アフォーダンス入門
反射、概念にしたがう行為、試行錯誤。19世紀においてもすでに、行為についてはこれら三種の説明が代表的であった。その事情は残念ながら現在においてもほとんど変わっていない。だいたいこの3つの説明を使い分け、組み合わせてできたのが、行為の理論の歴史である。素人から専門家といわれる人まで多くの人がこれらの枠組みで行為について話し合っている。
ダーウィンは、これらの常識がかならずしも動物の行為の本当を言いあてていないことを知った。そして彼は「たった一つの代案だけが残る、すなわち、ミミズは体制こそは下等であるけれども、ある程度の知能を持っている」と結論した。
動物の行為の柔軟性は人間が考え出した説明の枠組みを越えていた。ダーウィンはそのすごさを知って、偏見なしにそれを「知能」とよばざるを得ないと考えた。彼は眼で見ること、つまり観察が人間の考え出す説明の枠をいつも越えてしまうことをよく知っていたが、ミミズの観察でも、眼は常識を越えてしまった。
問題は「知能」という言葉にあるのではない。ダーウィンが見てしまった本当のことがなんだったのかということである。ぼくはこの本でダーウィンが「知能」と呼んだことにもう少し姿を与えたい。次の章ではまず手はじめに、ぼくらのまわりにあることについて、まったく新しい見方を紹介することにしよう。
ぼくらを取り囲むところには行為が利用できることが無限に存在している。
生きもののしていることをわかるためには、生きものがどのようなところで、何に囲まれて生きてきたのか、生きているのかを知らなくてはならない。
波列にあらわれる周波数の時間的な推移によって、ぼくらはビンが「粉々に割れた」のか、それとも床に「ぶつかってはねた」のかを聴きわける。
大気中にある振動は無限である。
自動車の修理を職業にする人々は、まず持ち込まれた車のエンジンの振動にふれる。つまりまず音を聴く。振動が弱い場合には、ドライバーの片方の端を振動部分にあて、他の端を耳にあてて振動を顔の側面で「味わう」。どのような振動がどのような故障の徴候であるのかについては、自動車修理を教える学校ではほとんどあつかわない。なぜなら振動の種類が膨大すぎるし、どんどん変化するエンジンの種類にテキストがついて行けないからだという。だから修理を職業とする人は現場に出てはじめて振動の出来事としての多様な故障にふれる。
放射光は大部分の生きものには情報にならない。生きものの視覚を考えると、放射光は出発ではあっても、そのまま利用されることのほとんどない光の事実である。光が情報になるためには、放射する光が、環境の表面を構成している物の、無数の微細な構造に出会い、種々の方向に散乱させられる必要がある。環境を構成する表面と表面が向き合っているときには、放射光の散乱は繰り返す多重の反射、つまり「残響」を引き起こす。このように光が表面から表面へと終わることなく跳ね返ることで、環境中が散乱する光によって埋めつくされる。このことをぼくらは環境が「照明」されているという。
環境が照明されたとき、大気(水でもよい)の中のあらゆる位置で、交差する光線の集まるところができる。無限の密度をもつ光の集束点のネットワークができる。この大気中に充満する光のネットワークが情報の媒体になる。
明るいとき、ぼくらはこの光のネットワークの中にいる。明るいあらゆる場所は、そこにしかない独特の光のネットワークがある。そこにしかない個性的な光の集まりの中を移動する者が経験するのは、その移動経路にだけしかない特有の光の集まりのつらなりである。ちょうど大地にあった肌理のパタンのように、この光の集まりのつらなりは、そこで起こった出来事の個性を光の事実としてもあらわす。「光の集まりの束とその集合」として照明の事実を考えることで、ギブソンは、見るということが、一人の知覚者だけの一回きりの出来事として起こり、他のだれにも経験できないことだという常識を原理的に打ち破る道をひらいた。
人の動きを変えるのにいつも力がいるわけではない。情報があればよい。
脳にあるのは世界の「地図」ではなくて、世界との関係を調整する働きの一部なのである。