ここ数週間で学んだこと
何があろうと自分が困ることの責任はまず問題を解決できないままにしている自分にあるということ。自由を奪われない限りはきっと解決する方法があると考えてみるべきこと。
自らの意志の理由をよく考える人でも、他人の意志について考えるとき、それは本人の問題であり原因を考えることは責任転嫁であると考えがちであること。
そのように考える人ほど自分の意志の他人への影響は無視しがちであり、言うことをころころ変えがちであること。
価値のない人間の足元を見る人があるので、付き合い方は最初からよく判断しておかなければならないこと。足元を見られたら金銭も友人もすべて捨ててでも、また何を思われようと自分が苦しかろうと自分を守ることだけは諦めないこと。
結果の期待のできない話を持ちかけてくる人は、関係はどうあれどもまた金銭が絡んでいないにせよ、結果的に精神的詐欺師になろうとしていると考えるべきこと。
親しい関係でしか精神的詐欺は発生しないので、親しい人を詐欺師とみなすことを厭わないべきこと。
たとえ約束を結ばされても一方的に守ろうとしてはならないこと。相手が数日以上必要な連絡に応じない、一方的に要求してくる、理由なく頻繁に要求を変えてくる、同意しないことに対して大声を出すなどの場合には約束どころではないので関係解消を伝え返事を待たず関係を切ること。
相手も人間だからと甘く考えないべきこと。人間の多様性をみくびらないこと。自分ならこの範囲におさめるのにと考えてはならないこと。人が結果まで計っていると期待してはいけないこと。
人間関係に求める「当然」はそれぞれ異なるどころか全くかぶっていないことがありうること。
人の言う「私達はこうして当然だ」とは、カードの表に「お前がやって当然」裏に「俺はできなくて当然」と書かれた代物であり、「私達(のうちお前)はこうして当然だ」という意味をなしていることに常に気づくこと。与えられれば破棄し、自らは使わないよう心がけなければならない。
「当然」を破棄し、ルールと意志とを求めなければならない。
人の言う「考える」にはいろいろなものがあること。人間関係について言えば、たとえば「これをした、なのに正当な反応がない、不当だ」と考えることで「してもらったこと、お返しできてないこと、お世話になったこと」を思い返さないで済む状態を作ることがあり、割とよく見られる。これによりかけがえのない対象ほど憎いと感じる暗示状態に陥るので、このような方法で物事を考えるのは避けるべき。考える上では自分の考えを明らかにすることよりも自分が何を考えていないかのほうが有用な情報である。考えていないことのパターンはだいたい決まっていてたいてい誰でも同じ。
「どういう意味?」に対する「それはもう言いました」という答は、「分かっていただかなくてよろしい」という強い意志表示なので、あまり続くようなら言われたとおりに譲歩するよりほかないが、それで理解に生じる問題を引き受けたりはしないべきこと。
「真実に近づきたければ何を考えたかよりも何を考えていないかのほうが大事」と面と向かって相手または仲間内に言うと結構な確率で正気を疑われるけれども、話を第三人称に変えて「あの人はこれしか考えていないからここまでしか見えていない可能性がある」という話し方にするとものすごく賛同されることから見て、人は自分を客観視する前に人の正気を疑う癖があるといえるのではないかということ。