音楽の真理に近づきたいならば、夜中の12時少し前に十字路にいって、スマートフォンの画面をスワイプするんだ
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「音楽の真理に近づきたいならば、夜中の12時少し前に十字路にいって、スマートフォンの画面をスワイプするんだ。そうすると大柄の黒マントの悪魔がやってきてスマートフォンを取り上げる。そうして彼が画面をタッチして一曲再生してから返してくれる。その時から何でも好きな曲が聞けるようになるんだ。」
ダサいユーザーインターフェースとか、接続が切れるとか、別のアルバムに突然飛ぶとか、そういう不都合はさておき、実はコレ、itunes といった音楽のダウンロード販売と根本的に異なるものです。 「ギターが上手くなりたければ、夜中の12時少し前に十字路にいって、一人でギターを弾くんだ。そうすると『レグバ』っていう大柄の黒マントの悪魔がやってきてギターを取り上げる。 そうして彼がチューニングして一曲弾いてから返してくれる。その時から何でも好きな曲が弾けるようになるんだ。」
魂なんて物騒なものではなく、月々いくばくかの費用と、データを所有する自由と引き換えに、自分みたいな、いわゆる「持たざる者」(音楽にいままでそんなに興味があったわけでもなく、知識も無ければアーカイブ、ライブラリも無く、ましてや資金についても限りがある者)が一瞬にして、ほぼ無限に近い力を掌に握り締めているという恐しい代物なのです。
これはきわめて興味深い体験でした。これまで音楽を聴く際には、例えば CD ショップに行って気になるアルバムをピックアップし、「今日はどれを買おうかな」って考えていたわけですね。欲しいアルバムを5枚選んで、その中から悩みに悩んで2枚落とす、みたいな。これは実は、配信ビジネスの登場後も変わっていません。「楽曲配信でマーケットが変わる」と主張する人もいましたが、僕はそうは感じなかった。マテリアルとしての CD がデータに置き換わっただけで、"選んで、買う"という根本の営為は同じだからです。でも、「Sony Music Unlimited」は根本的に違う。いわば巨大なレコード屋さんの在庫が、手の平の端末にすっぽり収まったイメージ。要は、レコードマニアなら誰もが夢見る「棚のここからここまで全部ください」が実現してしまったわけですね。しかもレコード屋さんと違って、試聴なしで片っ端から聴けるという。大げさではなく、ちょっと怖い気さえするくらい、音楽への接し方の根源的変化だと思っています。 例えばキャリアの長いジャズ・ミュージシャンの場合、生涯に何十枚もアルバムを出しているケースも珍しくありません。その中には当然、スランプや不遇だった時代もあるだろうし。また、名作と呼ばれるアルバムの中にだって「ジャケットはよく見かけるけど、実は聴いたことがない」というものもあるはず。例えばマイルス・デイビスだってジョン・コルトレーンだって、今の若いリスナーには「名前は知ってるけど、どんな音楽だろう」と思ってる人は多いと思うんですよね。ロックだと、フランク・ザッパなんて生涯にめちゃくちゃな数のアルバムをリリースしてますし。ラジオの1曲をきっかけにして、あるミュージシャンの生涯を一気に聴き通せるというのは、やっぱり今まではできなかったことですよね。
電車の中とか、床とかベッドで横になってるときみたいなFirefoxを使うのがムリな状況でもreblogできるようになるところはtumblrライフが変わります。電車の中は多少まわりを気にしない度胸が必要。自分はreblog.ido.nu+AUのアホケータイでreblogしてたけどそれとくらべるとRPMで10倍は早いです(適当推測)。ベッドでノートパソコンを横にしてreblogしたりもしてたけど(ノートパソコンの)安定性が悪くて実用的ではありませんでした。速度ではもちろんFirefox+LDR+ReblogCommandの方が早いです。 もうね、電車の中とか寝ながらとかだけじゃなくて、歩きながらとかね。食いながらとかね。会議で誰かが遅れるから開始も遅れるって解ったらreblogとか。息子と公園に遊びに行って息子がトイレに行ってる間だけreblogとか。iPhone買って要らなくなったiPod touchを水没覚悟で風呂に持ち込んでreblogしようかって思ったりとか。 UNIXという考え方という本で、結局、最高に高性能なPCっていうのは何処でも使えるノートPCだ。っていうのがあったけど、使いたいと思ったときにすぐに使えるということが一番"早い"そして"速い"ってことなんですよね、たぶん。そういう敷居の低さが RPM の高さに繋るという。 掌に握り締めている、とか、ポケットに入っている、とか、そういう事にも大きな意味があると思います。リビングとかベッドサイドではなくて、掌の中にあるということ。いつでも。どこでも。 映画をよく見る。これまでの人生で最も映画に近づいた(物理的に)、iPadを持ち運び、腹筋を鍛えながら、ベッドで横に寝て、トイレで、洗い物をしながら、食事、細切れに、メモを書き。月に50本を超えて。映画館や、テレビの前に座っていなくてはいけなかったとしたら、こんなには見れなかったことと思う、体がつらい。ちゃんと見る、ことを諦めて、信じることを止めて、見える時と見えない時が、柱が邪魔で、時にまどろみ。おもしろい映画が有ることを知った(なぜ、それらが、もっと強力に有名でないのか、早く言っといてよ)、もっとおもしろい映画があるのだろう(すごい人がいて、もっとすごい人もいる、すごい人は実はすごくなかったりする)、見た限りの中でおもしろいと言っていいのか、悪いとしたらいつになったら言えるのか、千本、一万本見た後に、自分は老いて感じ方も変わり、本を10冊しか読んだことがないのにお勧めの本を5冊挙げたりする人がいる、僕は皆が好きにするといいと思う、そのようにしか生きれないのだから。 とにかく沢山の何かを見ること、聞くことの意味(というか無意味)、そういうのをオレも tumblr で学んできました。 多様性比べ、U「全部見てると、やっぱり一定の法則見えてくるよね」、B「いや、一人の人間よりは広い」
一人の人間が本来持てるより広大な世界を手に入れることの意味っていうのは凄い大きいと思います。多様性。今現在の技術や、自分自身の能力が、その広さを使いこなすことが出来ないのだとしても。