間違って伝わる部分があるのなら、相手に間違いを認識してもらうことが、何かを理解してもらうことには必須である
指示をしても、それが全員に正しく伝わっていないことがある、というのを雑談で話してて、何においてもそれは言えるよなぁとぼんやり考えていた。
話すことだけでなく、書いたものを読んだとしても間違うことはある。
そしてこのことは、教えることにも当てはまるやろう。
数学を教えたとしても、間違って理解している部分が必ずあるとする。ならば、その間違ってることをわかることが大事ではないか。
理解するためには、間違いを認識することが必要
教えたときに相手が理解したと思っていたとしても、勘違いや間違いをしている場合がある。けどそれは、当人は気づいていない。理解した、わかったと思っているから。
「わかった気」に陥ると、理解から遠のいてしまう
ならば、わかるように伝えることと同じかそれ以上に、間違って理解している部分があることを認知させること、自覚させることが必須ではないか。
むしろ、わかりやすくなくてもいいかもしれない。わかりやすくなくて結果間違って伝わっていても、それを間違ってたんやと気づく機会さえ多く作ることができれば。
わかりやすく伝えることは、相手をわかった気にさせやしないものか
常に間違いはどこかに潜む可能性がある。なので、その間違いにまず気づき、自覚してもらう。そこまで込みで教えていく必要性を感じる。