我の真の存圚蚌拠。
哲孊ず科孊を察比させながら、それぞれの察象ず方法ず存圚意矩を明らかにしおくれる。そこからお互いの䞍完党さを確認し、補い合う関係であるこずが論じられる。
確かに科孊ず哲孊ずの察比から、お互いの違いはかなりわかりやすく述べられおいお、しかも各章のはじめに前の章のたずめを述べるずころから入っおくれおおり、それもわかりやすさに貢献しおいるず感じた。講矩をたずめたものなので、実際講矩のはじめに前回のたずめを述べる、ずいう展開で話しおたからやろうし、初孊者でもわかるように考えられおいるず思う。特に科孊の方法が「分析」であるの説明や、実隓に぀いおの郚分は楜しく読めた。倚分むメヌゞが぀きやすいからやろう。でもやはり哲孊の郚分が具䜓的にむメヌゞするこずが難しく、抜象の階段が3段くらい登られおいる気がしお、難しく感じた。難しく感じ぀぀も、ちょっずは芋えた郚分、腹萜できた郚分があったので、哲孊ずの距離を倚少は瞮めれたのではないか、ず思う。