シオランによるドストエフスキーへの言及
その男が、ドストエフスキーにも、また音楽にも、まったく不感症だと聞いて、すぐれた才能の持ち主と知ってはいても、私は会うのを拒んだ。ドストエフスキーか音楽か、どちらかに心を動かしてくれる鈍才のほうが、私にははるかに好ましい。 音楽は世代的にクラシックになるのかもしれないが、ドストエフスキーに関しては作品を読むにつれて分かるようになってきた。 音楽を熱愛することは、それだけで、すでにして一個の告白である。音楽に入れあげている見知らぬ人間のほうが、毎日のように顔を合わせてはいるが、音楽に冷淡な人間よりも、はるかに身元が割れているといってよい
ドストエフスキー作品が好きだと言うことも同じく、自分がどういう人間かを告白することになっているのかもしれない。少なくとも自分に内在するある種の傾向があると表明しているのだ。
ル・コント ──作家はつねに自分について書く、とおっしゃっていますね。どうしてドストエフスキーは、ああいうすべてのものを自分の裡に見出すことができたのですか。 シオラン ──たくさん苦しんだからですよ。彼がそう言っています。それが認識なんですね。私たちが認識を獲得するのは苦しみによってであって、読書によってではない。読書には一種の距離があります。生こそほんとうの経験です。つまり、生において私たちはあらゆる挫折を経験することもできれば、またそこからさまざまの省察も生まれます。内的経験でないものは、すべて例外なくうすっぺらですよ。私たちは何千冊という本を読むことはできる。でもそんなものは、不幸の経験、私たちを震撼させるすべてのものとは違って、ほんとうの学校ではないでしょう。ドストエフスキーの生涯は地獄でした。彼はあらゆる試練、あらゆる緊張を経験した。おそらく彼は、内的経験においてもっとも深い作家です。限界にまで行きました。