『タコピーの原罪』のアニメを2周見てみたっピ
これって「知っていると想定された主体」の話がふくまれてる? とくにタコピー、東くんそれぞれに。
あらすじ
しずかちゃんは本当は誰かに「どうすればいいか」聞きたいんだっピが、周囲に適切な大人がいないから、その思いをつよく抑圧してきたっピ。どうすればいいかわからなすぎて、不安が極大、抑圧の強度が最大に到達した結果、ハッピーになるにはどうすればいいかを知っていると想定された主体(通常は誰かに投影される)が想像上に構成されタコピーが生まれるっピ。
東くんもしずかちゃんの隠していた想いに応えるかたちで知っていると想定された主体を演じるっピが、東くん自体も同様にどうすればいいかを知らないので、努力していたらそのうち分かるかもしれないという希望にすがっているっピ。
どう読んだか
最初、タコピーは「宇宙人=知っている者=救ってくれる者」の記号として出現するっピ。これはまさに「大他者(大文字の他者)は知っている」という構造だっピ。でもタコピーは徹底的に無知で、彼の「ハッピーアイテム」は惨劇を増幅するだけ。つまり「大他者には欠如がある」ことが暴かれてしまうっピ。「救済を知っているはずの他者」が実は何も知らない、という不条理を突きつけられる。これは「大他者の不在」を体現しているっピ。つまり、「大他者は存在しない(le grand Autre n’existe pas)」というテーゼを、物語として表現しているんだっピ。
アダムとエヴァが知恵の実を食べたことによって「死」「苦痛」「有限性」が世界に入り込んだという神話的設定。これは人間存在の条件として不可避の欠陥を示すっピ。精神分析では「大他者(言語秩序・社会規範)は完全に知っているはずだ」という幻想が、主体の生の支えとなるっピが、現実には大他者も「欠如している」っピ。この欠如に気づき、それを受け入れることは、主体にとって「原罪的体験」に等しいっピ。
タコピーは救済者に見えて、実は何も知らず無力。東くんは知を持つように見えて、実は隠れた暴力性と支配性しかない。しずかちゃんにとっては、どちらも自分を救ってくれる知の主体ではないと知り、最終的に誰も救わないという事実を受け入れざるを得ないっピ。これは大他者の欠如を経験することにほかならないっピ。
人間が世界に投げ込まれるとき、すでに「大他者は欠如している」という条件を背負っているっピ。しかし我々はそれを知らず、「きっと誰かが知っている、救ってくれる」と幻想して生きてしまうっピ。そしてその幻想が破れるとき、主体は「原罪に気づかされる」という構造があるっピ。
結論
タコピーの原罪は、読者に大他者の欠如を徹底的に体験させる物語だっピ。タコピーの無知と東くんの冷酷な知は、両極から完全な他者の不在を暴くっピ。最後に残るのは「欠如を受け入れて、それでも生きるしかない」という事実だけだっピ。
『タコピーの原罪』の「原罪」は、個別の過ちではなく存在論的条件のことだっピ。それは「大他者は存在しない」「誰も完全に知っていない」という事実を受け入れることだっピ。そしてこの受け入れこそが、主体が成長・主体化するための痛烈な契機になるっピ。
本来であれば、子どもが「どうすればいいか」を尋ねられるのは親や教師といった大人だっピが、彼女の環境には「適切に応答してくれる大他者」がいないっピ。その結果、抑圧された欲望が想像的に構成した「知っていると想定された主体」がタコピーだっピ。タコピーの誕生は、しずかちゃんの「助けを求めたいのに求められない」という極限の不安の産物。つまりタコピーは「想像的な大他者」といえるんだっピ。
東くんは「しずかちゃんの苦しみを理解しているように振る舞える」ので、彼女にとって「知っていると想定された主体」を現実に演じる存在になるっピ。
しかし彼自身もほんとうは知らない。彼は家庭の暴力にさらされ、自分の位置を維持するために「知っているかのように振る舞う」しかないっピ。したがって東くんもまた「大他者の欠如」を抱えたまま、「知っている者のふり」をするにとどまるっピ。
