沽券税案
松沢祐作『日本近代社会史 社会集団と市場から読み解く 1868~1914』有斐閣 2022 より
地租改正の背景
廃藩置県後も旧領主の税率を引き継いでいて、公平性や安定性を欠いていた。
年代
1872年〜壬申地券→失敗
1873年〜全国的な土地調査に基づく地租改正の本格実施
壬申地券
徴税のために、地価を記入した土地所有の証明書=地券を発行し、その地価の一定割合を税金として徴収するというアイディアは、旧幕臣で、新政府の官僚であった神田孝平(かんだたかひら)が、一八六九(明治二)年、七〇年の二回にわたって提案した沽券(こけん)税案に遡る。沽券とは、近世の都市で、土地を売買する際に作成されていに証文のことであるが、この沽券を徴税の手段として用いるというのが、神田のアイディアであった。
神田のプランは次のようなものである。本来、統一的な税制改革を行うには検地をしなくてはならない。しかし、全国の土地を検地しなおすのには手間がかかる。そごで、土地の価値を評価する基準として、実際に売買される際の地価を用いる。売買地価を記載した沽券を発行し、その一定割合を税としてとればよい、というのである。
しかし、すべての土地が売買されているとは限らない。そのような、売買されていない土地については、所有者自らがが地価を申告することにすればよいと神田は言う。当然、それでは、納税額を低くするために、所有者は相場より地価を安く申告してしまうのではないかかという疑問が生じる。そこで神田が提案するのが、入札法、すなわちオークションを導入するという案である。つまり、所有者が申告した価格を公示し、それより高く買おうとする者が現れたならば、所有者は強制的にその土地を売却させられるか、買い手が付けた値段に地価を改定しなければならない。そして、地価を改定した場合は、その一割を高い値段をつけた買い手に支払わなければならないという懲罰的な措置をとる。そうすれば、すべての土地所有者は、オークションにかけられて安い値段で土地を手放すか、あるいは懲罰的な支出を強いられて損をするかを避けて、相場通りの地価を申告するだろうというのが神田の構想だった。
このように、神田案は、市場メカ二ズムに対する楽観的な信頼に満ちており、オークションを仕組みとして組み込んでおけば、実地調査を行わずに、土地所有者からの自己申告だけで地価が定まり、その地価に属税すれば税金が集まるという構想だった。検地=土地調査という手間を省いて、一気に公平な税制を実現できるというのが神田案のポイントだった。
入札された場合、強制売却or地価改定
地価改定する場合は改定価格の1割を入札者に払うというペナルティ
壬申地券の失敗
しかし、結果的には王申地券の発行は失敗に終わった。神田案をもとに大蔵省が立案した方針は、結局机上の空論であったのである。地券発行作業が始まると、全国の府県から、計画通りに作業が進まないという報告や問い合わせが、次々と政府に寄せられるようになる。
問題点
従来の年貢額をそのままにして、地価だけを決定しようとした。
一八七二(明治五)年九月二日に浜田県から政府に寄せられた問い合わせでは、次のようなことが述べられている。「政府の指示では、年貢額は据え置いてまず地価を確定せよとのことである。(以下省略)」
土地の場所・面積・所有者を確定することがそれほど簡単ではない。
一八七二年一一月七日、福岡県は政府に「検地帳と、現在実際に持ち主であると言われている人を比較しても、八割から九割は一致しない」という趣旨の報告をしている
近世の村で、土地の帳薄が現状と一致しなくなることはしばしば生じた。村請制のもとでは、領主にとっては村単位で土地が把櫃できていれば問題はなく、土地の帳簿が現状と一致しなくとも、当事者たちの間で問題が生じなければ放置されてきたから
その後
結局、このような問題の多発によって、壬申地券発行方針は撤回に追い込まれた。一八七三(明治六)年七月二八日、あらためて地租改正法が公布され、実地調査を行い、収穫量から地租額を確定する方法が導入された。結局、所有者の自己申告だけで租税改革が可能であるという構想はついえた。
あくまで"地検を行うことなく税を決められる"という点に注目されており、私有財産=独占の非効率性の観点から提案しているラディカル・マーケットとは違った
結局地検を行って収穫量から地価を算出し、それに応じた地租を確定させる仕組みに移行した。
もっと調べる→
福島正夫『増訂版 地租改正の研究』有斐閣 1970
松沢裕作「壬申地券と村請制」『社会経済史学』七八巻四号 2013年
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