タコピーや東くんが最終的に「犠牲になる」「責任を引き受ける」という形で物語を閉じることを選ぶのは、「知っている主体」が存在する、という幻想そのものが維持できないと露呈したからだっピ。その「知っている前提」が壊れるとき、彼らに残るのは「罪を背負うか、自分を差し出す」という行為による出口だけだっピ。
ここで重要なのは、「知っている主体」が私を完全に捉えることはできないことの暴露だっピ。しずかちゃんの「どうすればいいか」という問いは、どんな他者にも完全には届かない。つまり「対象化できない核」がそこにあるんだっピ。
ハッピー星について
ハッピー星は、イメージと全体性の幻想の世界だっピ。
欠如を補うように構成される「完璧な他者」「完全な世界」、主体が「完全性・一致」を夢見る場で、しかし現実には不可能な幻想の星だっピ。苦痛も不安もなく、すべてが「ハッピー」で満たされた理想郷。欠如が存在しない場所。これはまさに 想像界的全体性の幻影。しずかちゃんの「どうすればハッピーになれるか」という問いに対して、象徴界(言語・大人の秩序)や現実界(家庭の暴力・社会の冷酷さ)が応答できないため、想像界に「完璧な場所」が構成されたっピ。
ところがタコピーが介入すると、しずかちゃんの現実はむしろ悪化していくっピ。「無知な善意」という形で現実界の暴力や欠如を直撃してしまうんだっピ。タコピーは、想像界の産物でありながら「現実界の裂け目」を露呈させる存在。言い換えれば、「想像界のファンタジーが現実界にぶつかって崩壊する場」を体現しているっピ。
タコピーは想像界的な全体性の星から来るが、実際には大他者の欠如を暴いてしまう、想像界と現実界をつなぐ境界的存在だっピ。それは、幻想が壊れる瞬間に「現実界」が顔を出す構造に由来するっピ。タコピーの存在そのものが「大他者は存在しない」というテーゼを物語的に表す仕掛けになっているっピ。
ひとりで戻ってはいけない
ハッピー星には、「ひとりで戻ってはいけない」という最も大切な掟があるっピ。「必ず誰かを幸せにして連れて帰らなければならない」というルール。つまり「ミッション完了=誰かを救うこと」が前提条件だっピ。ハッピー星は、欠如なき理想郷、想像界の幻影。「ひとりで戻ってはいけない」という掟には、想像界的全体性を維持するため「他者を巻き込んで完結しなければ意味がない」という立法意図が隠されているっピ。
しずかちゃんのような「どうすればいいかわからない主体」を救うことこそが、タコピーの存在理由だと強制されているっピ。この強制は、想像界的ファンタジーにかかる「全員がハッピーでなければならない」という圧力を象徴しているっピ。
掟とは言語で定められた法=大他者の声。「ひとりで戻ってはいけない」という命令は、タコピーを使命を背負わされた主体として位置づける。しかし物語を通じて示されるのは、その掟=大他者の言葉すら「欠如を覆い隠すための幻想」であること。つまり「大他者の法もまた欠如している」という暴露の伏線だっピ。
「ひとりで戻ってはいけない」は、言い換えると「完全な孤独を認めてはいけない」ということ。だが現実界においては、人は究極的に孤独であり、誰も「完全に知っている他者」など存在しない。掟は「孤独を認めざるを得ない」というリアルを覆い隠す幻想。だからタコピーが最終的に「ひとりで戻る=掟の破れ」を迎えることは、想像界・象徴界の支えが壊れ、現実界の裂け目(大他者の欠如)に直面することを暗喩しているんだっピ。
掟は、物語的表層では、誰かを救わなければ帰れないという使命を示し、想像界的次元では、全員が幸せでなければならないという全体性の幻想であり、象徴界的次元では、大他者の法による強制、そして現実界的次元では、孤独は不可避であり、「ひとりで戻ること」を禁じる掟自体が幻想となっているっピ。したがって「ひとりで戻ってはいけない」とは、「大他者は欠如していない」と思わせるための虚構のルールで、最終的にそれが破られることで「原罪=大他者の欠如を受け入れる」地点にたどり着く装置となっているっピ。